お詫び:音声ブラウザ用簡易ページは現在機能しません。このまま、通常のページをご覧ください。

日本共産党

  • 文字サイズ
  • 小
  • 中
  • 大

ENGLISH PAGE

赤旗

日本共産党創立90周年記念講演会

日本共産党の90年をふりかえる

不破社研所長の講演

2012年7月18日


写真

(写真)講演する不破哲三社研所長

 会場のみなさん、全国のみなさん、こんばんは。(「こんばんは」の声)

 きょうはお暑いなか、日本共産党の90周年を記念するこの集まりにたくさんの方がおいでいただきまして、本当にありがとうございます(拍手)。私は、きょうのこの記念の日に、みなさんとともに党の歴史を考える機会を得て、大変うれしく思っております。

 みなさん。

 日本共産党の90年は、国民の利益、平和と民主主義、そして日本社会の進歩・発展をめざして、その障害となるものにたいしては、いかに強力で巨大な相手であろうとも恐れずに、立ち向かってきた歴史であります。おのずから三つのたたかいが浮かんでまいります。

1、天皇制国家に立ち向かって

天皇制国家とはなんだったか

 党創立の最初の時から立ち向かわなければならなかったのは、天皇制国家でした。この国家とはどんなものだったか。今の日本に生きるみなさんには想像ができない時代ですが、この国家は、神の名を掲げてはいたが、「天皇絶対」の旗を振りかざして、軍部がどんなことでもやってのける戦争国家でした。しかも、その決定や命令には国民は無条件で服従すべし、これに反抗するものは死刑をふくむ重罪でおどしつける、こういう体制でした。

党の綱領的方針。その理論的な支え

 日本共産党は、1922年の創立のときから、この国家を変革する民主主義の革命の旗を勇気をもって掲げて頑張りました。この方針をまとまった綱領的な文書として示したものが、いわゆる「27年テーゼ」、「32年テーゼ」でした。これは、当時、私たちが加盟していた国際組織のコミンテルンが、日本の党の代表も参加して討議して決めた結論でした。ただここでみなさん方に思っていただきたいのは、どちらの場合にも、そのテーゼが出る前に、日本の党の理論家たちが日本の社会を自分たちで分析し、テーゼに先立ってほぼ同じ結論を出していた、そういうことであります。最近、そのことを「赤旗」のインタビューで振り返る機会を持ちましたが、その理論家たちの中心に、30年代の大弾圧のなか党中央の再建の先頭に立ち、検挙されて3カ月後に33歳の生涯を終えた若い理論家・野呂栄太郎がいたことを、ぜひ心をとめていただきたいと思います。(拍手)

三つの国民的経験

 党は、このたたかいのために「国賊」のレッテルをはられ、あらゆる弾圧と迫害を受けました。渡辺政之輔、上田茂樹、岩田義道、小林多喜二、国領五一郎、市川正一など、多くの先輩が命を落としましたし、また宮本顕治元議長をはじめ獄中で戦時下の十数年をすごした幹部や活動家もいました。

 しかしみなさん、共産党のこのたたかいが国民にとってどんな意味をもっていたか、そのことをはっきり示したのが、15年にわたる戦争の経過ではなかったでしょうか。

 あの戦争は、アジア諸国民に大変な惨害をもたらした侵略戦争でした。同時にそれが日本国民にとってなんだったのか。私は、国民全体が体験した三つの経験を思い出していただきたいと思うのです。

 第一。この戦争に動員された軍人・兵隊の運命です。日本軍はアジア太平洋の戦場で、二百数十万の戦没者を出しました。しかし、その大部分は、戦って死んだのではありません。半分以上の百数十万人が餓死者、飢えて死んだのです。それは食糧補給の手だても講じないまま、何万、何十万の軍隊を平気で前線に送り出した、まさにその結果でありました。自国の軍隊の人命をこれほどまでに軽視し、無残に扱った戦争は、世界史にもほかに前例のないものであります。

 第二。フィリピンの戦争で完全な敗北をとげて最後に迎えた年、1945年の出来事です。もう戦争に活路はない、これは誰の目にも明らかでした。しかし、そのとき、天皇制国家をそのまま残す保証がないといって、平和交渉が拒否されました。あのときに和平交渉に踏み切っていたら、本土大空襲も、3月~6月の沖縄戦も、8月の広島、長崎も、そしてソ連の参戦による満州、樺太の悲劇もなかったはずです。ところが戦局打開の何の見通しも計画もないのに、国体護持を全国民の命よりも優先させ、「本土決戦」「一億玉砕」、これを叫び続けた天皇制国家の指導者たちこそが、1945年の国民的な大惨劇を引き起こしたのであります。

