日本共産党

2001年11月8日(木)「しんぶん赤旗」

瀬長亀次郎さんへの

お別れのあいさつ

日本共産党中央委員会議長 不破 哲三


 七日おこなわれた元日本共産党副委員長の故瀬長亀次郎さんをしのぶ「お別れ会」での不破哲三議長のあいさつ(大要)はつぎのとおりです。

 日本共産党の不破哲三でございます。きょうは、瀬長亀次郎さんお別れ会にこんなにたくさんの方がお集まりいただきまして、本当にありがとうございます。まず最初に、心からお礼を申し上げます。

1970年10月──瀬長さんとの最初の出会い

 私が、瀬長さんと初めてお会いしたのは、いまから三十一年前の国政参加選挙のときでした。一九七〇年の十月二十三日から選挙が始まりましたが、私は一つやらなければいけない仕事があって、その選挙の三日前に早めにきたのです。

 その年まで、日本共産党は、沖縄には渡航が禁止されていました。しかし、国政参加選挙があるというので、その年の四月から、国会議員と秘書に限って渡航許可が出るということが始まり、四月以後、私たちの議員が相次いで沖縄を訪問しました。これが、日本共産党というものが沖縄で顔見せをした、戦前・戦後を通じて初めてのことだったのです。

 私が国政参加選挙の前に少し早く来たというのは、その沖縄に、日本共産党の事務所をつくりたい、沖縄のみなさんと日常のつながりができる事務所をつくりたいという用件からでした。当時は国会議員団の連絡事務所という形でしかできませんでしたが、瀬長さんや沖縄人民党の方々のご協力を得て、那覇に事務所をつくったのです。

 私は、十月二十日にまいりまして、琉球政府や市役所、各政党と団体をまわり、「実は今夜、事務所開きをやるんだ」とご案内をしたわけです。その夜、新しい事務所に屋良朝苗琉球政府主席や沖縄社会大衆党の平良幸市さん(当時書記長)など、いろいろな方に集まっていただき、本当に心の通い合う事務所開きができたことを、たいへんうれしく思いました。

国政参加選挙──全島にたぎる祖国復帰の熱い流れにふれる

 事務所開きの会が終わったあと、瀬長さんや古堅さんをはじめ沖縄人民党のみなさんと事務所でずいぶん夜遅くまで、当面のこと、今後のことを話し合ったものです。

 二十三日から選挙戦が始まりましたが、前の日の二十二日夜、那覇の与儀小学校で、沖縄人民党の総決起大会がありました。それからが実際の選挙戦で、私は第一声から序盤戦に加わり、終盤にもまた駆けつけて、そこでも瀬長さんと一緒に行動しました。初めての沖縄ですから、私もずいぶん緊張し、言葉遣いの端々まで気をつけて、選挙戦に臨んだものです。いま覚えているだけでも、南部では豊見城(とみぐすく)、東風平(こちんだ)、南風原(はえばる)、佐敷(さしき)、中部の具志川(ぐしかわ)、石川、コザ(いまの沖縄市)、美里(みさと)、恩納(おんな)、嘉手納(かでな)、与那城(よなぐすく)など、かなり広くまわったものです。

 どこへいきましても、瀬長さんといっしょに歩くと、沖縄のみなさんの瀬長さんに対する信頼と共感が本当に広いことを感じました。最終日には、那覇にもどって最後の街頭演説をやりましたが、その前に野菜市場、開南市場、平和通りの市場をいっしょにまわりました。どこでもお店のおばさんやおじさんが出てきては、肩をたたき、声をかけあう。そういうことを目撃して、瀬長さんが沖縄のみなさんの間に共感をどんなにしっかり広げているかを、実感したものです。

