2012年7月16日(月)
生涯にわたる思想と活動の発展
日本共産党創立90周年記念出版 宮本顕治著作集刊行開始
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日本共産党の元議長、故宮本顕治氏の著作集(全10巻)の刊行が始まりました。
宮本氏は、共産党が非合法に置かれた戦前、過酷な弾圧と迫害に屈せず反戦平和の旗を掲げ続け、獄中にあっても非転向を貫き、戦後も日本の革命運動の先頭に立って、理論と実践の両面で奮闘しました。
その生涯は、「反戦によって日本人の名誉を救った」(評論家の故加藤周一氏)、「考え方は違うが、一人の政治家として信念を貫き、敬意を表していた」(中曽根康弘元首相)と敬意をもって語られました。
著作集に流れる思想と活動にふれることは、現代を真摯(しんし)に生きようとする人々に勇気と希望をもたらさずにはおかないでしょう。
『宮本顕治著作集』は、故上田耕一郎元副委員長の『上田耕一郎著作集』(全6巻)とともに、日本共産党の創立90周年(1922〜2012年)を記念する出版事業として刊行されます。
志位和夫委員長、不破哲三社会科学研究所所長ら5氏からなる著作集編集委員会が厳選した著作集です。出版は新日本出版社。
今月の配本は『宮本顕治著作集』の第1巻です(以後隔月刊)。『上田耕一郎著作集』も12月に刊行開始です(隔月刊)。
宮本氏の著作集は、各巻ごとにまとめられた「解題」とは別に、第1巻巻頭には編集委員会による「序文」が配されています。序文は「収録した著作の時期的な特徴について、戦前の活動の問題および国際関係に重点を置」いて解説しているので、著作集の全体が見渡せます。序文の全文を紹介します。
序 文
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この著作集は、日本共産党の元議長である宮本顕治氏の著作から、生涯にわたる思想と活動の発展的な流れを代表する諸著作を十巻に編集したものである。
編集は、編年的におこなった。宮本氏の党の代表者としての発言は多いが、日本共産党の大会、中央委員会での公的な報告は、原則として収録しなかった。例外としたのは、第四回、第五回、第六回党大会での行動綱領や文化政策についての報告および第七回、第八回党大会での綱領問題の報告である。書簡は対象としなかった。
個々の著作についての解説は、各巻の「解題」にまとめてあり、特別の説明が必要な場合にはそこで関連する状況の解説をおこなった。
それにくわえて、収録した著作の時期的な特徴について、戦前の活動の問題および国際関係に重点を置きながら、編集委員会として、若干の解説をつけくわえておきたい。
一
著作集の第一巻および第二巻は、戦前・戦中の著作にあてられている。
宮本氏の理論活動は、文学活動から始まった。東京帝国大学在学中の一九二九年、総合雑誌『改造』の文芸評論の募集で一等に入選して注目を浴び、卒業した年の三一年五月に日本共産党に入党、プロレタリア作家同盟の一員として活発な文芸評論活動をおこなった。三二年四月、文化運動分野での大弾圧のなかで地下活動に移り、三三年三月、日本共産党の中央委員会に参加、六月には政治局員・書記局員として党の最高指導部に加わった。その条件のもとでも、文学分野での著作活動を続け、三二〜三三年に三つの論文を連続的に発表した。これはどれも、プロレタリア文学運動の性格、任務、課題を明らかにする指導的論文として書かれたもので(本著作集には最後の論文だけ収録)、一口に文芸評論といっても、それまでの評論とは異質の性格をもっている。そこには、ソ連を中心とした国際的な文学論の影響をはじめ、当時日本の文学運動がおかれた複雑な状況の強い反映がある。この問題については、宮本氏が、それからほぼ半世紀を経た一九八〇年に、「現在の到達点に立ってみればという前提での私なりの整理」という意味で、自らの三論文を含め、あの時期のプロレタリア文学運動の反省的な総括を発表している(『宮本顕治文芸評論選集』第一巻への「あとがき」、本著作集第八巻所収)。