 第三。日本が降伏した時、世界が日本に要求したのは何だったのでしょうか。日本が受諾した連合国の「ポツダム宣言」に記されていたのは、日本国家の抹殺でも滅亡でもありませんでした。戦争国家の転換、つまり専制主義と軍国主義の日本を民主主義と平和主義の日本に変える、これが目標でした。その大局の方向は、わが党がめざしてきた民主主義の革命と一致しており、党のたたかいが世界の平和と社会進歩の流れに沿っていたことを証明したものでした。

 私はこの三つの国民的な経験を頭におきながら、天皇制国家に立ち向かい、平和と民主主義のたたかいに倒れた無数の先輩戦士たちに心からの敬意をささげるものであります。(大きな拍手)

2、覇権主義の巨悪とのたたかい

戦後のたたかい。第1次の躍進

 戦後、はじめて合法的な活動の権利を獲得したわが党は、ただちに、国民の生活復興と民主主義日本の建設をめざして活動を始めました。このたたかいで、次の三つの点に注目してほしいと思います。

 一つは、憲法の問題です。今の日本国憲法では、国民主権の原則がうたわれています。しかし、戦後、日本の政党のなかでこの原則を主張した政党は、日本共産党しかいませんでした。1946年に憲法制定の議会が開かれて、占領軍の承認を得た日本政府の草案が提案されたときにも、そこには国民主権の言葉はありませんでした。党の議員団が直ちに修正の提案を出しました。続いて、連合国の極東委員会が、同じ趣旨の厳しい決定をしました。この内外の力が相合流する形で、国民主権の原則を日本国憲法に明記させたわけであります。

 二つは、国の独立の問題です。世界の舞台で、米ソの対決が厳しくなるなか、アメリカの占領軍は、日本の民主化という最初の任務を捨てて国民と民主勢力の抑圧者という姿を現しました。そのとき、党は、47年12月の党大会で、「ポツダム宣言の厳正な実施」「日本の完全な独立」という行動綱領をわが党は掲げました。日本共産党が、占領下に勇気をもってこの旗を掲げた唯一の政党であったことは、私たちの誇りある歴史であります。(大きな拍手)

 三つ。党は、新憲法のもと、最初の選挙、47年選挙では、100万票、4議席しか得ませんでした。しかし、こういうたたかいのなか、49年1月の総選挙では298万票、35議席に躍進しました。他の政党がのきなみ占領軍への追従を競い合うなかで、確固とした国民的立場を貫いてきたわが党の、戦後第1次の躍進でした。

ソ連は覇権主義国家に変質していた

 ところが、その時、日本の党と民主勢力の前進を脅かす相手が、予想もしないところから現れました。それが、スターリンが支配するソ連だったのです。

 私たちは、社会主義の国であるソ連が大きな力をもったこと、続いて中国の革命が勝利したこと、このように世界情勢が変わってきたことは、日本の民主運動を進めるうえでも大きな有利な条件だと、当時はみていました。

 しかし、事態はまったく違っていたのです。私たちの国際交流が断絶していた10年余りのあいだに、ソ連はとんでもない体制に変貌していました。

 どう変わっていたか。そのあらましを、ソ連崩壊後明らかになった事実を含めて、おおまかにでも説明しておきたいと思います。

 まず、30年代のなかば、ソ連国内では、革命と社会主義のために身をささげた何万何十万、さらにはそれを超える人たちが「外国帝国主義の手先」という無実の罪を着せられてテロの犠牲になりました。コミンテルンで活動していたわが党の山本懸蔵などの同志を含め、多くの外国の共産党員もそれに巻き込まれました。

 その嵐が過ぎたあと、ソ連は、スターリンがすべての重要政策を1人で決定する、だれもがそれに無条件に従うという専制国家にすっかり変わっていたのです。

 スターリンは、この体制をつくりあげると、ソ連の領土と勢力圏の拡大を国家の至上目的とする大国主義、覇権主義の道に乗り出しました。まず、ヨーロッパで大戦が始まる直前、それまで掲げていたファシズム反対の旗を捨てて、ヒトラー・ドイツと手を結び、秘密条約(39年8月)で東ポーランド、バルト3国などを併合してしまったのです。

 西ヨーロッパを征服したヒトラーは、40年9月に日本やイタリアと軍事同盟を結びました。いわゆる3国軍事同盟です。ヒトラーは、11月にソ連の外相モロトフをベルリンに呼んで、この軍事同盟の仲間入りをソ連に提案したのです。その内容はイギリスを撃破したら、そのあとの世界を4カ国で分けようじゃないか、ドイツとイタリアはヨーロッパとアフリカ、日本は東アジアと東南アジア、ソ連には、中央アジアから南の中東地域を割り当てる、これでどうだ。こういうとんでもない計画でしたが、東欧の再分割ですでに味をしめているスターリンは、会談の報告を聞いた後、ヒトラーにオーケーという提案受諾の回答をしました。ヒトラーや日本の侵略国家と結んで自国の領土拡大をはかるなどということは、社会主義の精神を少しでも残していたら絶対踏み込めない話ですが、スターリンは平気でその道を選んだのでした。

