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2013年1月31日(木)

国民とともに真実を伝え85年

1928年〜2013年

「しんぶん赤旗」創刊記念日

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 「しんぶん赤旗」は2月1日、創刊85年を迎えます。「赤旗」はいつの時代にも国民の苦難に寄り添い、たたかう人々のよりどころとなってきました。どんな弾圧、迫害にも屈せず、タブーなく真実を伝え、現状打開の展望を示してきました。巨大メディアが体制擁護の深い堕落に陥る中で、「闇夜のなかで輝く理性と良心のたいまつ」としての役割は、これまでにも増して重要になっています。85年の歴史に裏打ちされた「赤旗」の役割をみてみました。


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(写真)日本帝国主義の中国侵略戦争を告発する「赤旗」

戦前 弾圧に屈せず、反戦貫く

 「赤旗」が創刊されたのは1928年2月1日。当時の日本社会は天皇が絶対的な権力を持ち、国民は無権利状態に置かれ、自由も民主主義もない時代でした。侵略戦争反対、主権在民を主張すること自体が犯罪とされるなか、党の主張をストレートに国民に伝えるため、非合法での発行に踏み切ったのです。

 1931年9月18日に起きた「満州事変」をめぐって、その「赤旗」の真価が発揮されました。中国奉天郊外の柳条湖で満州鉄道の線路が爆破された事件で、現地におかれた日本軍=関東軍は「爆破は中国軍隊の行為」として、中国への侵略を始めました。しかし実は関東軍自体による爆破でした。

 ところが、大手各紙は「奉軍満鉄線を爆破 日支両軍戦端を開く 我鉄道守備隊応戦す」(「朝日」)、「支那軍満鉄を爆破し奉天の日支両軍激戦中」(「毎日」号外)と関東軍の主張をそのまま垂れ流して、戦争の旗振り役をつとめ、日本を十五年戦争へと導いていきます。

 これに対して「赤旗」は、「ブルジョア新聞雑誌は口を揃へて今度の戦争の『原因』を支那兵の『横暴』『日本を馬鹿にした態度』等々に見出してゐる。そして満鉄の一部の破壊を以て『事変の原因』と決めてゐる。然し乍らそれは全然虚偽である。真の原因は日本帝国主義者が当面してゐる危機を切抜ける為に新しい領土略奪の為の戦争を準備してゐたところにある」(10月5日付)と伝えています。この事件の本質を、準備された侵略戦争とずばり見抜いていたのです。

 「赤旗」は、相次ぐ弾圧で1935年2月20日、187号をもって発行不能に陥るまで、戦争反対、植民地独立の立場から訴え続けました。

 迫害の嵐の中でも原点を貫いた戦前の日本共産党の存在は、当時の知識人が自分の位置を推しはかる「北斗七星」にたとえられました。

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(写真)4割台の得票で8割の議席――小選挙区制を告発した73年4月15日付「赤旗」1面

小選挙区制 「二大政党づくり」と対決

 国民の生活向上より大企業の利益優先、日米安保条約にしがみつき何でもアメリカいいなり―戦後60年続く自民党型政治の補強・延命のためにたくらまれてきた小選挙区制の導入と「二大政党づくり」。「赤旗」は、それに正面から対決してきました。

 自民党・田中角栄内閣は1973年、突如小選挙区制法案の提出を準備。「赤旗」は政府案では4割台の得票で8割の議席を得る試算を発表するなど廃止に向けたキャンペーンを展開しました。このときは多くのメディアも反対にまわり、そのもくろみはつぶれました。自民党は“「赤旗」にやられた”とくやしがりました。

 この教訓から自民党は巨大メディアの取り込みをはかり、89年に発足した第8次選挙制度審議会にはメディア関係者12人が参加(総員27人)。8次審は90年に現行の衆院選挙制度となる「小選挙区比例代表並立制」を答申したのです。

 それ以降、巨大メディアが小選挙区制を「政治改革」と称して推進する大キャンペーンを展開しました。これに対して「赤旗」は、小選挙区制が民意を極端にゆがめ、議席に結びつかない大量の「死票」を生みだすこと、世界では比例代表が大勢であり、時代遅れの制度であることなど問題点を次々明らかにしてきました。

