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2012年2月9日(木)

「古典教室」 不破社研所長の第12回講義(最終回)

●マルクス、エンゲルス以後の理論史

科学的社会主義の本道に立って

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(写真)講義する不破哲三社会科学研究所所長=7日、党本部

 1年余にわたった「古典教室」は最終回を迎え、講師の不破哲三・社会科学研究所所長は、しめくくりとして、「マルクス、エンゲルス以後の理論史」をテーマに講義しました。

 前回の講義で不破さんは、マルクス、エンゲルスの理論と精神をつかみ、その目で変革の前途を考える努力をしている党は資本主義諸国にいまほとんどなく、日本共産党の態度は世界でも独特の地位を占めていると紹介しました。

 社会主義運動は、そもそもマルクスの理論が出発点のはずなのに、なぜこうなっているのか。それには歴史があります。不破さんは、1930年代からソ連崩壊(91年)まで半世紀以上、「マルクス・レーニン主義」というマルクスの理論とは似て非なる理論体系が世界の共産主義運動の中で支配的な地位を占めるなかで、「その間違った理論体系を根本から打破しようと一貫して努力してきたのが日本共産党でした」とのべて、マルクス以後、レーニンの時代、そしてスターリン時代と歴史をたどり、日本共産党の理論闘争の意義を明らかにしました。

マルクスを継承したレーニン、似て非なるスターリン

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(写真)「古典教室」最終回の講義を聞く受講者

 マルクス、エンゲルスが死んだあと、その理論と精神を正面から受け継いだのは、ロシアのレーニン(1870〜1924)でした。

 18歳で『資本論』を読み始め、マルクス、エンゲルスの手に入るあらゆる文献を徹底的に研究し、革命運動の分析に生かし、発展させました。

 レーニンの研究は、マルクス理論の全分野に及びました。哲学では、38歳で『唯物論と経験批判論』を執筆しました。不破さんは「私自身、この本を読んではじめて、エンゲルスの『反デューリング論』にはこれだけの意味があったのか、と悟ったものでした」と語りました。20世紀初頭、物理学が危機に陥ったとき、危機の根本を分析して打開の展望を示したのは、レーニンのこの本でした。ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英さんの先生である坂田昌一さんは、レーニンの理論を素粒子論研究の指針にしました。また、その数年後、第1次世界大戦中に、ヘーゲル弁証法を徹底して研究して書いた『哲学ノート』は弁証法の研究になくてはならない本になっています。

 経済学では、世界大戦の根源と性格を解明しようとして書いた『帝国主義論』(1916年)は20世紀の資本主義の発展段階を研究した、いまでも大事な著作になっています。

 「レーニンの本領は革命論でした。ロシア革命を指導した、その指導ぶりはみごとなものです」。不破さんは日露戦争のさなかに始まった1905年の第一革命で、ブルジョア民主主義革命にどう立ち向かうかという課題が提起されたとき、メンシェビキのようにブルジョアジーに政権を任せるというのではなく、マルクス、エンゲルスの文献を研究して、人民が主導する民主主義革命の路線を世界の革命運動で初めて打ち立てたとのべました。

 17年の二月革命では、帝政ロシアの専制君主ツァーリの政府が倒れたあと、労働者と兵士のソビエトが、ブルジョア諸党がたてた臨時政府に政権を任せてしまうという複雑な事態が起きました。亡命先のスイスから、「封印列車」でドイツを通ってロシアに戻ったレーニンは、「四月テーゼ」を発表。臨時政府とソビエトの「二重権力」を解消するために、ソビエトの多数を獲得するという多数者革命路線を提起しました。そして臨時政府の大弾圧をはねのけて、少数派だったボリシェビキが多数者を獲得し、帰国の半年後には十月革命を勝利させ、革命政府は「土地を農民へ」の土地改革を実行、農民の支持も得ました。

 イギリス、フランスなど14カ国がロシア革命をつぶそうと干渉戦争(18〜20年)を始めます。そのなかで、内戦時の非常体制を固定化する「戦時共産主義」論やヨーロッパ革命での「少数者革命」論など、“理論の荒れた”時期も生まれます。その背景には『国家と革命』での誤った理論展開がありました。

 干渉戦争に勝利して平和を勝ち取ったあと、レーニンは、活動の全領域にわたって理論と政策の総点検をやり、国内建設では「新経済政策」を打ち出し、市場経済への大転換を遂げます。異なった社会制度の国ぐにとの平和共存外交を打ち出したのも、ヨーロッパ革命で多数者獲得、統一戦線の方針を基礎づけたのも、このころでした。レーニン本来の理論的活力を取り戻した「最後の3年間」でした。