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宮本氏が党の最高指導部に加わったのが三三年六月、潜入したスパイの手引きにより逮捕されたのは同年一二月、全体としてほぼ半年ほどの期間だったから、「赤旗」に掲載した政治論文は多くはない。第一巻にはそのすべてである四つの論文を収録したが、最後の論文「鉄の規律によって武装せよ!――党ボルシェヴィキ化のために」は、スパイ・挑発者にたいする最高の処分は「二度ともぐりこまぬよう大衆的批判と断罪によって社会的烙印をおしつけること」だという党の方針を明示している点でも、警察や予審での取り調べには完全黙秘をまもり、公判で党の政策の正当性を明確にするという逮捕時の原則的態度を明示している点でも、重要な意味をもつ文書となっている。
第二巻には、一九四〇年および一九四四年の法廷闘争の全記録を収めた。
宮本氏の逮捕に先行する三二〜三三年という時期は、政府警察当局がそれまでの弾圧やスパイ政策にとどまらず、党内に送り込んだ特高警察の手先に反社会的行為を強行させ、その罪をなすりつけて日本共産党を犯罪集団にしたてあげるという極悪な手段に訴え始めた時期だった。彼らは、宮本氏逮捕の直前、党の中枢に潜入していたスパイ二名を宮本氏らが摘発し、査問中にそのうちの一人が心臓発作で急死するという偶発事が起きたことを知り、この事件を彼らが仕組んだ社会的犯罪の一部に組み込むことをたくらみ、宮本氏を治安維持法違反に加えて殺人罪の容疑で告発した。宮本氏の法廷闘争は、日本共産党の立場と闘争の正当性を明らかにするだけでなく、特高警察が仕組んだこの陰謀を打ち破るという重大な任務をになっての闘争だった。
宮本氏は獄中の困難な条件のもとで、この任務を果たすべく、可能な限りのあらゆる資料を研究し、徹底的な調査と道理にもとづいて、当局の陰謀を完全に撃破し、肝心の殺人の罪を宮本氏に押し付けられないところまで彼らを追い詰め、日本共産党を社会的犯罪者集団に仕立て上げようとする陰謀の全体に痛打を与えた。この闘争とその成功がなかったら、党を犯罪者扱いする横暴な反共主義が、引き続き戦後も大手を振って横行したであろうことは疑いない。味方は傍聴する被告の妻・宮本百合子一人しかいない孤独な法廷での闘いだったが、宮本氏の法廷闘争は、文字通り日本共産党の存亡にかかわる歴史的意義をもっていた。
この裁判をたたかった宮本氏の獄中生活については、『宮本顕治 獄中からの手紙』(全二巻、新日本出版社)あるいは『十二年の手紙』(各版あり)を読んでいただきたいと思う。
二
第三巻、第四巻、第五巻には、一九四五年の敗戦と旧体制の崩壊、党の組織と活動の再建の時期から、自主独立の立場および党の綱領路線を確立した二つの党大会――第七回党大会(一九五八年)と第八回党大会(一九六一年)――にいたる時期の諸著作を収録した。
この時期の宮本氏の活動は、戦後日本の新たな支配者となったアメリカ占領軍の弾圧、党内の家父長制的傾向および分裂分派活動、さらには日本の革命運動への本格的な干渉に乗り出したスターリン指揮下のソ連共産党の大国主義的干渉と闘いながらの、探究と苦闘の連続だった。