 小選挙区制が導入されてから6回の総選挙が行われましたが、「赤旗」が当初から指摘してきた小選挙区制の害悪は回を追うごとに深刻になっています。

 「赤旗」(2012年2月20日付)には自民、公明、たちあがれ日本、社民、新党改革などの各党国会議員が登場し「現行制度のもとで政治が劣化した」「民意を圧縮することは許されない」として、民意を公正に反映した選挙制度を口々に求めました。しかし、メディアから反省の弁は一言も聞かれません。

 03年総選挙から本格的に開始された「二大政党づくり」でも、巨大メディアが「政権 自民軸か民主軸か」(「毎日」)など礼賛・推進する異常な役割を果たしました。

 これに対し「赤旗」は、「二大政党づくり」のシナリオは財界が書いて進めたものであり、自民党が失敗したときでも、自民党政治を受け継げるスペア政党づくりが狙いであること、「マニフェスト選挙」はその仕掛け作りであることなどを特集や連載記事で暴いてきました。

 財界が狙った「二大政党づくり」は、民主党政権の失敗で破綻。主導した経団連は1月に発表した「政治改革」提言で「経験不足の新人議員が散見されるようになっている」といわざるをえなくなっています。

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(写真)オスプレイ配備に関するスクープを報じる「赤旗」

日米安保 廃棄の立場でタブーなく

 「緊密な日米同盟の復活」を掲げる安倍首相に、沖縄の本土復帰運動以来の「建白書」を手渡す沖縄県民代表―。通常国会初日、オスプレイ配備撤回・普天間基地撤去を求めた沖縄の行動は、日米安保条約をめぐる「限界点」を示しました。

 米海兵隊の垂直離着陸機オスプレイをめぐって、その構造欠陥を最初に明らかにしたのは本紙2011年6月24日付で紹介した元国防総省の専門家リボロ氏の証言でした。エンジントラブルの際、安全に着陸できないとした同氏の証言は衝撃を与え、沖縄県議会で全議員に配布。配備反対の全会一致決議の原動力になりました。

 オスプレイの低空飛行訓練が全国で計画されていることを他紙に先駆けて報じたのは、本紙昨年6月14日付でした。この無謀な計画が全国で怒りを呼び、同機の相次ぐ事故とあいまって配備反対の世論を大きく盛り上げました。

 こうした記事をスクープできるのも、「赤旗」が日米安保廃棄の立場に立ってタブーなく米軍の横暴や基地被害に切り込める唯一の全国紙だからです。

 露骨な日米同盟強化の立場に立つ「読売」「産経」「日経」などはもちろん、「朝日」「毎日」も日米安保を絶対視。民主党政権下では、普天間基地の「県外移設」論をこぞって「日米同盟の危機」だとあおって撤回を迫りました。2010年の安保条約改定50周年では、「朝日」が「『同盟も、9条も』の効用」と9条と同列に並べ、「毎日」が「重層的深化の実上げよ」と主張しました。

 米国との核持ち込み密約の問題でも、民主党政権下で外務省有識者委員会が密約の存在を認めながらも、「解釈のずれ」とごまかしたのに対し、「読売」は歓迎し「日米同盟強化へ生かせ」と主張、「朝日」も前年夏から「解釈のずれ」論を展開して流れをつくったのでした。

 これに対し、2000年の党首討論で当時の不破哲三委員長が明らかにして以来、核密約の全貌を伝えてきたのが「赤旗」です。

 60年の安保改定での「7社共同宣言」以来、安保のタブーに屈してきた巨大メディアとの対比は明確です。

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(写真)昭和三陸大津波の被災地での救援活動を呼びかける「赤旗」1933年3月15日付

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(写真)東日本大震災被災者の声を丁寧に聞き取った系統的な実態調査を報じる「赤旗」

震災・災害 被災者に寄り添い救援

 「東北北海道罹災(りさい)民救援闘争をおこせ!」―。

 1933年3月の昭和三陸大津波後の「赤旗」(せっき)15日付での呼びかけです。当時から一昨年3月の東日本大震災に至るまで被災者の思いに寄り添い、精力的な災害報道で被災者本位の復旧・復興や防災対策の拡充を追求してきました。

 昭和三陸大津波のさいは、31年に「満州事変」をおこした天皇制政府に対し「大軍事予算、国防献金を救済にあてよ」「罹災地出身兵 四百名をすぐに帰せ!」(ともに15日付)と訴えました。侵略戦争反対を掲げた党と「赤旗」ならではの主張です。被災者の具体的要求を示して救援活動を呼びかけ、救援よりも党や民主団体の活動の弾圧を優先した政府を批判しました。

