2012年3月3日(土)
きょうの潮流
いつのころからでしょう。疲れたり気がめいったりすると、バッハの「シャコンヌ」を聴きます▼無伴奏バイオリン曲ですが、ピアノでもいい。励まされるのでも、慰められるのでもない。聴くうちに、体のすみずみに生命の力が自然とよみがえってくる感覚。“私”は確かにこの広大な世界とつながって生きている、と感じる瞬間…▼「シャコンヌ」は、西洋音楽の聖典とあがめられます。作曲家の佐村河内(さむらごうち)守さんは、「その聖域に足を踏み入れた」と、みずから語ります。被爆2世として力をふりしぼって書いた、「交響曲第1番〈HIROSHIMA〉」で知られる佐村河内さんの、「シャコンヌ」の誕生です▼CD発売記念の演奏会が、東京で開かれました。作曲を依頼したバイオリン奏者、大谷康子さんが無伴奏で弾く。やはり、バッハ作の300年近くたって生まれた「シャコンヌ」です。時に荒々しく、時に宙に漂うような無調の響き。聴き手の心を激しく揺さぶり、やがて安らかに消え入ります▼弦楽四重奏曲など、佐村河内さんのほかの作品も演奏されました。あとで、同僚記者が告白しました。「泣いてしまいました」。彼女によれば、隣の席の女性も、流れる涙をぬぐおうともせずに聴き入っていた、といいます▼弦楽四重奏曲の、聞き取れるかどうかさえ不確かな、かすかな持続音が忘れられません。もはや楽器の音でもなく、宇宙のかなたのこだまのような音。それはまた、心の奥底からわきのぼる音にも聞こえました。