 しかし、この4国同盟の提案は、すでに対ソ戦の方針を決めていたヒトラーが、戦争準備をソ連の目からごまかすために編み出した大謀略だったのです。ヒトラーはスターリンがオーケーの回答を出すと、ドイツ全軍に対ソ戦の準備に入ることを命令し、翌年1月早々からバルカンにどんどん軍隊を出します。ところがスターリンのほうは、「これはイギリス相手の作戦なんだ」というヒトラーの説明を真に受けて、何の本格的な手段もとらないまま見過ごしました。

 いま、ヒトラーが41年6月に、なぜソ連への“不意打ち”をあんなに見事にやってのけたのか、これが世界大戦の歴史の謎のひとつになっています。その最大の理由は、ヒトラーがスターリンの領土欲の強さにつけこんで立てた謀略作戦の成功にあったのです。

 この戦争が始まると、スターリンはいったん捨てた反ファシズムの旗をまた拾って、アメリカ、イギリスと結び、ヒトラー・ドイツを打ち破る戦争では、ソ連は大きな役割を果たしました。

 しかしこの中でも、彼は領土拡張主義を捨てなかったのです。特に戦争の末期、45年2月のヤルタ会談で、「残るは日本だけ、戦争を早く終わらせるために、ソ連も参戦してくれ」ということを、アメリカから求められると、スターリンは、「領土の獲物がなければソ連国民は納得しない」―こういって元ロシア領だった南樺太だけでなく、本来の日本の領土である千島もよこせ、それから日露戦争前にロシアが持っていた中国の国内の権益も復活させろ、こういう要求を出して押し通しました。これが今の「北方領土」問題の根もとにあるのです。

 あの戦争は、連合国の側では「領土不拡大」を掲げた戦争でしたが、その戦争の目的に自国の領土拡大をはっきり結びつけたのは、ソ連しかなかったということをはっきり見ておく必要があります。

 戦後の世界に登場したソ連は、社会主義や革命の精神を捨てた、こういう存在に変わっていたのであります。

「50年問題」

 スターリンは世界の共産党との関係では、戦争中、コミンテルンを解散させました。しかし、その代わりに、今度は主だった共産党の指導部を秘密の影の網の目で絡めとって、直接、ソ連の指導下に置く、こういう体制をとりました。

 しかし、日本共産党は、その網の目からはずれていたのです。この空白をうずめるために、スターリンは戦争が終わったそのときから、日本の党や運動に対する干渉の計画を練り始めました。

 私たちの党に大変な苦難と分裂をもたらした「50年問題」とは、スターリンがこの干渉作戦を発動したものでした。彼は、最初は、“善意の助言者”を装って手を出します。そして一部の幹部をがっちり自分の手に握ると、今度は党を分裂させて、その代表を北京に呼び、ここに分派の司令部をつくらせて、そこから日本に武装闘争の方針を持ち込むという、無法、むちゃなことをやりました。この無法が、アメリカによる日本共産党の事実上の半非合法化という弾圧と結びついて、あの時代、わが党を大変な苦難のなかに落とし込みました。49年選挙の躍進で勝ちとった議席も次の選挙ではすべて失いました。

 そして党が弱体になったその時期に、「講和」の名の下に日米安保条約を押し付けられ、日本はアメリカの基地国家という状態に今日まで縛り付けられたのです。

 私たちの党が、この苦難を乗り越えて、党の統一と再建に足を踏み出したのは、50年代の後半でした。まだ、ソ連の覇権主義の正体を見抜くところまではいきませんでしたが、自分たちの経験からの教訓として、「相手がどんな経験を持ったどんな大国の党であれ、外国勢力の干渉は許さない、日本共産党の方針はすべて自分自身で決める」、こういう自主独立の態度を確立しました。

 そして、1958年の第7回党大会、61年の第8回党大会を通じて、党の綱領を打ち立てました。この綱領で、アメリカとの従属関係を断ち切り、国の政治・経済で国民本位の民主改革を実行する、こういう民主主義の革命にまず取り組んで、次の段階で社会主義に進むという段階的な発展の戦略を立てました。当時の世界の運動では、発達した資本主義国では社会主義革命が当たり前というのが一般の方向で、私たちのこの方針は異端者扱いされました。しかし、わが党は、60年の国際会議でも、ソ連、イタリア、フランスなどの党の反対意見を論破して、国際会議の声明にこの路線の意義付けをきちんと書き込ませました。