なかでも際立つのは、いわゆる「五〇年問題」の時期における宮本氏の活動である。現在でこそ、この時期のスターリンの干渉作戦の内容は、ソ連側の秘密資料による解明も含め、全貌が明らかになっているが、その時期には、干渉と分派活動の当事者以外には事態の真相はまったく霧のなかに包まれていた。その条件のもとで、宮本氏は、路線問題の道理ある解決と党の統一を求めて探究を続けたが、その不屈の努力が、いかなる外国の党の干渉も許さない自主独立の立場と科学的な綱領路線の確立、それにもとづく原則的統一へと党を導く上で、指導的役割を果たしたのだった。
こうして到達した自主独立の立場がいかに強固なものであったかを国際的な舞台で明示したのは、一九六〇年一〇月、モスクワで開かれた予備会議(一二月の八一カ国共産党・労働者党国際会議の準備会議)での活動だった。宮本氏は、この会議に日本共産党代表団の団長として参加したが、そこでの奮闘ぶりは、七年後にメディアの取材に答えたインタビュー「自主独立の十年」(本著作集第六巻所収)のなかで本人自身の言葉で語られている。当時、党勢の大小からいえば、日本共産党は「五〇年問題」を解決してまだ間もない時期で、国会勢力ではまだ衆議院一議席、参議院二議席という状態だった。その党の代表が、どんな問題でも自主独立の立場と社会主義の道理をつらぬいて譲らず、大国の政権党であるソ連共産党や、議会に三ケタの議員団をもっていたフランスやイタリアの共産党を相手に、正論を堂々と主張する姿が、この会議で注目の的となったことは疑いない。
なお、留意してほしいのは、第四巻の五〇年六月〜五二年四月の時期の宮本氏の著作には、重要な制約条件があった点である。宮本氏は、マッカーサーの弾圧指令により、この間、政治的な文章の公表を含め一切の政治活動を禁止されていた。そのために、党の分裂と統一の問題など政治論文を発表する時には、「瀬川陽三」のペンネームを使っていた。
一方、占領軍指令の禁止条項は、文芸評論には適用されなかった。だから、徳田派に属する文学関係者が、その分派闘争の一環として、宮本百合子の文学に卑劣な総攻撃を仕掛けてきたのに対しては、遠慮なく文学的な反論を執筆し、宮本顕治名で発表することができた。その意味では、この時期の「批判者の批判」は、文学的な仕事であると同時に、党統一をめざす闘いの文学分野での具体的実践という性格をもっていた。
宮本百合子論では、宮本氏のこの時期の労作に『宮本百合子の世界』(一九五一〜五三年)があるが、これは『宮本百合子全集』(河出書房)の各巻に付せられた「解説」であって、「批判者の批判」のような、論争的性格をもったものではない。編集の都合上、文学全集や外国の雑誌での作品や生涯の紹介とあわせて、最後の第一〇巻に位置づけたことを、お断りしておきたい。
三
第六巻には、一九六二年〜七四年、採択した綱領路線を踏まえて、党がその実践に踏み出した時期の諸著作をおさめた。
六〇年代の活動の最大の問題は、日本共産党がソ連共産党と中国共産党の毛沢東派の双方の側から激しい干渉攻撃を受けたことであった。どちらの側からの攻撃も、外部からの非難攻撃にとどまらず、党の内部に反党分派を組織し、内外呼応して日本共産党を打倒し、日本の運動をその支配下に収めようとする、覇権主義の野望をむき出しにした攻撃だった。
日本共産党は、干渉者たちがもちだしてくる批判攻撃のあらゆる論点を、書簡や論文による論戦で打ち破り、国内での組織破壊をたくらむ干渉作戦も完全に撃破し、組織的にも、理論的、政治的にもより強固な党となり、党勢の躍進を実現するなかで七〇年代を迎えた。
