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2012年7月20日(金)

日本共産党創立90周年記念講演会

社会変革の事業と日本共産党――歴史に学び、強く大きな党を

志位委員長の講演

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 日本共産党創立90周年記念講演会(18日)での志位和夫委員長の講演は次の通りです。


写真

(写真)講演する志位和夫委員長

 参加されたみなさん、インターネット中継をご覧の全国のみなさん、こんばんは(「こんばんは」の声)。ご紹介いただきました日本共産党の志位和夫でございます(拍手)。きょうは、たいへんお暑いなか、会場いっぱいの多くのみなさんにご参加いただき、まことにありがとうございます。私からも心からのお礼を申し上げさせていただきます。(拍手)

 まず冒頭に、九州を襲った豪雨災害によって、犠牲になった方々への深い哀悼の気持ちをのべるとともに、被災者の方々に心からのお見舞いを申し上げます。救援・復旧のため、政府に万全の措置を取ることを求めるとともに、党としても被災者支援のために全力をつくす決意をまず申し上げたいと思います。(拍手)

 私は、きょうは、「社会変革の事業と日本共産党」というテーマでお話をさせていただきたいと思います。日本の社会のなかで、また新しい歴史をつくる社会変革の事業のなかで、日本共産党は、いったいどういう使命を担い、どういう役割を果たすのか。この党を強く大きくすることは、どういう意味をもっているのか。党創立90周年にあたってお話をさせていただきたいと思います。どうか最後までよろしくお願いいたします。(拍手)

1、立党の精神と、被災地での日本共産党の奮闘

 まずお話ししたいのは、日本共産党が、その時々の「国民の苦難を軽減し安全を守る」ということを、立党の精神として、活動している政党だということであります。

 東日本大震災から1年4カ月がたちました。この間、岩手県、宮城県、福島県、被災3県のどこでも、この立党の精神に立った日本共産党ならではの奮闘が続けられています。どれも素晴らしい奮闘ですが、きょうはとくに二つのたたかいを紹介したいと思います。

宮城県・石巻市――日本共産党支部が復興の拠点に

 一つは、最大の犠牲者を出した宮城県・石巻市を中心とする東部地区党組織の奮闘であります。

 ここでは多くの同志たちが、家族、親戚、友人を失い、自らも被災するなかで、大震災の直後から懸命の救援活動に立ちあがりました。全国から、のべ8千人をこえるボランティアが救援にかけつけ、3万2千人の被災者の方々に救援物資をとどけました。被災者の悲しみ、不安、思いを受け止め、奮闘する共産党の姿を見て、市民のみなさんのなかに「一番苦しい時に来てくれたのは共産党」という信頼と評価が広がりました。

 こうしたなかでたたかわれた昨年11月の県議会議員選挙で、日本共産党は、定数5の石巻・牡鹿選挙区で堂々3位で初議席を獲得しました(拍手)。この勝利をきっかけに、「復興のためにも大きな党が必要だ」と新しい党員を迎える運動にとりくみ、きょうまでに114人の新しい同志を迎えているとのことであります。「米粒ほどでもいい、みんなの役に立ちたい」、「震災後に学んだのは、誰かのためにということ。共産党はそれを実感できる政党だ」――そういう思いを党に託し、つぎつぎに新しい仲間の輪が広がり、仮設住宅に五つの共産党支部が誕生しました(拍手)。この党支部が「住まいと復興を考える会」を、仮設住宅ごとにたくさん開き、それを契機に、災害公営住宅の建設を求める運動が広がっています。日本共産党と、党支部が、復興にとっての文字通りの拠点となっていることは、私たちの誇りであります。(拍手)

福島県の県議団を先頭にした奮闘――史上最悪の原発事故のもとで

 いま一つは、福島県の日本共産党県議団と党組織の奮闘です。

 福島県では、政府の「収束宣言」とはまったく反対に、被害がなお拡大しつづけています。避難者は、県内10万人、県外6万2千人、家族も、地域社会もバラバラにされ、先の見えない困難な生活を強いられています。とくに、政府の「収束宣言」以降、あらゆる施策や賠償が現場の実態をおきざりにして「収束方向」に向かいつつあることに、県民の深い怒りが広がっています。

 こうしたたいへんな困難のなかで、昨年11月の県議会議員選挙で5人に躍進した県議団を先頭にした、被災地の日本共産党の奮闘は素晴らしいものであります。(拍手)

 県議選で最大の公約の一つに掲げた「18歳以下の医療費無料化」について、党県議団は、12月議会、2月議会で、県外への子どもを連れての避難が止まらない深刻な実態を訴え、「国がやろうとしないならば、県独自でも実施せよ」と繰り返し強く迫りました。ついに「県独自で実施する」との知事の答弁をひきだし、今年10月から県内全市町村で実現することとなりました。(拍手)

