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2012年1月26日(木)

「古典教室」 不破社研所長の第11回講義

●第4課 革命論(2)

多数者革命論のその後

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 第11回「古典教室」が24日、党本部で開かれました。第4課「革命論」の2回目です。講師の不破哲三・社会科学研究所所長は、「マルクス『フランスにおける階級闘争』1895年版への序文」の最後の部分、エンゲルスが「革命権」についてのべたところから講義を始めました。

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(写真)不破哲三社会科学研究所所長の講義を聞く受講者=24日、党本部

革命の権利―あらゆる近代国家の基礎

 前回学んだように、マルクス、エンゲルスが革命論を発展させて、最後に到達した多数者革命の路線が大道となりましたが、どういう方法で進むかは、政治制度の違いや、ブルジョアジーの悪さの程度により、個別の研究が必要です。不破さんは、エンゲルスが「革命の権利は、すべての近代国家が例外なしにそれにもとづいている唯一の真の『歴史的権利』」とのべたことを重視し、「革命権はあらゆる近代国家の基礎だという角度から、それを裏づけています」と言います。「革命の権利」を明快にのべた歴史的文書として、「綱領教室」でも紹介されたアメリカ独立宣言を取り上げました。

 同宣言は、人民の自由と幸福追求の権利を確保するために、人民が政府を改廃する権利があることを明記しています。政府の暴虐と簒奪(さんだつ)に対して自らの安全を保障することは、人民の権利、新しい政府をつくる権利だとのべています。第2次世界大戦後、反共主義が吹き荒れたアメリカで、この宣言を街頭で配布すると、「共産党の文書だ」という声があがったエピソードも紹介しました。

 エンゲルスはここで、革命の権利は、人民の権利であるだけでなく、「どんな国家にとってもその歴史的基礎になっている」とのべます。不破さんは、「日本でもそうだ」と日本の歴史をふりかえりました。

 12世紀の鎌倉幕府の成立から、室町幕府、応仁の乱、信長政権・秀吉政権、江戸幕府、そして19世紀の明治維新までの歴史をたどり、「日本の歴史は、前の政権を倒した新しい勢力が新しい政権をつくる革命の連続でした」と指摘。しかし日本では、新しい勢力が革命の根拠を人民の権利から引き出さず、天皇の権威に頼りました。明治維新では、倒幕派が、戦争(戊辰戦争)で旧体制を倒し新天皇制の政権を確立したものの、その根拠は、神話に頼るしかなかったことを、「軍人勅諭」「教育勅語」を示しながら説明しました。

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(写真)講義を聞く参加者

 テキストに戻り、当面するドイツ革命をエンゲルスがどう展望していたのかに話を進めました。

 ドイツは、多数者革命の最先端に立ってきた国です。1871年の選挙では10万余票だった社会民主党の得票が、1893年には178万票に伸び、議会で相当な力を持つようになっていました。有権者の過半数の支持を得ることも現実性を帯びていました。「ドイツの党はきたるべき革命をどう迎えるべきか、エンゲルスは、遺言の形で教えようと書いています」

 エンゲルスは、200万人を超える支持者と、選挙権のない青年、女性を決定的な「強力部隊」(ゲヴァルト・ハウフェン)という言葉で表現。当時のドイツは、議会で多数派になっても政権は握れませんでしたが、政府の出す法案を通せなくなります。そうなれば「決戦」がくると予想しました。その決戦にどう備えるか。エンゲルスは、こう助言します。

 ――われわれ「革命家」「転覆者」は、非合法手段を用いるときより、合法手段を用いるときのほうが威勢よくさかえる。先走って事を起こしてはならない。支配者に「合法性」を破らせよ。支配者は弾圧法をつくり、やがてあらゆるルールをやぶって無法な攻撃に出てくる。そのときには、支配者が人民との契約を破棄したことになり、人民が武力反撃に出るのを誰も非難することができなくなる。軍隊が反乱の権利を持つ。

 ここでエンゲルスは、話を1600年前にさかのぼらせ、ローマ帝国の末期、何が起こったかについて語ります。

 この時代の転覆党は原始キリスト教団でした。紀元303年の大迫害が、軍隊の圧倒的多数がキリスト教徒になるという結果をもたらし、次の皇帝コンスタンティヌスがキリスト教に改宗するという大逆転劇に至りました。エンゲルスは「われわれもこういう道を歩むんだ」という主張を明確に意図したのです。