宮本氏は先頭に立って、この干渉攻撃との闘争(当時これを「二つの戦線の闘争」と呼んでいた)の全分野を指導したが、著作集のなかでは、直接この問題を扱った文献は多くはない。それは、この問題で宮本氏が注ぎ込んだ理論的、政治的エネルギーの大部分が、その時々の大会報告および中央委員会総会報告での情勢分析や闘争方針の正確な決定、国際論争にかかわる集団作業の指揮・点検・仕上げ、そして一九六六年の三国訪問(ベトナム、中国、北朝鮮)や六八年の北朝鮮訪問などでの外国の諸党との討論などに、向けられていたからである。その意味では、この時期の宮本氏の国際的な理論・政治活動の研究のためには、著作集におさめた諸文献にあわせて、六三年の七中総(八大会)決定、六四年の八中総(同)決定および第九回党大会報告、六六年の第一〇回党大会報告、さらにソ連共産党からの非難に全面反撃を加えた返書(六四年八月)をはじめ「二つの戦線」の干渉者たちとの論争文献などに、目を通していただくことを望みたい。
干渉攻撃との闘争の前進と並行して、国内政治における日本共産党への注目も大きくなってゆき、政党討論会など、宮本氏がメディアで活躍する機会も広がっていった。この分野で、ぜひ記録にとどめておきたい活動に、六八〜六九年に毎日新聞社が企画した「紙上国会・安保政策の総討論」がある。これは、自民党から共産党までの主要五党が、交互に「政権」を組織し(閣僚は首相を含め五名)、他の四党が「野党」として出席、まず首相が冒頭、施政方針がわりに、自分の党の安全保障政策を述べたあと、四「野党」がこれにたいし、午前午後数時間にわたって質問戦を挑む(「野党」は二名ずつ出席)という企画である。企画の規模の点でも、党の大小にかかわらず五党を完全に対等に扱うという点でも、当時のメディアのなかでも群を抜いた画期的な討論会だった。日本共産党の場合には、もちろん宮本氏が首相だが、五名の閣僚のうち、首相を含め非議員が三名という顔ぶれ。宮本氏は、施政方針部分でも、各党のお歴々との論戦でも、みごと名首相ぶりを発揮したものだった。討論の結果は、紙面のスペースもかなり大きくとって各党ほぼ二〇回ほど連載されるのだが、内容が面白かったのか、「共産党への質問戦」の連載回数が一番多かった。
七〇年七月の第一一回党大会は、はじめてメディアに公開する“開かれた党大会”として開催された。そこで提起した「人民的議会主義」の方針、さらにそれに続く、統一戦線結成の基準としての革新三目標の提起(七一年)、第一二回党大会での、民主連合政府綱領についての日本共産党の提案(七三年)、未来社会論にもかかわる「三つの自由」の提唱(七四年)などは、綱領路線をさらに発展、充実させたもので、内外に大きな反響を呼んだが、ここにも宮本氏の指導的イニシアチブが大きく反映していた。
四
著作集の第七巻、第八巻、第九巻は、一九七五年から九〇年代までの時期にあてられている。
これは、国内的には、六〇年代末から七〇年代初頭にかけての日本共産党の躍進に脅威を感じとった支配勢力が本格的な反攻に乗り出してきた時期に当たる。
一九七六年一月、民社党の春日一幸委員長が、国会の演壇を利用して、戦前の「治安維持法等被告事件」をむし返し、特高警察流の中傷を宮本氏に加えたことが、反共攻撃の口火を切るものとなり、それが八〇年一月には、「社公合意」をてこに社会党を革新の陣営から引き離して、日本共産党を除く「オール与党」体制を国会の内外で構築し、自民党政治の支えとするところまで進んだ。
こういう情勢のもと、宮本氏は、七七年の参院選では自ら立候補して国政の第一線で活動する意思を固め(当時六八歳)、それから一二年間、国会での活動を続けた(この間、宮本氏が参院本会議でおこなった代表質問はすべて本著作集に収録されている)。
この三巻のなかの論文やメディアとのインタビューには、この時期に内外に起った出来事にたいする宮本氏の見解がほぼ網羅的に表明されている。
若干の追加的な解明を要するのは、ソ連共産党との関係であろう。