 この頃、日本で政権を握るようになったのは、保守合同で生まれた自民党でした。この自民党に、アメリカと日本の支配勢力は、二つの異常な政治のレールを押し付けました。

 一つは、アメリカの基地国家のままで、日米安保条約絶対の道を進むという「アメリカ言いなり」のレール。もう一つは、大企業集団の復興、成長、発展に国を挙げて取り組むという「財界言いなり」のレールです。

 この言葉は、よく聞かれることだと思いますが、大本はこのあたりにあるのです。これがいまも生きて、日本の政治を狂わせている間違ったレールの始まりだということを、どうかよく覚えておいてほしいのです。(拍手)

 党が決定した綱領は、これと対決して、日本の前途に新しい進路を開く内容を持っていました。

二つの戦線での闘争。第2次の躍進(69、72年)

 この綱領のもとで私たちが政治革新のたたかいに取り組んでいる最中の1964年、「自主独立の党の存在は許さない」と、ソ連共産党から再び攻撃がかかってきました。スターリンはもう死んでいましたが、覇権主義のDNAは後継ぎの人たちにそのまま引き継がれていました(笑い)。その2年後の66年には、中国からの攻撃が始まりました。国内で、「文化大革命」という暴走を始めた毛沢東派が、日本共産党を「日中両国人民の共同の敵」と言い立てて、全面攻撃に乗り出したのです。

 ソ連も中国も、言葉だけの攻撃ではありません。それぞれが国の総力を挙げ、日本国内に反日本共産党の戦線を広げると同時に、内通者をもり立ててニセの「共産党」をつくり、本気で日本共産党をつぶそうという大干渉作戦でした。

 世界でも二つの大国の党から同時にこうした乱暴な干渉攻撃を仕掛けられた共産党は、ほかにはないのです。

 われわれは一歩も引かずに、この攻撃と正面からたたかいました。文字通り全党が立ち上がって、二つの干渉作戦を徹底的に打ち破り、同時に国内政治でも、党綱領の旗のもとで、大きな躍進を勝ち取りました。

 総選挙では、58年の選挙で101万票、1議席。60年の安保闘争の年にも、115万票、3議席でした。それが、69年の320万票、14議席、そして72年の563万7000票、39議席に、このたたかいのなかで大躍進をしたのです。

 これを支える党勢も、58年の7回大会のときには、党員3万6000人、「赤旗」読者は4万7000人、これが出発点でした。当時はまだ日曜版はなかったのです。

 それが、73年の第12回党大会のときには、党員34万2000人、読者は日刊紙が63万4000人、日曜版257万人へと大きな発展を勝ち取りました。

 いま振り返っても本当にすごい時代だったと思います。内も外も激戦につぐ激戦の時代でした。党員の一人ひとり、ともに腕を組んで干渉者に反撃し、日本の平和・民主主義の自主性を守り抜いたすべての人々の一人ひとりが、まさに「英雄」の名に値する、そういう歴史的な奮闘の時代だったというのが、当時を振り返っての私の強烈な印象であります。(大きな拍手)

70年代。政治の様相が一変した

 日本共産党の躍進は、1970年代に日本の政治の様相を一変させました。

 1950年以来、革新府政を維持してきた京都に続いて、67年には東京都、71年に大阪府、川崎市、72年には沖縄、埼玉、岡山の3県、73年には政令都市の名古屋と神戸、74年には香川と滋賀の2県と、革新勢力の勝利が相次ぎました。75年4月のいっせい地方選挙の時点では、全国の革新自治体の数は205、その人口は約4700万人。日本の総人口の約43%が革新政治のもとで生活するというところまで進みました。これは国政に大きな影響を及ぼしました。特に例を挙げますと、革新自治体で老人医療費無料化が広がるでしょう。そうすると、さすがの政府もこらえきれなくなって、72年6月、国として老人医療無料化の老人福祉法改正を決める。こういうことまで起きたのです。

 国会でも論戦が活発化しました。もちろん私たちは綱領の立場で、日本の新しい進路を示して頑張ります。どの野党も、自民党の路線には同調しないで、それぞれの立場で国の進路を争う、これが当時は国会論戦の当たり前の姿でした。

 国会運営でも、共産党の参加で、新しい展開が続々と起こりました。

 73年、石油ショックのさなか、大企業の売り惜しみ・買い占めで国民生活が大変な目にあったとき、国会に大企業の代表を呼んで、悪徳商法を徹底的に追及して告発しました。これも、国会史上初めての快挙でした。