 福島県の党組織は、事故直後から、「県内原発10基すべてを廃炉にせよ」と要求し、県民とともにたたかってきました。こうしたなかで、昨年7月の県「復興ビジョン」には「原子力に依存しない社会づくり」が明記されました。さらに、11月の県議選直前の県議会では、新日本婦人の会のみなさんが提出した「10基廃炉」を求める請願が、最後には自民党も賛成に回って全会一致で採択されました(拍手)。そして選挙後、躍進した県議団は、知事に「10基廃炉」を求めよとの申し入れをおこないました。知事は、翌日の記者会見で、12月に策定する県の「復興計画」に「10基廃炉」を国と東京電力に求めることを明記すると表明しました(拍手)。こうして、「原発ゼロ」は、「オール福島」の揺るがぬ声となったのであります。(拍手)

 私は、政府に対して、福島からの「原発ゼロ」の声を重く受け止め、「原発ゼロの日本」への政治決断をおこなうことを強く求めるものであります。(大きな拍手)

 避難区域から避難して帰還を切望する県民も、避難先での定住を求める県民も、長期被ばくの不安から自力避難した県民も、不安を抱えつつ残ることを決めた県民も、みな被害者であり、同じ日本国民であり、分断の線引きをすることなく、ひとしく支援する義務を果たすことを、政府に強く求めるものであります。(拍手)

大震災・原発事故からの復興――二つのよびかけ

 大震災・原発事故からの復興は、長期にわたるたたかいです。私は、この場で、二つの呼びかけをおこないたいと思います。

 第一は、すべての被災地への支援の募金とボランティアを引き続き強めるということであります。党として呼びかけた募金は、現在までに10億円を超えました(拍手)。全国からのボランティアは、今年に入ってさらに広がりまして、のべ2万8千人を超えました(拍手)。若いみなさんが多数参加してのボランティア活動は、青空市、物資届け、要望の聞き取り、文化行事、泥出しなど、多彩な活動で被災地への大きな励ましとなっています。継続して発展させることを心から呼びかけるものであります。(拍手)

 第二に、「原発ゼロの日本」をめざす運動が、いま空前の規模で発展しつつありますが、私は、この運動が、「原発ゼロの日本」とともに、原発事故で苦しむ福島のすべての被災者を支援し、福島の復興を支援することを運動の柱にすえることを、心から呼びかけたいと思います(拍手)。戦後、日本の原水爆禁止運動は、核兵器全面禁止とともに、被爆者援護・連帯を運動の大きな柱にして発展してきました。ここには重要な歴史的教訓があると思います。「原発ゼロの日本」をめざす運動が、「福島の被災者支援、福島復興」を掲げ、つねに福島の苦しみに心を寄せて発展していくことを願うとともに、私たちもその一翼をになって全力をつくす決意をここに表明するものであります。(大きな拍手)

2、社会変革の事業と日本共産党の三つの役割

 つぎにお話ししたいのは、社会変革の事業のなかで、日本共産党はどういう役割を果たすかという問題です。

 私たちは、日本社会が直面する課題は、「アメリカいいなり」と「財界中心」という古い政治の「二つの害悪」を断ち切って、「国民が主人公」の新しい日本をつくる民主主義革命だと考えています。さらに、真に自由で平等な人間関係からなる社会――社会主義・共産主義社会への前進をはかることを展望しています。

 これらの社会変革の事業をすすめる主体、主人公となるのは誰でしょうか。いうまでもなく主権者である国民自身であります。そして、国民の大多数の意思のもとに、国民多数の参加によって、一歩一歩、社会変革を進める――多数者革命こそが、私たちのめざすものであります。

 それでは、日本共産党はどういう役割を果たすのか。なぜ共産党が必要なのか。私たちは、国民の多数者が社会変革の事業に参加するようになるためには、日本共産党がつぎの三つの役割を発揮することが大切だと考え、その立場で努力しております。

第一。先々にわたる展望を示す――「先見性」を発揮する

 第一は、「先見性」を発揮する――当面のことだけでなく、先々にわたる展望を、科学の立場に立って見定め、国民の前に示す役割を果たすことであります。

「経済提言」――「消費税に頼らない別の道がある」という展望示す

 たとえば、消費税問題をめぐって、国民にほんとうの展望を示している党はどの党か。

 私たちは、民主、自民、公明の3党談合で進められようとしている消費税大増税の道は、国民に耐え難い苦難を強いるだけでなく、日本経済を壊し、結局は財政もいっそうの破たんに落ち込ませる、先のない道であるということを、明らかにしてまいりました。

 そして、2月に発表した「経済提言」で、「消費税に頼らない別の道がある」――無駄遣いの一掃と「富裕層と大企業への応分の負担」など応能負担の原則にもとづく税制改革、「国民の所得を増やす経済改革」――この二つの柱の改革を同時並行で進めるならば、消費税に頼らなくても社会保障を充実し、財政危機を打開することはできることを示してきました。この道こそが、閉塞(へいそく)を打破して、国民に明るい展望と希望を示す道だと、私たちは確信しております。(拍手)