 これは、エンゲルス晩年の原始キリスト教研究の成果でした。関連して不破さんが、当時のフランスの歴史家が「最初期のキリスト教団がどんなものだったか知りたいのなら、各地の教会を見てもだめ。むしろインタナショナル(国際労働者協会)の支部を見た方が早い」とのべていたことを紹介すると、会場から笑いがこぼれました。

 エンゲルスは「序文」を書く4年前、フランス人向けに書いた論文「ドイツにおける社会主義」の中で、この見通しをよりはっきりと書いていました。ドイツの党への呼びかけとして書いたのが「序文」でした。近づきつつある決定的な瞬間に何をすべきか、そのためにどんな心構えをしておくべきかを、言論の自由がないドイツで発表できるように、ぎりぎりの言葉で苦労してまとめたものです。しかし、ドイツの党指導部には理解されませんでした。革命的な調子をおびる表現の修正を求めたり、“合法性”だけを基準に勝手に要約版を発表したり、党指導部は抵抗と妨害をくりかえしました。エンゲルスは数カ月後に亡くなります。

 「エンゲルスの“遺言”はどうなったか」。不破さんは、エンゲルスの死後、ドイツ社会民主党がどう変わっていったかを追跡しました。

 選挙戦では、ドイツ社会民主党は、1893年の得票率23・3%から、1912年には34・8%へ前進を続け、全397議席中110議席を占める、帝国議会でもっとも強大な政党となるまでに成長しました。

 一方、思想的には、幹部のベルンシュタインがマルクスの革命論、経済論、政治論などへの批判を始め、「修正主義」を旗揚げ。これに対し、カウツキーら中央派は、明確な批判をしませんでした。ローザ・ルクセンブルクら左派の批判はありましたが、ドイツ帝国主義の植民地拡大政策が公然としたものとなるのと並行して、路線全体の右傾化がすすみ、植民地主義と軍備拡大に賛成の党に大きく変質しました。

 「多数者革命論で武装させたはずの党に、エンゲルスが手紙でこんこんと説きました。しかし、ドイツの党には、多数者革命論を分かっていた指導者が1人もいなかったんです」

 2年後に始まった第1次世界大戦では、ドイツ社会民主党の多数が、カウツキーらも含め、「祖国防衛の戦争」などとして戦争に賛成。各国の党にも同じ右転落が起こって、第二インタナショナルは崩壊し、ドイツの社会主義運動は「死に体」になりました。

 1918年11月、ドイツで、指導政党のないままでフランス革命型の革命がおこりました。エンゲルスが予見したように、軍隊からでした。社会民主党に政権が転がり込みますが、何の用意もありませんでした。大統領になった党首エーベルトは、軍部と連合して革命鎮圧の秘密の同盟を結ぶという異常事態を引き起こしました。

 不破さんは「もし、ドイツの党指導部がエンゲルスの“遺言”を受け止めて革命の道を進んでいたら、ドイツの歴史も変わっていただろう」とのべました。

社会変革を人民の意志と力で実行する

 では、ドイツ以外はどうだったのか。マルクス、エンゲルスの理論を正面から受け継いだのはロシアのレーニンでした。

 レーニンは、マルクスとエンゲルスの著作を徹底的に研究し「革命的精神と理論を受け継ぎ、発展させた第一人者です」。しかし、残念ながら多数者革命論は引き継げませんでした。多数者革命の重要な文献に接する機会がなかったことや、帝政ロシアではツァーリズム専制政治のもとで、強力革命以外に革命の道がなかったことが、その背景にありました。

 不破さんは、レーニンの著作『国家と革命』(1917年執筆)について「一番大事なところでマルクスの著作を読み違えている」と強調しました。(1)「強力革命」を革命の原理的な形態だとした、(2)生産物の分配という角度から未来社会を分ける二段階発展論に陥った―という誤りです。

 革命に入って理論的に“荒れた”時代があった一方、レーニンは20年からの晩年の3年間は理論活動の活力を取り戻しました。不破さんは、「戦時共産主義」体制から、市場経済を通じた経済発展の路線への転換や、資本主義国家との平和共存外交路線の採用、国内の少数民族を圧迫し大国主義をすすめるスターリンとの生死をかけたたたかいなどをあげたあと、「革命論でも新しい発展があった」とのべます。

 レーニンの指導のもとにつくられたコミンテルン(共産主義インタナショナル)の第3回大会では多数者の獲得を掲げ、さらに第4回大会では統一戦線戦術を提唱し、議会の多数を基礎に「労働者政府」ができる可能性まで示していました。