 76年にロッキード問題が起きたときには、政府与党がもみ消しに回りました。その時に、共産党、社会党、公明党の3党が組んで、自民党に物を言わせないで、両院議長と各党5党首の会談を開かせて、そこでロッキード徹底究明のレールを敷く。こういうこともやりました。

 統一戦線は国政にも及びました。この問題では、共産党と社会党の間で論戦がずっとあったのですけれども、70年代の後半には、社会党と共産党の党首の間で、統一戦線に向かってお互いに努力しようということで3回も合意しあいました。

 簡単に見ただけでも、70年代の政治がいまの国の政治の状況と、どんなに違っていたか、お分かりいただけるのではないでしょうか。

3、「オール与党」体制を打ち破るたたかい

1980年。支配勢力が総力をあげた反共戦略を開始

 この状態は、日本の支配勢力にとっては大変なショックでした。彼らは、“もう日本共産党というのは「50年問題」でおしまいになった、片付いた”と思っていたのです。その党がさらに大きな力をもって復活してきた。自主独立で、ソ連にも中国にも負けない、これは大変だというので、彼らは作戦をめぐらせました。作戦といっても、戦前やアメリカの占領時代のように弾圧する、というわけにはゆきません。

 それで、彼らが選んだのは、共産党に進出の可能性を与えないように日本の政界をつくりかえるという道でした。

 それは、自民党政治のレールの上に共産党以外の政党を全部乗せてしまう、形の上では与党・野党の区別はあっても、大きな路線は全部一緒だ。言い換えれば、安保のような大きな政治問題では日本共産党以外は全部「与党」だ、いわゆる「オール与党」です。この体制をつくりあげようという作戦が1980年からはじまりました。

 最初は、政治制度をかえるところまではゆきません。とりあえず、政党工作だというので、社会党に狙いをつけ、公明党が働いて、社会党を革新から引きおろしました。80年1月の「社公合意」といわれるものです。

 これが、日本共産党を政界ののけものにする、あの党に投票しても無駄だということを見せつける、こういう作戦のはじまりでした。それ以後、80年代の国会でも、地方政治でも、革新の声がずっと静まって、社会党と自民党の協調でなんでも運営されていくなれあい政治がまたはじまりました。

 しかし、こういう体制は必ず汚職・腐敗をふやします。これではもうもたないとなった90年代初めに、政党工作だけではだめ、政治制度のあり方を変えなければいけない、そういうことで、今度は、いわゆる「政治改革」が問題になりました。小選挙区制と政党助成金を入れて、「オール与党」を二つに分けて、「自民」と「非自民」の二つの政党の間で選挙をするように仕組む、そうすればもう共産党の入り込む余地がない、こういうシステムにしようという企てでした。93年の総選挙では、この筋書きに沿って「オール与党」が「自民」と「非自民」にきれいに分かれました。選挙の結果、細川首相をかついだ「非自民」連合が勝って、政権交代ができ、みごとに自民党政治の危機を救いだしました。しかし、そのときは、「非自民」政党というのは、八つの党の連合所帯でまとまらず、細川内閣は、政治改悪の法案を通しただけでつぶれてしまいました。そうなると、「非自民」連合もばらばらになります。その結果、二つの政党どころか、たくさんの政党が並び立つ多党化時代に入ってしまったのです。

第3次の躍進(96、98年)。「二大政党」づくりの新戦略

 こうして、にわかづくりの「二大政党」体制が壊れると、もう新しい選挙制度も“共産党封じ込め”の力をもちません。そうなれば、だれが国民の利益を守るか、だれが日本の進路を開く力を持っているか、これが、いや応なしに選挙戦で問われます。

 党が、1996年の総選挙で比例726万8000票、98年の参議院選挙で比例820万票、第3次の躍進を実現したのは、こういう情勢のもとででした。

 二つの選挙の結果を受けて、“これは大変だ”と、今度は財界総がかりでの3回目の企てが2003年に始まりました。それが「二大政党」づくりの新戦略です。

 10年前の細川新党みたいにごちゃごちゃの連合ではだめだ、もう少し長持ちのする「非自民」の統一政党をつくろう、こういう構えで新民主党が生まれました。「選挙とは政権党を選ぶもの」、そういう「原則」を勝手に宣言して国民に押しつけ、「二大政党」以外の政党は枠外にする、こういう狙いで選挙方式の切り替えも大掛かりに強行されました。いまでは評判がた落ちの「マニフェスト選挙」もこのときに持ち込まれたものでした。

 しかし、3回目のこの作戦も、投票集めの切り札とされた「政権交代」が3年前にいよいよ実現してみると、もうだめです(笑い)。結局、衣装だけ替えて自民党政治を続かせる、そういうやり方だということが、たちまち明らかになりました。