 ここで強調したいのは、「増税の前にやるべきことがある」ではなくて(笑い)、「消費税に頼らない別の道がある」――ここが大事なところだということであります。(大きな拍手)

 「増税の前にやるべきことがある」という主張からは、率直に言って明るい展望や希望が見えてきません。

 第一に、この主張では、「やるべきこと」をやった後には増税が待っています(笑い)。「消費税増税」という同じ道で、順番を入れ替えるだけのことではありませんか。

 第二に、「やるべきこと」の中身が、「身を切る改革」の名で、公務員の定数と給与の削減、衆議院の比例代表の定数削減など、国民の暮らしと民主主義を壊すものとなっています。この主張の「元祖」を名乗っているみんなの党などは、社会保障費をなんと2割、総額6兆円も削るという、荒唐無稽、かりに実行したら医療も介護も年金も、土台から崩壊するような主張までしています。

 「消費税に頼らない別の道がある」――このことを正面から知らせきってこそ、国民はたたかいの展望をつかむことができると思います。そういう「先見性」を大いに発揮して、大増税ストップのために奮闘する決意であります。ともにがんばろうではありませんか。(大きな拍手)

「外交ビジョン」――日米安保の是非は避けてとおれない問題に

 米軍基地問題で、国民にほんとうの展望を示している党はどの党か。

 沖縄・普天間基地へのオスプレイ配備が大問題になっています。墜落事故を繰り返して、「寡婦製造機」といわれる危険な軍用機の配備にたいして、沖縄では「島ぐるみ」の怒りが広がり、県民大会の開催が決まりました。低空飛行訓練がおこなわれる本土でも怒りの声が広がっています。

 重大なことは、日米両国政府が、オスプレイ配備を、もっぱら「日米安保条約上の権利」を盾に押し付けようとしていることであります。しかしみなさん、そうすればするほど、必然的に「日米安保の是非」が問われてくることになるではありませんか(「その通り」の声、拍手)。琉球新報は社説で「(オスプレイ配備反対の県民大会は)日米安保崩壊への警告だ」と書きました(拍手)。愛媛新聞は社説で「オスプレイ配備中止し安保見直す契機に」と書きました。

 先日、私は、政府への申し入れで、「オスプレイ配備中止を米国に提起せよ」と求めました。私が、藤村官房長官との会談で、「政府が安保を盾に押しつけるなら、安保をなくせということになりますよ」と批判しますと、長官は「そういうことになりますね」(笑い)と認めました。ひとごとのような感想を言っている場合ではありません。「オスプレイ配備は中止せよ」――この声を日米両政府に突きつけようではありませんか。(「そうだ」の声、大きな拍手)

 私は情勢の大きな変化を感じます。かつてはテレビ討論会などに出席しまして、「日米安保廃棄」を言いますと、「共産党がとんでもないことを言い出した」と、まるで「宇宙人」であるかのように(笑い)、見られた時期もありました。ところがみなさん、今では誰もがこれを避けては通れなくなっているではありませんか。(拍手)

 わが党は、「外交ビジョン」――「日米安保条約をなくしたら、どういう展望が開かれるか」を提唱していますが、ここでのべたように「日米安保条約をなくす」という立場に立ってこそ、基地問題の解決の道も、日本と東アジアの安全保障の道も、日本が経済主権を取り戻す道も、霧が晴れたように、先々まで展望が見えてまいります。みなさん、これを国民多数のものにして、ほんとうの独立国といえる日本、憲法9条が輝いて生きる平和日本への道を、ご一緒に切り開こうではありませんか。(拍手)

第二。どんな迫害・攻撃・妨害にも負けない――「不屈性」を発揮する

今日における不屈性とは何か――巨大メディアと多数者結集のたたかい

 第二の役割は、「不屈性」を発揮する――いろいろな課題をやりぬくとき、どんな迫害・攻撃・妨害にも負けないで、その実現をめざしてがんばり抜くということであります。

 今日の変革の事業における不屈性とは何か。

 いまは、戦前のような特高警察による直接の弾圧、投獄ということはありません。しかし、戦前に比べても、はるかに困難な、根気づよさを必要とする課題があります。それは、世界でも異常に発達した巨大メディアが、全体として、「権力の監視役」という本来の仕事を放棄して、権力と一体化し、「悪政推進の尻たたき役」へと堕落するもとで、この困難に屈せず、多数者を結集するという仕事であります。

 みなさん、この間、巨大メディアが、消費税増税、TPP推進、原発再稼働推進で果たした役割をふりかえってほしいと思います。消費税増税法案の問題では、衆院の法案採決までの1カ月間に、「読売」が出した社説は16本、「朝日」が出した社説は14本。それぞれが2日に1本、異常な増税推進の社説を書きました。自分がやった世論調査では、国民の5割から6割が増税に反対という結果が出ているのに、その声を聞こうともしない。そして、あおりにあおった末に、増税法案が衆院で採決されると、ひと安心したのか、「消費増税が民主党の公約に反することは疑いがない」(「朝日」)(笑い)、「公約をないがしろにするのは有権者を愚弄する行為だ」(「日経」)(笑い)などという。いったい誰が公約破りを説いたのか。

