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衆院本会議 不破委員長の代表質問 1999年11月2日
自民党政治は、いま多くの分野でゆきづまり状況におちいっており、政策の大胆な転換が求められています。
まず、原子力行政の問題です。九月三十日に起きた東海村の核燃料施設での臨界事故は、日本の国民にはもちろん、世界にも衝撃をあたえました。そこで浮き彫りになったのは、日本の原子力行政の根本的な欠陥だったからであります。しかもその欠陥は、今日の国際的な水準からいえば、けたはずれのものであります。
第一の問題は、政府の行政が「安全神話」を基礎にしていることです。
すでに国会の委員会審議で明らかになったことですが、今回の事故のさい、現場の事業所からは事故発生の四十分後、午前十一時十五分に「臨界事故」という判断がファクスで科学技術庁に送られてきました。しかし、担当部局は「臨界事故など信じられない」としてその報告をうけいれず、科学技術庁が臨界事故であるとの確認に到達したのはそれから五時間近くたった午後四時ごろだったとのことです。そこに、事故対策の遅れの決定的な背景がありました。これこそ、「安全神話」のおそろしさのまぎれもない実証ではないでしょうか。
「安全神話」とは、「原子力は安全だから心配でない」という立場です。これを国民に宣伝すると同時に、自分もこの「神話」にとらわれて、安全対策を手抜きする。原子力大国でありながら、こんな「神話」に固執している政府は、日本以外には、今日の世界にどこにもありません。
アメリカで一九七九年にスリーマイル島の原発事故が起きたとき、大統領命令で事故原因の調査にあたったケメニー委員会が、最終報告でもっとも強調したのは、「原子力発電は安全だ」という思い込みに最大の問題があった、これを「原子力発電は本来的に危険性の高いものである」という姿勢に切り替えねばならない、という反省でした。この教訓は、いまでは世界の多くの国々の共通の認識となっています。
いま原子力行政では、基本姿勢のこの転換がなによりも必要ではありませんか。原子力のもつ本来的な危険性について国民に正直に語り、だからこそ、政府が国民の安全確保のために万全の体制をとる、「安全神話」を一掃して、正直で科学的な行政への転換を断行するよう、強く求めるものであります。
第二の問題は、安全確保の体制の問題です。日本のこの体制にも、世界的な水準からみて、たいへんな欠陥と立ち遅れがあります。
世界の多くの国では、原子力の安全のための規制の仕事は、原子力発電を推進する行政部門とは切り離されています。たとえば、イギリスでは保健省が、ドイツでは環境省が、アメリカでは独立した行政機関である原子力規制委員会が、この仕事にあたっています。ところが、日本では、原子力施設を設置する認可の権限も、原子炉は通商産業省、再処理は科学技術庁というように、すべて原子力の研究や開発をすすめている推進部門がもっています。規制の仕事が原子力発電を推進する部門のいわば副業として扱われているわけで、これでは、国民が信頼できる安全行政が成り立つはずはありません。
現在、推進部門から独立した形になっているのは、原子力安全委員会だけですが、その権限はきわめて弱いもので、原子力の施設や事業の認可についても補助的な権限しかあたえられていません。
さらに、この委員会は、人事面でも技術面でも、それに必要な体制をもっていません。アメリカの原子力規制委員会は、三千人をこえる専門のスタッフをもって、原子力発電のすべての過程に責任を負う仕事をしています。ところが、日本の原子力安全委員会では、安全委員の五人については九九年度から全員常勤の態勢がようやくとられるようになりましたが、専門委員二百四人は全員非常勤で、専従者は事務職の職員十八人にとどまるという、きわめて貧しい態勢であります。
私は、一九七〇年代に国会でこの問題をとりあげ、アメリカの実例もあげながら、原子力発電に手をつける以上、その安全に責任を負える体制の確立が急務であることを、つよく指摘しました。それから二十年あまりたち、日本は世界で有数の原子力大国となりましたが、安全確保の体制は世界でもっともおくれた状態のままであります。
私は、ただちに次の改革にとりくむことを、提案するものです。
規制機関を推進行政から独立させよ、質量ともに十分な専門的スタッフの配置を
第一は、原子力の安全行政を推進行政と切り離し、安全確保のための独立した規制機関を確立し、施設や事業の認可や運転の点検、事故時の調査など、安全行政に必要な権限をこの機関に集中することであります。これは、国際原子力機関が定めた「原子力発電の基本安全原則」で、すでに一九八八年に国際基準として定められていることであります。
第二は、専従者を中心にした安全審査、安全行政の体制を確立し、質・量ともに十分な専門的スタッフを、そこに配置することであります。
第三の問題は、プルトニウム循環方式の問題です。九五年の「もんじゅ」の事故から今回の東海村の事故まで最近の重大事故の多くは、このプルトニウム方式に関連しています。
プルトニウム循環方式とは、軽水炉でできる使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを取り出し、それを高速増殖炉などの燃料に使って、つづけて発電をすすめようという方式です。たしかに、原子力発電の初期の時期には、国際的にもこの方式に大きな期待がかけられましたが、そこには、もともと安全上多くの問題点がありました。プルトニウム自体が、非常に高い放射能をもつうえ、核兵器に簡単に転用できるという危険な物質です。さらに、この方式をすすめる過程の一つ一つに技術的に未解決の問題が多く、これまでの原子力発電で経験しなかった重大な事故・災害が起こることも予想されるなどなどです。実際、日本より先にこの方式に踏み出した国ぐには、次つぎと重大事故に直面しました。その結果、八〇年代の末から九〇年代にかけて、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランスが次つぎとこの方式をやめる方針を決定したのであります。
その中でいまもなおプルトニウム方式に固執し、それを基本方針としている国は日本だけで、国際的に大きな批判の声があがっていることに、私たちは耳をかたむける必要があります。今回の事故でも、エネルギー環境調査研究所および核管理研究所という二つの研究所から、プルトニウム燃料の使用は思い切るべきだという勧告が一致して寄せられています。
そこで首相に聞きたいと思います。政府は、安全行政に大きな弱点をかかえながら、その危険性が国際的にも実証されているプルトニウム方式になぜ固執するのですか。従来の方針がどうあろうと、いまこそ、この方式をとりやめる方向で、根本的な再検討をおこなうべきではありませんか。
私は、七〇年代以来、原子力の安全の問題で警告や提案をおこなうと同時に、プルトニウム方式についても、それに踏み込むことの危険性を指摘してきました。とくに四年前には、プルトニウム方式をやめ、二十一世紀にふさわしい新しいエネルギー政策を探究する真剣な努力を、政府に求めました。
原子力発電、それもプルトニウム方式にエネルギー政策のすべてをかけるといったやり方では、二十一世紀に、エネルギーの分野で、日本が出口のないゆきづまりに落ち込む大きな危険があります。いまこそ、大胆な再検討のメスをいれ、国民的な英知を集めて、二十一世紀にふさわしいエネルギー政策の確立のために真剣な努力をはらうべきであります。
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