反共作戦のかげでの悪政の進行

 そういうことばかり、つまり共産党締め出しに大変なエネルギーを使ってきたのが、この30年間でした。では、その間に、大事な政治の本業では、何がやられてきたのか。それは、半世紀も前に設定された「アメリカ言いなり」「財界言いなり」のレールの上を、無責任・無反省にただ走り続けるだけの「投げやり政治」でした。

 その経過と結果を見るために、いま消費税増税の口実として大問題にされている財政危機が、なぜうまれたかを考えてみましょう。

 財政危機の深さを示すモノサシに国と地方の借金(長期債務の残高)という問題があります。これがその国の経済の力、国内総生産=GDPに対してどれぐらいの割合になっているか、世界では、財政危機の深さをこの割合で測るのが普通になっています。

 いま日本ではこの借金比率は190%、世界でも最悪の状態となっています。

 これは自動的に増えてきたわけではありません。だれが増やしたのか。だれが利益を得てきたのか。事実を見てみましょう。

 日本の財政は、1970年代の末、「オール与党」体制ができる前の時点では、借金の総額98兆円、借金比率44%とまだ健全でした。それが「オール与党」体制が始まって10年たった80年代の末には、借金総額254兆円、比率61%。当時、ヨーロッパのEUでは危機ラインは60%といわれましたから、それを突破するところまで悪化してしまったのです。94年度末に、これが75%にもなった時、政府の諮問機関である財政制度審議会は答申(95年5月)を出して、この「現状は近い将来において破裂することが予想される大きな時限爆弾を抱えた状態」だ、なんとかしなければ、という厳重な警告を出しましたが、政府や与党筋でこの警告に耳を傾ける者はだれもいませんでした。

 90年代末にこれが120%を超えたときに、私は当時の小渕首相相手の党首討論(2000年2月)で、この現状を指摘して警告したのですが、彼の答えは「私は1年半で借金を101兆円増やしましたよ」(笑い)と自慢顔でいうだけで、まさに「投げやり政治」を絵に描いたような姿でした。

 こうした政治が続いた結果、現在ではついに借金総額は900兆円、借金比率190%、十数年前に警告された「時限爆弾」の爆発どころではない状態にまでなったのです。

浪費財政の責任者、受益者はだれか

 この危機の責任を負っているのは、「オール与党」勢力であって、国民ではありません。誰がこの危機からもうけたのか。これも、放漫財政の実際を見ればわかります。

 放漫財政でまず問題になるのは、軍事費と公共事業費です。その予算の動きを、10年ごとの合計で年代別に比べてみると、こうなります。

 軍事費は、70年代12兆6000億円、80年代30兆5000億円、90年代46兆8000億円、2000年代48兆7000億円。こういう増え方で、90年代がグンと多いんです。

 公共事業費は、70年代153兆2000億円、80年代291兆3000億円、90年代460兆3000億円、2000年代293兆6000億円。これも、やはり90年代に大幅に増えています。それ以後は、赤字の圧力で多少落ちました。

 なぜ、90年代にこんなに増えたのか。90年代といえば、その年代の頭、91年にソ連が崩壊しました。「防衛」上一番の脅威としてきたソ連が崩壊したのだから、軍事費が減ってもいいはずなのに、これがどんどん膨れ上がった。調べてみると、例えば、対ソ戦にしか使えない「90式戦車」というものをソ連崩壊後もどんどん300両以上も造り続けました。対ソ戦用のイージス艦、1隻1200億円もするものを、これまた6隻も造りました。この二つの兵器だけで合計1兆円を超えるむだな費用が軍需産業に支払われたのです。こんなバカげたことをやった。

 公共事業では、90年代の公共事業予算は70年代の3倍を超えました。覚えておられないでしょうか。最初に海部首相がアメリカのブッシュ大統領と(90年)、続いて村山首相と橋本首相がアメリカのクリントン大統領と(94、97年)約束して、結局、毎年50兆円ずつの公共投資を13年間続けるという取り決めを交わしたのです。公共投資とは、国民の必要があるから投資するものでしょう。それなのに、いくらやるかという金額の莫大(ばくだい)な枠をアメリカと先に決めてしまって、それから政府が投資先を探す。そういう逆立ち政治が90年代に始まったのです。

 こうして「浪費が美徳」、これが「オール与党」政治の合言葉になり、日本の財政は、だれも心配しないまま楽々と危機ラインをはるかに突破して今日に至ったのです。

 しかもその間、税金の負担の面でも大改悪がありました。80年代末には税収全体の34%を占めていた財界中心の法人税が、いまでは20%を割るところまで大幅に減っているのです。