 戦後まもない福井地震(48年6月)でも米占領軍が弾圧を行いました。県外から救援に駆けつけた党員を県外に強制連行するなどの行為を、「明白な憲法違反」(7月14日付)と告発。弾圧を恐れずに救援運動を広げました。

 自宅が水没しながらも救援活動に奔走する党員、泥海にこぎだしたボート上で不眠不休の治療にあたる党派遣の医療班、各地での募金活動――。59年の伊勢湾台風では、党員や民主団体の奮闘を写真付きで報じ、被災者を励ましました。

 生活再建の個人補償を求める多くの声を受け、住民運動を応援。95年の阪神・淡路大震災をへた98年の被災者生活再建支援法の成立に貢献しました。その後の改正で住宅本体にも使えるように認めさせ、不十分ながら最高額を300万円に引き上げる力となりました。

 東日本大震災では300人規模の被災者実態調査を系統的に実施しています。「水産特区」構想などを押し付けようとする悪政に抗し、漁協や農協、医療団体の各代表らのインタビューを連打。災害救助法の活用を広く知らせると同時に、党の地方・国会議員と連携した支援拡充の提起は政府からも評価され、取り入れられました。

 「国民の苦難あるところ『赤旗』あり」。大災害のときも、その立場を貫いてきたのが「赤旗」の歴史です。

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(写真)「原発」報道の「赤旗」

原発 一貫して危険性を追及

 昨年9月25日、新たに発足した原子力規制委員会が記者会見から「赤旗」を排除する方針を明らかにしたとき、その不当性を指摘し、撤回を求める声が広く巻き起こりました。規制委は理由を二転三転させたあげく、強まる世論の前に1週間で引っ込めざるを得ませんでした。原発の問題点と危険性を早くから追及してきた「赤旗」への国民の信頼を示すできごとでした。

 一昨年3月11日に起きた東京電力福島第1原発事故は、「安全神話」にどっぷり漬かって日本の原発が地震と津波に対して何の備えもしていなかったことを白日のもとにさらしました。日本共産党と「赤旗」は、この問題を一貫して取り上げ、対策を取るよう求めてきました。

 1981年には不破哲三書記局長(当時)が国会で東海地震の想定震源域の真上に建つ中部電力浜岡原発について質問。地震地帯に原発をつくる無謀さを徹底的に解明しました。2006年には吉井英勝衆院議員(同)が、原発が地震と津波に襲われたとき電源喪失や冷却不能に陥り過酷事故に至る危険があるとして対策を求めました。

 「札束で頬をたたく」といわれるほど無理やり進められた原発建設に対して、各地で住民の反対の運動が巻き起こりました。東北電力巻原発(新潟県巻町=当時)建設計画など、「赤旗」は常に住民の立場にたってたたかいを報道し、励ましました。

 2011年7月2日、九州電力玄海原発の運転再開に向けて6月末に行われた経済産業省主催の佐賀県民への「説明番組をめぐる「やらせメール」事件をスクープしたのも「赤旗」です。それをきっかけに運転再開は頓挫。2012年5月5日、国内で稼働する原発がゼロとなる画期的な日を迎える大きな原動力の一つとなりました。

 「赤旗」は、毎週金曜日、官邸前で行われている「原発ゼロ」を求める行動と、これに連帯した全国各地の行動を系統的に報道している唯一の新聞です。

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(写真)政府試算を使って「社会保障・税一体改革」が家計に与える負担を告発。2012年11月18日付3面

消費税 導入にも増税にも反対

 昨年8月、民主・自民・公明3党は談合によって消費税増税法の採決を強行。自公政権は、法律通り消費税率を2014年4月に8%、15年10月に10%へと引き上げるつもりです。消費税増税は国民生活を苦しくし、日本経済をさらに悪化させます。引き上げが決まった後も反対の世論は多数を占めています。

 日本共産党と「赤旗」は消費税の導入にも増税にも一貫して反対。「消費税に頼らない別の道がある」として、軍事費にメスを入れ不要不急の大型公共事業をやめるなど歳出面でも、大企業優遇税制の見直しや所得税の累進制強化といった歳入面でも、対案を示してきました。あわせて「国民の所得を増やす」経済改革を主張してきました。

