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ロシア大統領の千島訪問について

志位和夫委員長の談話

2010年11月1日



記者会見でロシア大統領の千島訪問についての談話を発表する
志位和夫委員長(11月1日、国会内)

 一、ロシア連邦のメドベージェフ大統領は1日、ソ連時代を含め同国最高指導者としては初めて、日本の歴史的領土である千島列島の国後島を訪問した。

 今回の訪問は、日本国民にとっては、大統領のたんなる「国内視察」ではない。それは、ロシアの最高権力者が、同国に不当に併合された日本の領土である千島を、「ロシアにとってきわめて重要な地域」としてこれからも占領しつづけ、領有を固定化しようとする新たな意思表示であり、領土問題の公正な解決に反するものであって、わが党はきびしく抗議する。

 一、ロシアとの領土問題は、第2次世界大戦の終結時に、ソ連が、「領土不拡大」という戦後処理の大原則を踏みにじって、日本の歴史的領土である千島列島の獲得を企て、対日参戦の条件としてアメリカ、イギリスなどにそれを認めさせるとともに、講和条約の締結も待たずに、千島列島を自国の領土に一方的に編入したことによって起こったものである。そのさいソ連は、北海道の一部である歯舞群島、色丹島までも編入したのであった。

 この戦後処理の不公正を正すところに、ロシアとの領土問題解決の根本がある。

 わが党は、この立場に立って、1969年に千島政策を発表して以来、全千島列島と歯舞群島、色丹島の返還を求めてきた。

 一、日本政府の対ロシア領土交渉が、1956年の日ソ共同宣言以来、半世紀を超える努力にもかかわらず、不毛な結果に終わっているのは、この根本問題を避けてきたところに最大の根源がある。政府は、問題をサンフランシスコ講和条約の枠内で解決しようとして、「四島は千島に属さないから返せ」という主張に頼っている。しかし、この主張が国際的に通用する道理を持たないことは、サンフランシスコ会議における日本政府代表(吉田全権)とアメリカ政府代表(ダレス全権)の発言およびこの条約の批准国会における政府答弁を見ても、明らかである。

 一、わが党は、歴代の日本政府にたいして、日ロ(日ソ)領土問題の解決のためには、千島放棄条項を不動の前提とせず、第2次世界大戦の戦後処理の不公正を正すという立場に立って、対ロ(対ソ)領土交渉をおこなうことを提起してきた。

 ロシアが現状固定化をめざして新たな強硬措置に出ようとしてきた今日、日本政府が、半世紀の領土交渉の総括を踏まえ、歴史的事実と国際的道理に立った本格的な領土交渉に踏み出すことを、強く要請するものである。


【関連】 「しんぶん赤旗」2010年11月2日付より

日ロ領土問題 歴史的経過を見ると―

 日本共産党は、1日の志位和夫委員長の談話でのべているように、1969年に千島政策を発表して以来、日本の領土として全千島列島と歯舞(はぼまい)諸島、色丹(しこたん)島の返還を求めてきました。党綱領でも「日本の歴史的領土である千島列島と歯舞諸島・色丹島の返還をめざす」と明記しています。これは、歴史的経過からみても当然の主張です。

全千島が日本領土

 千島列島は、北端の占守(しゅむしゅ)から南端の国後(くなしり)までの諸島をさします。幕末から明治にかけての日ロ間の平和的な外交交渉では、全千島が日本の領土と確定されました。

 それは、両国の国境を決めた二つの条約をみれば分かります。(地図参照

 日ロ間の最初の条約は、「日魯通好条約」(1855年)で、日ロ間の国境は択捉(えとろふ)島と得撫(うるっぷ)島との間におき、択捉以南は日本領、得撫以北はロシア領とし、樺太(からふと)を両国民の“雑居地”にするという内容でした。

 その後、「樺太・千島交換条約」(1875年)で、日本は樺太への権利を放棄し、その代わりに、得撫以北の北千島を日本に譲渡し、千島全体が日本に属することで合意しました。

 その後、日露戦争で日本は樺太南部を奪いましたが、全千島が日本の領土であることは、第2次世界大戦の時期まで国際的に問題になったことはありません。

ヤルタ密約の誤り

 ところが、ソ連のスターリンは、米英首脳とのヤルタ会談(1945年2月)で、対日参戦の条件としてソ連への千島列島の「引き渡し」を要求し、米英もそれを認め、密約を結んだのです。これは、「領土不拡大」(1943年のカイロ宣言など)という戦後処理の大原則を踏みにじるものでした。

 ヤルタ密約の誤りは、サンフランシスコ講和条約(1951年)第2条C項にひきつがれ、「千島放棄条項」になりました。

 「サンフランシスコ条約第二条C項 日本国は、千島列島…に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」

 その後、日本政府はこの千島放棄条項を前提にして、“南千島(国後、択捉)は千島ではないから返せ”という国際的に通用しない解釈で返還要求を続けてきました。この主張があとからのこじつけであることは、サンフランシスコ会議における日米両政府代表の言明やその後の国会答弁で明らかです。

 吉田茂・日本政府代表の発言(51年9月7日)…「日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアもなんらの異議を挿(は)さまなかった」「日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時…」

 つまり、日本代表の吉田氏自身が、日本が放棄する千島列島には、択捉、国後が含まれるという演説をしているのです。

 ダレス米国代表の発言(51年9月5日)…「第二条(C)に記載された千島列島という地理的名称が歯舞諸島を含むかどうかについて若干の質問がありました。歯舞を含まないというのが合衆国の見解であります」

 これは、講和会議のさい、日本政府が「歯舞、色丹は千島ではない」と主張したためですが、それ以外は千島列島だという見解を示したものです。「南千島は千島にあらず」という日本政府の立場では、択捉・国後でさえ、道理をもって要求できる論立てにはならないのです。

 さらに、サンフランシスコ条約の批准国会ではどうか。

 外務省・西村熊雄条約局長の答弁…「条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております」「この千島列島の中には、歯舞、色丹はこれは全然含まれない。併し(しかし)国後、択捉という一連のそれから以北の島は、得撫(ウルップ)・アイランド、クリル・アイランドとして全体を見ていくべきものではないか」(51年10〜11月)

 西村局長の答弁は、南千島、北千島と分ける道理はない、択捉、国後以北の島は全体として千島列島を構成するというもの。「南千島は千島にあらず」という論立てが成り立たないことを、政府自身認めていたのです。

 ソ連の不当な領土併合という根本問題を避けて、サンフランシスコ条約の前提に縛られている限り、領土問題の解決ができないのはこうした経過からみても明らかです。

千島列島の地図

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