 予算の浪費でも最後のもうけ仕事は財界に行く、税金の改悪でも最後の利益は財界のためをはかる、こういうことがずっとやられてきた。この歴史をきちんと見るなら、今の財政危機の責任が国民にあるのではない、社会保障費の増大にあるのでもない、そのことに議論の余地がないではありませんか。(拍手)

 アメリカと財界の注文のまま、30年にわたって「浪費」の限りを尽くしてきた「オール与党」政治こそ、その責任者であります。そしてそこから最大の利益を得てきた者こそ、財界・大企業集団です。危機の責任を負う政府与党が、自分の責任で、最大の受益者である財界・大企業の負担でこの危機を解決する――この道を探求するのが当然ではないでしょうか。(大きな拍手)

 しかし、「オール与党」の誰も、その責任の意識すら持ちません。自分たちの悪政の責任を平気で国民に押し付ける。こういう勢力にこのまま政治を任せ続けるわけにゆかないことは、この歴史を振り返っただけでもまったく明らかではないでしょうか。

4、日本共産党の理論史

 党史を語る場合、60年代以後の党の理論史を省くわけにはゆきません。この半世紀は、理論面でも、党史の上で特別の時代をなしていました。

スターリンのえせ理論体系が世界の定説になっていた

 自主独立の立場を確立したことは、党の理論的発展の新しい出発点になりましたが、それだけで問題は解決しませんでした。スターリンは、科学的社会主義とは似て非なる理論体系をつくって、それが世界の定説になっていた場合が少なくなかったからです。

 社会主義の理論では、ソ連に立派な社会主義のモデルができているのだから、いまさら古い理論を持ちだす必要がない、ということで、マルクスの社会主義論の豊かな財産はお蔵にしまいこまれました。革命論でも、マルクスの理論は革命がまだ現実の問題になっていないときにつくられたもので、いまではそれは無用の長物、こう決めつけて、あっさり投げ捨てられました。

 経済学では、『資本論』の大筋だけは引き継ぎましたが、それにスターリン流の「資本主義の全般的危機」論なるものを継ぎ足して、これが現代資本主義を研究する最高の理論だとされました。

 哲学や社会科学の問題でも、スターリンが書いたとされる教科書の小冊子があって、そこでは唯物論も、弁証法も史的唯物論もいくつかのテーゼに簡単にまとめられている。そこに精髄があるとされました。

 世界情勢論では、世界をアメリカを先頭とする帝国主義陣営と、ソ連を先頭とする反帝国主義陣営とに分けて、ソ連の強化・発展こそが世界の進歩・発展の力になるんだと、こういうソ連第一主義が押し出されました。

 これらの理論は、世界の運動の中で常識的な定説となっている場合が多く、それを振り払って日本と世界を「科学の目」で分析する科学的社会主義の現代的観点を確立することは、自主独立の旗を立てたからすぐできるというものではなかったのでした。

科学的社会主義の理論的再生をめざして

 われわれは、ソ連や毛沢東派との論争の中で、また日々ぶつかる日本と世界の諸問題との切り結びの中で、理論のかかわる全領域にわたって、マルクス以来の科学的社会主義の本来の理論と精神を復活させ、スターリンが持ち込んだえせ理論体系を克服する仕事に全力をそそいできました。「マルクスをマルクス自身の歴史の中で読む」―これを合言葉にしたマルクスの理論的な到達点の研究や、レーニンの積極面と同時に誤りも明らかにしながらその理論的遺産をくみ取る研究も、すべてこの立場で行ってきたものでした。ここで、その内容を詳しく報告するわけにはゆきませんけれども、第7回党大会以来の党大会の記録や、われわれがその間に発表した主な論文だけでもざっと見ていただけば、おおよその内容はわかっていただけると思います。また、古典教室の最後の講義でやや詳しく報告し、その部分は『前衛』7月号に掲載しましたので、参照していただければありがたいと思います。

 わが党は、2004年の第23回党大会で党綱領の抜本的改定を行いましたが、新しい綱領には、61年以来の党の理論的発展のすべてを盛り込みました。

 そして、われわれが半世紀にわたって取り組んできたこの仕事は、スターリン時代の中世的な影を一掃して、この理論の本来の姿を復活させ、それを現代に生かす、いわば科学的社会主義の「ルネサンス」をめざす活動とも呼べるものだ、と私は思っています(拍手)。そういう意味で、日本共産党のこの間の理論史は、国際的にも重要な意義を持っていることを強調したいと思います。

5、歴史を踏まえ、日本社会の新しい進路をめざして

 こういう歴史の中で日本の現状を見る時に、私は、いま日本の社会は迫りつつある大きな転換の前夜にあるのではないか、こういう予感を痛切に感じます。

 ――悪政の連続のもと、国民の苦難は生活と権利の全分野で明白です。さらに、「アメリカ言いなり、財界言いなり」の政治を進め、そこから利益を独り占めにしてきている財界自身が、こういう政治を歓迎しながらも、多少とも長い視野での先の話になると、まったく見通しを持てないで戸惑っている、このこともいたるところで明らかになっています。