 「そうやって転換してきたレーニンですが、足もとに大穴があいていることに気がつきました。それがソ連邦結成問題です」。レーニンは、大きな国も小さな国も対等平等で合同する連合を考えていましたが、スターリンは、ロシアへの吸収合併でソビエト連邦をつくろうとしていました。

 レーニンは、「この大ロシア排外主義と生死をかけたたたかいをする」と宣言し、ソ連結成の方式を正しましたが、スターリンの少数民族抑圧の態度は続きました。レーニンは、病床から党大会へ手紙を送り「これは帝国主義の振る舞いだ」と痛烈に非難し、スターリンが「粗暴すぎる」ことを理由に、交代するようにと書きましたが、まもなく病気で倒れ、政治活動不能になります。

 権力を握ったスターリンはやがて、もっとも粗暴な大国主義者として行動しはじめました。

 「マルクス、エンゲルスの理論に対する態度も、スターリンとレーニンはまったく違いました」と不破さん。「レーニンは、マルクスを誤解したことはありましたが、最後まで、マルクス、エンゲルスに忠実でした。しかし、スターリンは、レーニンが死んだ直後の講演『レーニン主義の基礎』のなかで、“マルクス、エンゲルスは古い時代の理論、現代に役に立つのはレーニン主義だ”とマルクスの棚上げを公然とよびかけました。しかし、そのレーニンも、スターリンは自分に都合の良い部分を政略的に使っただけでした」

 ここで不破さんが、1冊の分厚い本を取り出すと、受講生の注目が集まりました。スターリンがレーニン全集から削ってしまった文献を集めた本です。「スターリンが封印した文献はこれだけあるんです。さらに、肝心の『最後の3年間』の重要な文書は、スターリン時代には、ほとんど日の目を見ませんでした。スターリンにとっては、レーニンも自分の政略の道具でしかなかったのです」。受講生から、ため息がもれました。

 スターリンが30年代に支配権を握ったときに、ソ連の変質が始まります。

 スターリンは、ソ連の党の中で権力を確立すると、大量テロに走ります。党とソ連社会を自分に忠実に従う舞台につくりかえようと、35〜38年に、反対派だけでなくレーニンとともにたたかってきた人たちまでをも抹殺を図りました。徹底的な論争で多数派になって党をまとめたレーニンの活動の仕方を知る者がいては、自分勝手な党運営ができなくなるからです。

 テロの犠牲者たちにはみな、ドイツや日本の手先といったレッテルが張られましたが、その罪状はスターリンが自分でシナリオを書いて押し付けたものでした。大量テロは近隣諸国の共産党やコミンテルン(共産主義インタナショナル)にも及びました。ポーランドの党は指導部全員が銃殺され、解散。スターリンは自分の権力と領土の拡大だけを狙う専制・大国主義者に変質しており、理論面でも、「マルクス、エンゲルスによる科学的社会主義の豊かな理論体系を、自分の目的に都合のいいようにつくりかえた」ことを不破さんは明らかにしました。

 社会主義の理論では、大量テロを正当化するため「社会主義が進めば進むほど階級闘争が激化する」という新しい理論までつくり出しました。そして、マルクスの理論の全体が、ソ連の社会体制を社会主義のモデルとして意義づける「理論」に置き換えられました。

 世界論、資本主義論では、「資本主義の全般的危機」論がもちだされました。現代は、レーニンが説いた帝国主義の時代からさらに進んで、資本主義が解体と崩壊に向かう危機の時代に入った、その危機を生み出し深めているのは、ソ連社会主義の誕生と発展にあるという理論です。これは、ソ連の擁護を世界の革命運動の最大の任務とするソ連中心主義やソ連依存主義をあおる理論ともなりました。

 世界観の問題でも、スターリンは、弁証法と唯物論、史的唯物論をいくつかの単純なテーゼにまとめた自己流の教科書で置き換えました。弁証法のテーゼから、マルクスやエンゲルスが重視した「否定の否定の法則」を外してしまったため、それ以後、ソ連系の哲学教科書からは、この法則がいっせいに姿を消すという奇怪なことも起こりました。

 こうして、スターリンは、マルクス、エンゲルスの理論を、似て非なる理論体系につくりかえてしまったのです。

 53年のスターリン死去後、後継者らは大量テロについては批判したものの、スターリンの大国主義と官僚専制主義も、その理論体系もすべて引き継ぎました。

日本共産党―現代に生かす理論的発展への努力

 日本共産党は、「50年問題」の教訓に立って、自主独立の立場を確立しましたが、そのとき以後、ソ連の干渉や誤った理論とたたかいながら、マルクス、エンゲルスの理論を現代に生かす理論的発展への努力が、党の活動の重大な課題となります。