 私たち日本共産党は、さきほど申しましたように、人民党への応援という形でしたが、沖縄では、初めての選挙参加でした。四月以後、それまでに何人かの議員が沖縄を訪ねて演説会にきましたが、ある村では、共産党の「演説会」のつもりでいってみたら、看板は「共産党を見る会」になっていた。ともかく、共産党員がふつうの人間かどうか見てみたいということで、村の人が集まった、こういうことがあるくらい、沖縄のみなさんとは初対面の政党だったのです。しかし選挙戦に入りますと、瀬長さんの友人の党だ、沖縄人民党と友だちの党だということだけで、どこでも本当に温かく迎えてもらい、私たちの訴えに耳をかたむけてくれました。本土と沖縄の境をこえた革新の交流、友情、共感というものを毎日毎日感じながら、選挙戦をたたかったものです。

 私、全国各地に選挙応援に行きますが、開票日までいたことはないのです。しかしこのときだけは別でした。十五日の投票日から十六日の開票終了まで、ずっといました。朝まだ早い時間でしたが(午前九時四十分)、瀬長当選の報を聞いて、みんなで万歳をしたものです。さきほどのビデオ(お別れ会で上映されたありし日の瀬長さんを映したビデオ)でも、いちばん右端にまだ若い姿で映っているのが私でありまして(笑い)、実は万歳を叫んだ瞬間に文字通り声を失ったのです。のどがだいぶ疲れていたのでしょうか、まったく声が出なくなってしまって、声を出せるようになるまでだいぶ時間がかかりました。そういう選挙戦でした。

 それが私の瀬長さんとの最初の出会いであり、同時に、沖縄との最初の出会いだったのです。沖縄の、全島にたぎるような祖国復帰への思い、その道を切り開いた大きな流れ、そしてまた独立と民主主義を求める熱い流れ、そういうものを体全体で感じ、たいへん力強いものを受け取ったのを、いまもよく覚えています。

 さきほどもご紹介があったように、三年後の一九七三年十一月に、沖縄人民党が瀬長さんを先頭に私たちの党に合流されました。このとき、こういう形で沖縄の大きな流れを迎えることができたことを、日本共産党の全国のすべての党員が誇りとも喜びともしたのであります。

瀬長さんを論じた「沖縄タイムス」の文章に共感

 こんど、こちらに来る前に、十月下旬の「沖縄タイムス」に、比屋根照夫さんという方、私はお目にかかったことがないのですが、この方が瀬長さんのことについて連載している文章を拝見しました(十月二十四日〜二十九日付)。「五〇年代残影 瀬長亀次郎と時代思潮」という、あたたかい文章でした。

 その中に、瀬長さんのことについて、「一九五〇年代の沖縄戦後史の中で米軍政への果敢な抵抗によって異彩を放ち、その時代空間に鮮烈な足跡を刻印した」という表現がありました。また、「沖縄の人々が瀬長とともに共有した時代体験」を表すものとして「瀬長体験」という言葉が紹介されていました。私は、大いに共感するものがありました。私自身も、同じ気持ちで、瀬長さんの足跡を、瀬長さん個人のたたかいの跡としてだけでなく、沖縄のみなさんのたたかいの歴史として受けとめてきた一人だからであります。

平和条約は日本からの“永久分離”をきめていた

 いまいろいろな角度から光が当てられているアメリカ占領下の沖縄のたたかいというものは、私は、動かしがたいと思われていた日米関係を根底から揺るがした、いわば「不可能」を可能にしたたたかいだったという点で、本当に貴重な歴史だと思います。

 さきほども一九五一年九月に調印されたサンフランシスコ平和条約のことがいろいろ語られました。この条約で沖縄の地位が決められましたが、それは、“沖縄を永久に日本から分離する”というものでした。第三条には、沖縄がこんごあり得べき道について、二つ書いてありました。一つは、アメリカが行政、立法、司法上の権力をそのまま持ち続ける、つまり占領をそのまま続ける道です。もう一つは、国際連合の取り決めで、沖縄を信託統治のもとにおく道です。この信託統治については、アメリカを「唯一の施政権者」とする、統治権をアメリカが持つとわざわざ明記してありました。しかも、どっちを選ぶかについては、アメリカの提案によります。