 だいたい資本主義のもとでも、一国の健全な経済発展は、国民生活を中心にした内需の拡大なしにはあり得ないのです。これが経済の鉄則ですから、国民を犠牲に財界・大企業の成長だけを追求する、こんな枠組みでは矛盾を深刻化するだけです。

 ――外交では、いま世界では、日本の存在感がまったくありません。だいたいみなさん見てごらんなさい。何かことが起こった時に、日本に相談に来る国がありますか(笑い)。これは、内閣の出来不出来だけの問題ではないのです。自主性を欠いたアメリカ頼みの外交を半世紀以上も続けてきたこの国で、こういう外交では、前途は絶対に開けないのです。

 世界はいま、発展的な大激動の時代を迎えています。発達した資本主義が世界の主役だった時代は終わりつつあります。人口はいまでは世界総人口の7分の1、経済の比重も、この20年間に世界の80%から60%に低下しました。

 そしていま大きく登場しているのは、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの国々です。これらの国々は16世紀から19世紀にかけて資本主義に侵略され、それまでの文明的な発達をピシャッと閉ざされた国ばかりです。その国々が、植民地体制が崩壊したなかで、独立国家として世界の表舞台に登場し、政治でも経済でも大きな役割を果たすようになっています。これは、文字通り世界の様相を変える巨大な変化でした。

 いま、私たちが生きているのはこういう変化し躍動する世界なのです。この変化した世界で60年前に押し付けられた日米安保と「アメリカ言いなり」政治にしがみついているままの日本が、自分の居場所を見つけられないのは当たり前ではないでしょうか。(大きな拍手)

 ――日本の国民の間でも、政治の地殻を揺るがすような底深い大きな変化が進行しています。原発ゼロ、消費税増税反対、TPP反対、オスプレイ配備反対など、どの問題でも運動は、これまでのいろいろなしがらみをおし流す勢いで、大きな国民的うねりになりつつあります。毎週金曜日の原発再稼働反対の行動。この行動で若い世代が先頭に立っていることは、これからの日本にとって本当に頼もしいことであります。(大きな拍手)

 ――そのなかで、これまでの古いレールにとらわれたままの政党と、それを転換して新しい進路をめざす政党との違いも、いよいよはっきりしてきています。政局的な離合集散はこれからもいろいろあるでしょう。しかし、あれこれの名前や看板で目新しさを装ってみても、「アメリカ言いなり」「財界言いなり」という古いレールときっぱり手を切る覚悟を欠いた立場では、いまの日本の行き詰まりを打開することはできません。

 日本共産党は、自民党政治の異常な枠組みを打ち破るために、半世紀をこえて粘り強くたたかってきた政党であるからこそ、「経済提言」でも「外交ビジョン」でも、日本の政治の転換の道筋を具体的に提起することができるし、そこから見えてくる新しい日本の展望が、いままで親しい接触がなかった団体や分野のあいだにも、連帯と共感の声をひろげつつあります。

 ――外交面でいえば、日本共産党は、野党ではあるが、この十数年来の野党外交の展開を通じて、アジアの近隣諸国とも、イスラム諸国とも、またラテンアメリカの新興諸国とも、対話と友好のネットワークを築いてきました。このネットワークの広さと質は、資金頼みの政権党のネットワークよりも、広くかつ強いものがあるかもしれません。

 これらが示しているのは、「オール与党」体制下、長年続いた古い政治が生み出した閉塞(へいそく)感を打ち破り、21世紀にふさわしい新しい前進の時代を開く客観的な諸条件が、各方面から熟しつつある、こういうことではないでしょうか。(拍手)

 いま、私たちは、日本の新しい進路につながる諸要因が、社会のさまざまな地点で大きく生まれつつあるなかで活動しています。そして、そのなかで党の創立90周年の記念すべき日を迎えています。その意義を深くつかもうじゃありませんか。私は、その肩に日本の未来を担っている若い世代のみなさんに、特にこのことを訴えたいのであります。(拍手)

 いま、私たちがめざしている日本共産党の躍進は、日本の進路の21世紀的な転換というこの大事業の要をなすものであります。創立以来90年間、日本の社会変革の事業に力をつくしてきた数知れない先輩たちの活動に思いを寄せ、その志を受け継ぎながら、日本共産党の躍進のために全力を注ぎ、日本共産党の歴史の新しいページ、そして日本社会の歴史の新しいページを開こうではありませんか。どうも、ありがとうございました。(割れんばかりの拍手)

 

政策