 現在の消費税につながる一般消費税の導入が画策されたのは1979年、大平正芳内閣でのこと。これに対し、全国商工団体連合会はじめ、全日本小売商団体連盟や日本チェーンストア協会などを含めた幅広い共闘で反対しました。「赤旗」は、財政難を国民にしわ寄せすることは許されないと追及し、国民本位の財政再建が可能だと明らかにしてたたかいました。同年10月の総選挙で自民党は惨敗。日本共産党と革新共同は19議席から41議席へと大躍進し、導入を阻止する力となりました。87年の売上税策動(中曽根康弘内閣)の際には、円高不況に苦しんでいた業者を中心に反対運動が広がり、各地のデパートには「売上税反対」の垂れ幕が下がりました。

 89年の消費税導入、97年の消費税率引き上げの際にも日本共産党と「赤旗」は多くの国民、幅広い業者とともに反対運動を担いました。

 政府は消費税率10%への引き上げを決めたあとも、「更なる消費税率引き上げは不可避である」(2013年度予算編成に向けた考え方)としています。同時に、税率引き上げの口実とした社会保障については解体をもくろみます。他の主要紙が社説などで消費税増税をあおる一方で、新聞への軽減税率を求めるなどモラルハザード(倫理の欠如)を起こしているもと、「赤旗」の役割はますます大きくなっています。

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(写真)夢の島に放置される第五福竜丸を報道する1968年3月2日付「赤旗」

第五福竜丸と「赤旗」

 東京都江東区にある都立第五福竜丸展示館の入館者が、今月、500万人を突破したことが話題をよんでいます。同船の保存・展示に赤旗記者が深くかかわっていました。

 日本のマグロ漁船「第五福竜丸」は1954年3月、米国が中部太平洋のビキニ環礁でおこなった水爆実験で被ばくしました。

 同船はその後、政府が買い上げ、船名を「はやぶさ丸」と変えて、東京水産大学の練習船として使用。67年に廃船処分となり、東京・江東区のごみ処分場だった夢の島の泥水に捨てられ、沈みかけていました。

 68年にこれを発見したのが、当時本紙記者の白井千尋氏(故人)でした。本紙はこの発見を大きく報じ、保存運動を広げる力となり、76年6月、夢の島の都立の展示館創設につながりました。

 白井氏は後にこう語っています。「自民党政府は、世界に一つしかない水爆被災の証人とも言えるこの船を保存し、原水爆禁止を世界に訴える代わりに、これをゴミの海に放置し、沈めようとしていた。間一髪、第五福竜丸の運命を救ったのは、赤旗の報道とそれに続く全国に広がった永久保存の運動であった」

 「赤旗」は、唯一の被爆国の責務に立って核兵器の危険と廃絶の必要を訴え、日本と世界の世論とむすんで原水爆禁止運動を広げる報道をおこなってきました。


闇夜に輝く理性と良心のたいまつとして

原点揺るがさぬ「北斗七星」

鶴見俊輔さん

 九条の会呼びかけ人の一人、鶴見俊輔さんは、迫害の嵐の中でも侵略戦争反対、主権在民の原点を揺るがさなかった戦前の日本共産党を「北斗七星」にたとえました。

 「すべての陣営が、大勢に順応して、右に左に移動してあるく中で、日本共産党だけは、創立以来、動かぬ一点を守りつづけてきた。それは北斗七星のように、それを見ることによって、自分がどのていど時勢に流されたか、自分がどれほど駄目な人間になってしまったかを計ることのできる尺度として、一九二六年(昭和元年)から一九四五年(昭和二〇年)まで、日本の知識人によって用いられてきた」(岩波新書『現代日本の思想』1956年刊)

真っ暗闇の海照らす灯台

米倉斉加年さん(俳優)

 俳優の米倉斉加年さんは、「赤旗」創刊80年に寄せた談話で、こう語りました。

 「八十年前といえば、私の生まれる七年前。当時は弾圧に耐えて発行を続け、物を包んで、あるいは靴の中に隠して運ばれ読み続けられました。『赤旗』は、暗い道の行く手を照らすともしびであり、真っ暗闇の海を照らす灯台でした」「これからも、真の人間の言葉を書き続けてください。私たちの心の支えになってください」(08年1月24日付)

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