 不破さんは年表を紹介しながら、理論的出発点となった61年の党綱領採択(第8回党大会)から党史を追っていきました。

 まず党綱領の特徴を説明した不破さん。ここで重要な点は、多数者革命論とともに、民主主義革命をへて社会主義革命に至る段階的発展論にあります。この問題では、レーニンもコミンテルン第4回大会の綱領問題に関する決議で同様の考えを示していました。

 ソ連との論争でまずぶつかったのは「アメリカ帝国主義論」でした。ソ連が無原則的な対米協調路線に踏み込んだのに対し、日本共産党は63年、アメリカ帝国主義の今日の侵略政策の特徴は、大国との衝突を避けて、社会主義を目指す大きくない国や個々の民族解放運動への攻撃を狙うところにあると分析し、これを「各個撃破政策」と名づけました。協調路線に基づく部分的核実験禁止条約に反対すると、同条約を押し付け、干渉するソ連の党と大論争が起こりました。

 しかし、64年にアメリカはベトナム侵略戦争を開始します。「私たちの世界情勢の分析の方が正しく、ソ連の干渉がいかに間違っていたのかを見事に示すものでした」

 中ソが論争に明け暮れるなか、66年、団結してのベトナムへの支援を呼びかける党代表団が、ベトナム、中国、北朝鮮に派遣されました。「私の最初の外交訪問でした」と振り返る不破さん。毛沢東との会談決裂を口実とした中国毛沢東派による大干渉に対し、67年の「4・29」論文で『国家と革命』を振り回す「武力革命論」を論破し、マルクスの理論にある多数者革命こそが大道だと公然と提起。「10・10」論文では当時の毛沢東路線を全面批判しました。

 68年には、ソ連のチェコスロバキアへの国家侵略を社会主義の大原則に反すると徹底的に批判。69年には、懸案である千島列島の領土問題について、ソ連側の大国主義の誤りの根本をついた解決案を出しました。

 日本の社会主義の前途について本格的な解明の第一歩となったのが70年の第11回党大会です。複数政党と政権交代制などの見解を具体的に決定するとともに、未来社会を展望する基本的な態度として、発達した資本主義国では「新しい人類の偉大な模索と実践の分野」と宣言。「私たちにとって非常に転換点となった大会でした」

 73年の第12回大会では、名指しはしなかったもののソ連の上からの農業集団化の誤りを解明。76年の第13回臨時大会ではソ連流の呼称である「マルクス・レーニン主義」と手を切り、本来の呼び名「科学的社会主義」に戻しました。発表した「自由と民主主義の宣言」は、ヨーロッパでの国際理論会議で大きな驚きと反響を呼び起こしました。

 世界史論として、77年の第14回大会では、ソ連は本格的な社会主義ではなく幼年期とも言える「生成期」の段階だと規定しました。ソ連のアフガニスタン侵略(79年)に対し、不破さんの著作『スターリンと大国主義』でソ連の歴史的変質の過程を初めて全面的に解明しました。「あとで知ったことだが、日本での出版の4カ月後に、中国語訳の海賊版が早くも出回っていた」との余談も紹介されました。

 91年、とうとうソ連が崩壊しました。94年の第20回大会で綱領を改定し、その改定報告では、ソ連社会が、社会主義社会でないことはもちろん、それへの移行の過程にある過渡期の社会でもありえなかったと断定したのです。

 2004年の新綱領作成に講義は進み、不破さんは「それら党史の蓄積を全部踏まえたものとして仕上げた」と語り出しました。「実は、未来社会論を本当にマルクス、エンゲルスの理論を引き継ぎながら、どう現代的に生かすかというところに一番苦労しました」と明かした不破さん。金科玉条になっていた、未来社会を社会主義社会と共産主義社会の二段階に分ける考えを改め、生産手段の社会化の眼目が「人間の自由な発達」であったことをはっきりとさせ、発展させました。

 講義も最終盤にさしかかり、不破さんは「みなさん方は、古典を語りながら、古典を現代に生かす訴えができるし、綱領の中に古典がどう生きているか、マルクス、エンゲルスの魂がどこに生きているかをつかみながら勉強できます」と強調しました。最近のマルクス人気の影で、「資本主義の矛盾や危機はマルクスの予見通りにすすんでいるが、マルクスは未来社会論では失敗したと思っている人が多い。それは、ソ連がマルクスの展望した社会主義の社会だったと思いこんでいるからだ」と指摘。「ソ連の社会と理論がマルクスとは縁もないと徹底して明らかにしている党でこそ、マルクスを本当に今日の世界に生かすことができます。これからも古典の勉強を続けていってください」と呼びかけると、会場から大きな拍手がわき起こりました。


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