「しんぶん赤旗」は「とても偏りがない」という評価が

 こういう状況のもとで、国民の多数を社会変革の事業に結集するためには、政治・思想・文化の面での、不屈の粘り強いたたかいが必要です。あらゆる分野で国民と結びつき、要求にもとづく運動を発展させるとともに、「しんぶん赤旗」という人民的メディア、巨大メディアがけっして報じようとしない真実を伝える新聞を、こつこつと増やしていく(拍手)――この仕事にうまずたゆまずとりくむことこそ、新しい日本への道を開く力だと、私は考えるものであります。(「そうだ」の声、拍手)

 私は、その新たな条件を強く感じております。党本部に寄せられる「赤旗」購読の申し込みは月100件を超し、最高水準になっています。大阪府のある女性は、次のように書き込んで購読を申し込みました。「ネット上で拝見し、こちらの新聞がとても偏りがなく(笑い)、本来の報道がされているのではと感じました」(拍手)。以前は、「しんぶん赤旗」といいますと「偏っている」と(笑い)いう誤解もありましたが、「とても偏りがない」(笑い)と評価されているのは、うれしい限りであります(拍手)。巨大メディアへの不信や批判が広がるもとで、「しんぶん赤旗」への新鮮な関心と注目が広がっております。ここに確信をもって、この人民的メディアを大いに広げる仕事にとりくみたいと思います。ご協力を心から訴えるものであります。(拍手)

第三。国民と結びつき、ともにたたかう――「草の根の力」を発揮する

全国の奮闘で築いてきた「草の根の力」の地歩

 第三の役割は、国民とともに生活し、国民と結びつき、国民とともにたたかい、ともに前途を開く「草の根」の党としての力を発揮して奮闘するということであります。

 日本共産党は、全国に31万8千人の党員、職場、地域、学園あわせて2万を超える党支部、2743人の地方議員、130万人の「しんぶん赤旗」読者をもっております。全国1789の自治体のうち、96・1%の自治体に党支部があり、77・8%の自治体に党議員がいて、住民の願いを実現するためにがんばっています。他党をみますと、議員がいる自治体の割合は、自民党が21・8%、民主党が21・9%、公明党が65・6%、社民党が14・1%ですから、日本共産党の77・8%というのは、断トツ、1位であります。(拍手)

 この間の上からの市町村合併によって、この10年間に、地方議員の総定数は56%に減らされ、日本共産党の議席数も後退しました。しかし、地方議会に占める日本共産党の議席占有率は、10年間で見ますと7・05%から7・82%に前進しております。「二大政党づくり」という逆風が荒れ狂うもとでも、草の根の力を持ちこたえてきた。国民のみなさんのご支援と全党と後援会のみなさんのご奮闘に、心からの感謝を申し上げたいと思います。(拍手)

放射能から住民の命と健康を守る活動について

 この間、原発事故がまき散らした放射能から住民の命と健康を守る活動が、全国でとりくまれています。集計してみますと、党として放射線量測定活動や除染にとりくんだのは、26都道府県、334自治体・行政区、総計で約4万カ所にものぼります。

 東京都では、昨年5月に党の都議団が、いち早く都内全域128カ所で放射線量を測定し、結果を公表したことが、大きな反響をよび、東京都も独自に測定を始めざるをえなくなりました。それをきっかけに、都内の49のすべての市区と七つの町村で、党の議員団が党支部のみなさんと協力して、数千から1万カ所を超す規模で、放射線量の測定活動にとりくみ、市や区を動かして除染をさせてきました。放射線から子どもたちを守る若いパパママの会との共同がひろがっております。あるお母さんは、自宅のポストに入っていた党のチラシをみて、「このチラシ、神さまが届けてくれたのかと思った」(笑い)、こういって共同がはじまったという話もうかがいました。東京都は、都内各地にホットスポットが見つかっても、除染には消極的でした。しかし、最近、党の都議団が、都立水元公園の放射線量を調査したところ、基準値を超えている、これを都に突きつけて、ついに都としても除染に踏み出した。こういう政治を動かす仕事を立派にやっているのが草の根の力であります。(拍手)

 このような活動にとりくんでいる政党が他にあるでしょうか。ここには「国民の苦難を軽減し安全を守る」という立党の精神とともに、私たちの誇る「草の根」の力が発揮されているということを、強調したいと思います。(拍手)

「一点共闘」を発展させ、日本を変える新しい統一戦線を

さまざまな分野で「一点共闘」が空前の規模で発展しつつある

 みなさん。いま、消費税、原発、TPP、米軍基地など、さまざまな分野で、政治的立場の違いをこえて、一致点にもとづく共同――「一点共闘」が、空前の規模で発展しつつあります。