 ここでは、日本への復帰の道は、将来にわたって、完全に閉ざされていました。これは、日本とアメリカが調印しただけでなく、世界の何十という国が調印し、がんじがらめに沖縄をしばりつけてどこにも出口がないようにした条約でした。

 当時の日米交渉の記録をみると、さすがに日本の政府も、せめて将来は沖縄が日本に返るという可能性を少しでも残してほしいという要望をアメリカに出したようです。しかし、アメリカはそうした要望をまったく相手にしませんでした。当時の条約局長は、“この要望に対してアメリカがいささかの反応もしめさなかったことはショッキングな出来事だった”と記録しています。

「不可能」を可能にした沖縄のたたかい

 法律的に、条約的にまったく出口のない、この状況に風穴をあけ、それから二十数年後に沖縄の本土復帰という「不可能」なことを成し遂げたのが、アメリカ占領下の沖縄のみなさんのたたかいでした。

 そのことを思いながら、私が頭に浮かべた一つの言葉があります。きょういただいたパンフレットの六ページにありますが、一九五〇年九月、沖縄で初めての知事選挙、群島知事選挙がおこなわれたときに、立候補した瀬長さんの演説です。

 「このセナガひとりが叫んだならば五十メートル先まで聞こえます。ここに集まった人びとが声をそろえて叫んだならば全那覇市民まで聞こえます。沖縄の七十万人民が声をそろえて叫んだならば、太平洋の荒波をこえて、ワシントン政府を動かすことができます」

 これが、あの沖縄をがんじがらめにしばりつけた条約が調印される一年前、一九五〇年九月の演説でした。

 私は、アメリカ占領下での沖縄のたたかいは、瀬長さんが条約締結前に演説した道筋にそって、そのとおりにすすんできたと思います。沖縄のたたかいがそれから二十年たって、日米政府をゆるがし、ワシントンをゆるがして、本土復帰はやむをえないというところまでもっていった、これはまさに「不可能」を可能にしたたたかいだったと思います。

 いまでも、沖縄を日本から永久に分離するとした平和条約第三条は、廃棄もされず、改定もされずに残っています。残ったままで、“立ち枯れ”といいましょうか、死んで化石になった状態です。つまり、条約として決められたものを、沖縄のみなさんのたたかいがとどめをさして「死に体」にしてしまった。これだけ大きな問題で、これだけ大きな力を発揮したたたかいは、歴史にもあまり多くないと思います。

 私は、ここに五〇年代、六〇年代の沖縄のたたかいから、沖縄のみなさんはもちろん、私たち日本のすべてのものが、学びくみとるべき大事な教訓があると思っています。

瀬長さんと結びついた伝統と教訓は、新しい世紀に必ず生きる

 いろいろな問題をとりあげて頑張るときに、よく「壁が厚い」などといわれます。しかし、平和条約が結ばれたあとの沖縄ぐらい、分厚く手ごわい壁にぶつかったたたかいはなかったのではないでしょうか。全権力を握った米軍が強力な弾圧をやる。日本の憲法は沖縄に届かない、しかも、がんじがらめの条約にしばりつけられて、ふつうの方法だったら出口は見いだせないという状態でした。しかし、沖縄の県民が心を一つにし、声をそろえたときには、その壁も破ることができた。私は、これが二十一世紀に生きる大事な教訓だと思っています。

 いま沖縄のみなさんの前には大きな課題があります。あの占領下にみなさんが願った「本土復帰」は実現しましたが、これとあわせて不可分のものとして戦後ずっと願いつづけてきた「基地のない沖縄」という課題は未解決のまま、新しい世紀・二十一世紀に持ち越されました。

 私は、瀬長さんの名前と深く結びついたたたかいの伝統と教訓は新しい世紀に必ず生きる、そして、沖縄県民の団結が県民の願いにかなった沖縄の進路を必ず切り開いてゆくだろうということを、確信しています。

 私たちも、このたたかいに全力を尽くすことをお約束して、このたたかいの先頭にたってこられた瀬長亀次郎さんへのお別れのあいさつとするものであります。どうもありがとうございました。(拍手)

 


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