宮本氏が一九七九年一二月にモスクワでおこなったソ連共産党ブレジネフ書記長との首脳会談は、ソ連側が一五年前におこなった干渉行為の誤りを公式に認め、反省の意思を表明したことで、この間の不正常な関係に終止符を打ち、両党関係の正常化への転機となるはずのものだった。ところが、日本共産党との関係で自己の干渉主義を反省したソ連が、その直後に隣国のアフガニスタンに軍隊を投入して政権を打倒し、ソ連が送りこんだ政権に置き換えるという言語道断の侵略をおこなったことから、事態は急転した。日本共産党は、事実関係を徹底的に調査し、侵略の真相を論議の余地のない事実で明確にした上で、ソ連のアフガニスタン侵略を糾弾する活動を全面的におこなった。この問題でのソ連との論争は、やがて、「平和」の名のもとにソ連が展開する外交政策全体にわたる論争に拡大していった。
この論争のさなかに、ソ連側の態度に、一点ではあるが重要な変化の兆しが見えた瞬間があった。それは、宮本氏が米ソ両首脳にあてて核兵器廃絶への積極的行動を求める書簡を送ったとき、ソ連のアンドロポフ書記長から、その提起に同意する旨の返書が寄せられたことだった。宮本氏は、このことを重視し、アフガニスタン問題で論争を続けながらも、この一点での同意が成立すれば、世界平和に貢献できるという立場で、書簡の交換を続けたが、アンドロポフ書記長は宮本氏への返書を出した直後に急死し、その課題は次のチェルネンコ書記長に引き継がれることになった。
その後、書簡の交換と三回におよぶ予備会談を経て、八四年一二月、モスクワで宮本=チェルネンコ首脳会談がおこなわれることになり、核兵器廃絶を世界平和の緊急課題として世界に訴える日ソ両党首脳会談の共同声明が確認され発表された。米ソの核軍拡競争が世界の重大脅威となっているとき、その一方の大国が核兵器廃絶への取り組みに同意し、その実現のための可能なあらゆる努力を約束したことは、国際政治にも世界の平和運動にも大きな影響を及ぼすものだった。その意義は、そこにいたる経過とともに、第八巻、第九巻におさめた宮本氏の一連の発言に詳論されている。
首脳会談後の八五年三月、再び不幸がソ連側の会談当事者チェルネンコ氏を襲い、共同声明具体化の課題は、後任のゴルバチョフ書記長にゆだねられた。残念なことに、この新書記長は、ここにいたる経過も知らず、共同声明の実行にも熱意をもたない人物だった。ソ連側の取り組みはたちまちしりすぼみのものとなり、結局、この歴史的な合意は、ソ連の外交史の上では、ただの一時的なエピソードとしてしか扱われないこととなった。これは、核兵器廃絶という世界平和の核心的な問題についても、自身の国際公約に責任を負わないというソ連の体制的な弱点を、致命的な形で露呈したものであった。
このゴルバチョフ政権のもとで、その数年後、内外の諸矛盾の激化のなかで、まず東欧諸国の崩壊が始まり、九一年、事態はソ連そのものの崩壊にいたった。宮本氏は、この問題でも、崩壊過程の節目といった形でメディアから連続的な取材を受け、ソ連の崩壊を覇権主義の崩壊として歓迎するとともに、それを社会主義の崩壊としてとらえる見方の誤りを詳細に展開したが、そこには、四〇年にわたるソ連覇権主義との闘争およびその過程での理論的探究という強固な裏づけがあった。
この時期の宮本氏の著作には、自身が経験してきた数十年をふりかえっての歴史分析が多くある。そこには、日本社会の戦前戦後の歴史への、天皇と天皇制の問題からジャーナリズムの役割などを含めた多面的な解明があり、宮本氏と日本共産党のたどってきた歴史そのものの考察も多い。先に紹介した『宮本顕治文芸評論選集』第一巻への「あとがき」(八〇年)もこの時期の所産だったが、『戦後初期論集』全三巻への「まえがき」三篇(八七〜八八年、第九巻所収)は、党の歴史についての貴重な証言となっている。
二〇一二年五月
宮本顕治著作集編集委員会
岡 宏輔
志位和夫
浜野忠夫
不破哲三
山口富男