 従来の保守といわれる方々とのかつてない広大な共同がひろがっております。TPP反対では、JA、医師会、建設業界などとの共同闘争が発展しております。党創立90周年によせて、各界の多くの方々から温かいメッセージをいただきましたが、全国農業協同組合中央会、全国漁業協同組合連合会、全国森林組合連合会から、そろって祝辞をいただきました(拍手)。これは党の90年の歴史でも初めてのことであります。メッセージをいただいたすべての方々に、この場をお借りして、心からのお礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。(大きな拍手)

 多くの市民が街に出て声をあげはじめています。「原発なくせ」の運動では、首相官邸前の「再稼働反対」の抗議行動が、10万から20万規模の市民が参加する空前の規模の運動に発展し、一昨日の「さようなら原発10万人集会」は17万人と大成功をおさめました(大きな拍手)。このような規模で、市民が街に出て声をあげているというのは、1960年の安保改定反対闘争いらいの歴史的出来事ではないでしょうか。(拍手)

日本共産党の姿勢にたいして共感と信頼が

 この広大な共同のうねりのなかで、日本共産党は、それぞれの一致点を大切にして、運動の発展に誠実に力をつくすという姿勢をつらぬいてきました。TPP反対の集会に、私はよくよばれますが、そこでは消費税の話はいたしません。(笑い)

 同時に、どういう方向に現状打開の展望があるのかを示し、妨害や困難に屈せずにたたかい、草の根からともにたたかう――「先見性」「不屈性」「草の根の力」を発揮して奮闘してまいりました。

 この姿勢にたいして、共感と信頼がよせられております。

 私も参加した先日の北海道の党の経済懇談会では、出席されたJA北海道厚生連の奥野(岩雄)会長がつぎのように発言されました。「食料自給率を39%に下げたのが自民党。TPPで自給率を13%に下げようというのは民主党。TPPに断固反対し、一貫して農業を守ると言っているのは共産党ただ一人です(大きな拍手)。深く感謝し敬意を表したい」。うれしい激励であります。(拍手)

 「しんぶん赤旗」が、官邸前の「原発なくせ」の抗議行動を、数百人規模の段階から一貫してとりあげ、参加者の気持ちをそのまま丹念につたえてきたことに信頼が高まっています。6月30日付の「赤旗」1面についてつぎのようなツイートが寄せられました。「昨夜の官邸前行動を最大級の扱いで報じたのは赤旗。電車で、その赤旗の1面を周りに見えるように長めの時間広げた(笑い)。これはまじめに生きようとするなら知らなきゃいけない事実だから」。これもうれしい激励であります。(拍手)

 みなさん。いま、さまざまな課題での「一点共闘」が重なりあって、「重層的共闘」に発展するという状況が生まれつつあります。私たちは、それぞれの「一点共闘」が互いに連帯を強め、日本を変える新しい統一戦線へと発展するよう、知恵と力をつくしてがんばりぬきたい。この決意を申し上げたいと思います。(大きな拍手)

3、党づくりの歴史に学び、強く大きな党を

 日本の社会変革の事業をすすめるためには、「先見性」「不屈性」「草の根の力」という三つの役割を果たす日本共産党が、強く大きくなることが決定的に重要です。

 ここで私は、歴史をふりかえり、先輩たちの党づくりの苦闘と探求の歴史に学びたいと思います。

戦前――暗黒政治のもとでの「赤旗」(せっき)の役割とそれを支えた活動

「赤旗」の論陣――日本のジャーナリズムの歴史に記録される誇るべきもの

 日本共産党は、1922年の創立の当初から、天皇専制の暗黒政治に正面から立ち向かい、国民主権、反戦平和の旗を掲げ続けました。そのために非合法とされ、厳しい弾圧の下におかれました。そうしたもとで、天皇制権力がもうけたどんな障害にも制約されることなく、党の主張を何ものをも恐れずに堂々と公表する。その役割を担ったものこそ「赤旗」でありました。いまは「あかはた」と呼んでおりますが、戦前は「せっき」と呼びました。「赤旗」は、1928年2月1日に創刊されましたが、「赤旗」をつうじて日本共産党は、はじめて国民の前に公然とあらわれたのであります。

 「赤旗」は、弾圧によって、たびたび発行を中断されながらも、1935年2月までの7年間、輝かしい論陣を歴史に残しました。

 1931年9月の「満洲事変」――中国侵略戦争の開始にさいして、「赤旗」は何カ月も前から日本帝国主義が侵略戦争にのりだそうとしていることを具体的に暴露し、「日本帝国主義の戦争準備と斗へ!」「一人の兵士も送るな」と訴えました。戦争開始直後には、この戦争の性格が、「新しい領土略奪のための戦争」であることをズバリ批判し、反戦平和の論陣をはりつづけました。

 当時、大手新聞はこぞって戦争礼賛の立場になだれこみ、「守れ満蒙、帝国の生命線」という軍部のスローガンそのままに紙面は戦争賛美で埋めつくされました。当時の大手新聞を見ますと、今に至るも進歩がないと感ぜざるを得ません。(笑い、拍手)