 しかし、レーニンは1924年1月、スターリンとの闘争中に病で世を去ります。多数者革命論に接近した議論は誰にも引き継がれず、その後に開かれたコミンテルンの第5回大会で、スターリンは第3回、第4回大会での提唱の中身を取り消しました。

 レーニンの後を継いだスターリンの革命論といえば、「強力革命」が原則という一本やりです。多数者革命論は皆無でした。その誤った武力革命方針をストレートに持ち込み、日本共産党に困難を押し付けたのが「50年問題」でした。

 53年のスターリン死去後も、後継者たちは、大国主義やスターリンの理論体系はそのまま引き継ぎました。武力革命一本やり路線は訂正して、平和的な道がありうることは認めましたが、多数者革命の立場からではなく、ソ連が強大になったからというソ連流の世界情勢論からでした。

 講義は、60年にモスクワで開かれた「81カ国共産党・労働者党国際会議」での論争に進みました。発達した資本主義国での革命について、日本共産党はアメリカへの従属下での段階的発展による民主主義革命を主張し認められたものの、フランスやイタリアの共産党の反対で「ヨーロッパ以外で」という地域的な限定がつけられました。

 一方、大勢は各国の条件の違いを考慮せず、ソ連の影響を期待して「社会主義革命が当たり前」という一本やりでした。「実は、革命論を考えるうえでここに大事な部分があった」とのべた不破さん。「そこには、社会主義革命に向かって、どう多数者をつくっていくかという議論がなく、ソ連社会主義が大発展して見本を見せてくれれば、その影響でやがて多数者になるだろうという安易な気持ちがあったから」と解説しました。

 それは70年代、資本主義国で最大の共産党だったフランスとイタリアの党が民主主義革命を必要なものと見直す劇的な変化で証明されました。

 フランス共産党は68年、社会主義革命の前段階として「先進的民主主義」という立場を打ち出しました。72年には社会党と左翼連合を組み、共同政府綱領を発表しました。

 しかしその後、社会党の勢力拡大に対する巻き返しを図るため綱領見直しで国有化部門の増加を求めて連合が決裂。左翼連合はわずか5年間でついえました。85年の党大会で「先進的民主主義」路線そのものを否定し、社会主義革命一本やりに逆戻りしました。

 イタリア共産党の場合は、革命路線の変更は、保守的な与党キリスト教民主党との「歴史的妥協」を狙っての産物でした。政権党と政策を一致させるため、一貫して訴えてきたNATO(北大西洋条約機構)からの脱退方針を撤回。こうして右傾化の道を進んだ結果、やがては、科学的社会主義の立場も党名も捨てて、「左翼民主党」に変身、いまではただの「民主党」へと落ち込んでいきました。

 よく似た日本の政党状況とダブらせて、会場を沸かせた不破さん。「日本の社会主義的変革を展望するとき、日本社会に沿った段階的発展を掲げ、それぞれの段階で多数者を得ながら、多数者自体が発展するという日本共産党の路線の的確さが非常によく分かる」ものだと語りました。

 続けて、アメリカ従属、財界言いなりの政治を変えようと訴えている日本共産党が多数者をつくって民主連合政府を実現すれば、「社会の仕組みの改革を、人民の意志で、人民の力で実行する歴史上初めてのことが行われます。それに成功すれば、さらなる改革への自信も体験も能力も国民の中心に生まれる。これが多数者革命の現代版です。私たちはその第一歩に立っているのです」と声を弾ませました。そのうえで、自主独立の立場がなかったフランス、イタリア両国の共産党には、「マルクス、エンゲルスの精神で世界を見る自主的な目をつかみ得なかった点に大事な教訓がある」とのべ、「革命論」講義を締めくくりました。

 最後に、不破さんは「古典教室」の次回について提案しました。資本主義世界での共産党の運動の現状を見ながら、「マルクス、エンゲルスを現代に生かし、その目で綱領をつくる党はないし、その目で世界を見る党もない。そのなかで私たちがマルクス、エンゲルスを日々の生活と活動の力にしようと勉強しているのは歴史的意義がある」と強調しました。

 戦前の日本で、マルクス、エンゲルスの全集を世界に先駆けてつくり、研究を重ねてきた歴史的経過も紹介。スターリンの干渉攻撃を打ち破ってきた党史に触れ、次回の最終講義は「マルクス、エンゲルス以後の科学的社会主義の理論史」をテーマにしようと提案すると、受講者から賛同の大きな拍手が沸きました。


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