 そうしたもとで、「赤旗」が反戦平和の旗を掲げ続けたことは、ひとり「赤旗」の名誉だけにとどまらず、日本のジャーナリズムの歴史に記録される誇るべきことだと考えるものであります。(拍手)

非合法下で「赤旗」はどのように発行されたか

 非合法の新聞としての「赤旗」は、持っているだけで逮捕・投獄でした。電車のなかで広げるなどとんでもありません(笑い)。印刷・配布もたえず弾圧されました。創刊当初は、謄(とう)写(しゃ)版(ばん)刷りで始まりました。それが、1932年4月から活版印刷を実現し、A3判、6ページ〜8ページ、3日刊〜5日刊で発行され、最高部数は7千部にのぼりました。これは、活版印刷で出された最初の「赤旗」です(実物を示す)。党本部にも2部しかないので、大事にビニールケースに入れて保存しています。

 持っているだけで逮捕・投獄の時代に、7千部というのはたいへんな部数です。しかも、一部一部の「赤旗」には、何人もの読者がいて、まわし読みですりきれるまで活用されたといいます。7千部の「赤旗」は、数万部の威力を発揮したといわれています。1932年当時の読売新聞の発行部数が三十数万部だったということと比較しても、たいへんな達成を先輩たちは築いたわけであります。

 どうやって発行したのか。手塚英孝さんの「『赤旗』地下印刷」という論文に詳しい記録が残されています。「地下印刷」といっても、地面に穴を掘って印刷所をつくるわけではありません(笑い)。実際は街の印刷屋さんです。ただ、印刷の全工程を1カ所でおこないますと、そこが弾圧された場合に発行が止まってしまいます。そこで、街の印刷屋さんを探し、組(くみ)版(はん)(活字を組むこと)、紙(し)型(けい)(紙で型をとること)、鉛(えん)版(ばん)(鉛を流して型をつくること)、印刷と、4工程に分割して、リレーをしていくやり方をとったといいます。

 リレーですから連絡場所で捕まらないように、細心の注意をはらった。この活動に携わった林田茂雄さんは、次のような生きいきとした回想を伝えています。

 「印刷部の活動をはじめるとすぐ、私は仕事関係での隠語を作った。…喫茶店などの連絡場所で、…大っぴらに話せることばにおきかえる必要はあった…あれかこれかの模索のあげくに、洋服屋になりすますことを思いついた。原稿が注文伝票、割付けが寸法書き、組版が裁断、校正が仮縫い、印刷が本縫い、用紙が生地、新聞が背広、パンフレットがチョッキ、ビラがハンカチ、といったぐあいにできあがった」(笑い、拍手)

 神田のそば屋さんで2人の男が話しています。「背広の注文伝票は、はいったかい」、「いま寸法書きを作っているところだ」、「じゃ、仮縫いはあさって、本縫いは…」。こういう調子で連絡したわけです。(笑い、拍手)

 活版印刷は、1932年4月から33年12月まで、1年9カ月間続きました。その後、再び謄写版となり、1935年2月には弾圧によって発行不能となりました。「赤旗」が姿を消したその後の10年は、日本が侵略戦争を中国全土、アジア・太平洋に広げ、甚大な犠牲者を出し、破局にいたった時代となりました。しかし暗黒の時代に「赤旗」のかかげた正義と良心、理性にもとづく主張は、歴史によってその正しさが証明され、先輩たちの苦労は今日に生きつづけているということを、私はいいたいと思います。(拍手)

戦後――自主独立、綱領路線にたった党づくりの努力

第7回党大会(1958年)以降の党づくりの努力に学ぶ

 戦後の党づくりには、曲折があります。きょうは、今日にいたる党づくりの礎石、土台を築いた1958年の第7回党大会以降の党づくりの努力に学びたいと思います。

 第7回党大会は、ソ連の干渉によって引き起こされた「50年問題」を深く総括し、党を統一し、自主独立の路線を確定した大会でした。しかし、当時、党員数は3万6千人、「赤旗」読者数も4万7千人まで落ち込んでいました。そこから、強く大きな党づくりへの営々たる努力が開始されました。今日にいたる国民に根をはった党づくりの原点が、ここにあります。

 1958年の11月の中央委員会総会――第7回党大会3中総では、「党生活の確立と党勢拡大の運動」をよびかけ、党生活確立の基準として、第一に、支部会議を定期的に開く、第二に、「赤旗」を読む、第三に、党費と「赤旗」代金を納める、という三つの目標を示しました。今でもやっていることです(笑い)。また、「赤旗」日曜版の発行を決めました。当時、滋賀県で専従者として活動されていた浜野副委員長は、当時をつぎのようにふりかえっています。

 「会議一つ開くことも、簡単ではなかった。というのは、『50年問題』を経験した党員の苦悩・葛藤があったからです。間違った活動に命がけでとりくんできた党員にとっては、“これまでの活動は何だったのだろう”という気持ちが根強くある。党機関の指導部は何だったのかの猛烈な追及もある。しかし、そこは共産党員です。時間はかかりましたが、会議を重ねるなかで『共産党員魂』がよみがえり、どうたたかうか、どう党を強く党を大きくしていくかについて議論ができるようになりました」。

 会議一つ開くのも大仕事というところから出発したわけであります。

 1959年7月〜8月の中央委員会総会――第7回党大会6中総は、党員を2倍にする「党勢倍加運動」を提起し、「党を拡大強化するために全党の同志におくる手紙」を発表しました。6中総では、「手紙」への反対意見もあったそうです。「党が大きくならないのは、政治路線が誤っているからだ」、「大衆運動に力をつくせば自然に党は増える。大衆運動の取り組みが弱いから党が増えない」、「綱領が決まっていないのに党が増えるわけがない」など、のちに綱領にも反対し、党を脱落した一部の人々から猛烈な反対意見が出る。13日間も議論して反対論を克服し、発表したのが、この「手紙」でありました。

 当時、安保闘争や三池闘争が始まり、日本共産党の果たす役割も大きくなっていました。ところが、1959年6月の参議院選挙では、党は得票も得票率も減らしてしまいました。いかに国民運動が高揚し、日本共産党が大きな役割を果たしても、それだけでは選挙で伸びないし、党も大きくならないことが事実として示されました。そこで「手紙」の発表となったのであります。

 この「手紙」は、いま読んでも心を打つものです。“あまりにも党が小さすぎる。この党を大きくする以外に、現実政治を動かす力を持つことはできない。第8回党大会までに党を倍加しよう”。切々とした響きがあります。そして「手紙」は、最後に、“返事を党中央委員会にくれ”という言葉で結んでいました。全党がこれにこたえました。92%の支部が返事を書きました。そして、すべての都道府県が党員倍加を達成して、1961年の第8回党大会を迎え、党綱領路線を確定したのであります。(拍手)

いま私たちがとりくんでいる党づくりの礎石は、この時代に築かれた

 1960年の8月の第1回全国活動者会議では、「2本足の党活動」――国民要求実現のたたかいと一体に党勢拡大を独自に追求する、いま私たちが「車の両輪の党活動」として発展的に受け継いでいる方針を提起しています。1962年10月の中央委員会総会――第8回大会4中総では、「機関紙中心の党活動」を打ち出しました。いま私たちがとりくんでいる党づくりの礎石、土台は、この時代に築かれたものです。

 党づくりの事業は、それに反対する議論とのたたかいの歴史でもありました。1960年代の中国・毛沢東派の干渉のさいに、その追随者たちは、「頼まなければ入ってくれないような人を党員にしてもしかたがない」(笑い)、「黙っていても自発的に入ってくる人を集めてこそほんとうの革命党ができる」(笑い)などといって党づくりに反対したそうです。一つ一つ克服して、党づくりを前進させました。

 1970年の第11回党大会までに、党員は3万6千人から30万人へ、読者は4万7千人から180万人へと拡大をとげました。この営々たる努力が、1970年代の日本共産党の大躍進への道を開いたのであります。

 この時期に、先輩たちが苦労して築いた党づくりの礎石は、すべて今日に生きるものであります。この原点に立ち返って、何としても強く大きな党をつくりたい。その決意を、先輩たちへの感謝の気持ちとともに、新たにしたいと思います。(拍手)

21世紀を開く強く大きな党を

第22回党大会(2000年)の党規約改定の持つ意味

 党づくりのとりくみは、1980年の「社公合意」と、日本共産党封じ込めの事実上の「オール与党」体制のもとで、困難や後退にも直面しました。いま私たちは、この分野での停滞・後退を打破し、「党を強く大きくして、総選挙で躍進を」のとりくみに挑戦している最中であります。

 21世紀の党づくりの新たな礎石を定めたものとして、2000年の第22回党大会での党規約改定は特筆すべきものだと思います。

 新しい規約は、日本共産党と日本社会の関係が大きく変わったことに対応し、わかりやすく誤解を生まない内容に一新されました。たとえば、それまで使っていた「前衛政党」――懐かしい言葉ですが(笑い)――という規定を削除しました。「前衛」という言葉で表現してきたのは、実践的には「不屈性」、理論的には「先見性」ということであり、その精神はしっかりと引き継ぐことを明瞭にしつつ、「前衛」という言葉が「指導するもの」と「指導されるもの」との誤解を生むことから、これを削除したのであります。

 規約改定は、今日、さまざまな「一点共闘」が広がり、そのなかで私たち日本共産党が、多くの人々と同じ目線に立って心を通わせ、信頼関係をつくるうえでも、大事な意味をもっているということを、私は訴えたいと思います。(拍手)

「日本の同志は素敵な言葉にまとめている」――ドイツからの注目

 日本共産党の党づくりには国際的注目も寄せられております。

 ドイツの左翼党のマンフレート・ゾーン氏は、同党の月刊誌に、今年の日本共産党の「党旗開きあいさつ」を紹介した論文を寄せております。そこでは、日本共産党の特質として、第一に、「自らの歴史に確固とした根をもつ」自主独立の党。第二に、「綱領・古典の連続教室」にみられるように「綱領上の基礎に関する学習の系統性」がある党。いいところを見てくれていますね(笑い、拍手)。第三に、そのおかげで選挙での「後退をも冷静に分析」して(笑い)、前途を切り開く力を持つ党――などを列挙しております。そして、第四に、「かなたの日本から北海とアルプス山脈との間に位置するわれわれにもたらされる…もっとも重要な教訓」として、日本共産党が、「情勢を切り開くことができるかどうかは、党員を増やすこと、独自のメディアを拡大すること、そして、国民の中で党員が模範的な役割を積極的にはたせるかどうかに、かかっている」という立場で、「党勢拡大大運動」にとりくんでいることに注目しています。この論文は、つぎの言葉で結ばれています。「日本の同志は素敵な言葉にまとめている。『私たちは、党生活確立の3原則――支部会議に参加する、『赤旗』日刊紙を読む、党費を払う――を心にとめることで、党の力を強めていきます』。もしわれわれがそのことに成功するなら、われわれは当地でもかの地でも本格的に前進するだろう」(拍手)

 私たちは、戦前の党づくりの苦闘に学び、戦後の党づくりの開拓者のたたかいを胸に刻み、遠くドイツからの注目と期待にもこたえて、総選挙勝利をめざして、強く大きな党づくりのとりくみを必ず成功させる決意であります(拍手)。重ねてご協力を心からお願いするしだいです。(大きな拍手)

4、真に自由で幸福な生き方とは――日本共産党への入党を訴えます

 最後に、私は、創立90周年の記念すべき年に、日本共産党の路線と活動に共鳴していただいたすべての方に、日本共産党に入党し、ともに力を合わせて社会進歩の道を切り開く、開拓者としての人生を歩むことを、心から訴えたいと思います。(拍手)

 みなさん。人間にとって、ほんとうの自由と幸福とは何でしょうか。私が、たいへんに好きな2人の先達の言葉を、みなさんに贈りたいと思います。

 一つは、科学的社会主義の基礎をつくりあげたカール・マルクスが、17歳、高校卒業の論文として書いた「職業の選択にさいしての一青年の考察」であります。彼は、この論文のなかで、「人類の幸福」と「われわれ自身の完成」はどういう関係にあるのかを論じて、次のような答えを導き出しています。「人間の本性というものは、彼が自分と同時代の人々の完成のため、その人々の幸福のために働くときにのみ、自己の完成を達成しうるようにできているのである」、「経験は、最大多数の人を幸福にした人を、最も幸福な人としてほめたたえる」、「われわれが人類のために最も多く働くことのできる地位を選んだとき、重荷もわれわれを屈服させることはできないであろう」。“最大多数の人を幸福にした人こそ、最も幸福な人”、“人類の幸福のために働いてこそ、自己の完成を達成できる”。この論文はもちろん、マルクスが、科学的社会主義者になる前のものでありますが、彼は、青年のときの信念を生涯にわたって貫き、困難に屈しないたたかいのなかで、偉大な革命家としての「自己の完成」をなしとげていったのであります。

 いま一つは、戦後、党の議長を務めた宮本顕治さんが、獄中から、宮本百合子さんに送った書簡であります。1944年10月10日付、宮本さんが35歳のときに書いた書簡であります。

 「人生を漂流しているのでなく、確乎として羅針盤の示す方向へ航海しているということは、それにどんな苦労が伴おうと、確かに生きるに甲斐ある幸福だね。漂流の無気力な彷徨は、生きるというに価いしない。たとい風波のために櫓を失い、計器を流されても、尚天測によってでも航海する者は祝福されたる者哉。そして生活の香油も、そういう航海者にのみ恵まれる産物であって、その輝きによって、生存は動物でなく人間というに価する生彩と栄誉、詩と真実に満されてくるものだね」

 私自身が、この言葉に初めて出あったのは、大学2年生だった1974年、東京の日本武道館を埋めつくして開かれた民青同盟秋の大学習集会でのことでありました。不破哲三書記局長【当時)が講演のなかで、宮本さんの書簡の言葉を引いて、もろもろの社会の動きに流され「漂流」する人間でなく、「確固とした羅針盤をもって航海する」自覚的な人間になろうと呼びかけました。不破さんの講演を、胸を熱くして聞いたことを思いだします。(拍手)

 最大多数の人々を幸福にする人生、そして「漂流」でなく「確固とした羅針盤をもって航海」する人生――私は、そういう人生にこそ、人間の真の自由と幸福があるということを確信するものであります。(拍手)

 日本共産党に入党し、一度きりしかないかけがえのない人生を、多くの人々の幸せのため、社会進歩のため、そしてご自身の幸せのために、ともに歩もうではありませんか(拍手)。そのことをこの記念すべき日に重ねて呼びかけまして、講演を終わります。(大きな拍手)

 日本共産党創立90周年万歳!(歓声、長くつづく大きな拍手)


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