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1999年7月25日「しんぶん赤旗」
七月二十二日におこなわれた日本共産党創立七十七周年記念講演会での不破哲三委員長の記念講演は、大要つぎのとおりです。
みなさん、こんばんは。衛星通信で全国でごらんになっているみなさん、こんばんは。
日本共産党の創立七十七周年を記念するこの講演会に、たくさんの方がおいでいただきましてほんとうにありがとうございます。心からお礼を申しあげます。
党の創立の記念日というのは、ある意味では、歴史をふりかえることが大事な日であります。私はきょうは、最近四十年間の日本の歴史、現代史のなかで、日本共産党がどうであったのか、どうあろうとしているのか、それをご一緒に考えたいと思います。
なぜ四十年というかといいますと、一九五八年の第七回党大会、一九六一年の第八回党大会、ちょうどいまからほぼ四十年前の時代でありますが、そこで、いまの私たちの大きな路線、方針、そういうものが定められたからであります。
この四十年間の歴史を、私は、四つの角度から考えてみたいと思います。
第1の角度 |
第一は、党の綱領という問題――日本共産党がどんな日本をめざすのかという問題であります。
最近、自民党などが、よくわが党の綱領を話題にしているようです。元総理大臣とか、現官房長官とか、そういう人がしきりにいうものですから。先日、ある国会議員にきいたのですが、自民党の有力な議員が、日本共産党綱領をもってきて一生懸命、赤線を引いて読んでいる。これは、自民党のなかの最近の流行の一つになっているようです。いいだした人のいい分は、「共産党が、ソフト路線とか現実路線とかいってるけれども、綱領が変わっていないんだから、だまされるな」。それがいいたいわけであります。
私は、せっかく赤線を引いて読むのなら、ぜひ中身をしっかり読んでいただきたいと思います。日本共産党のいまの路線というのは、いろんな呼び方をされていても、実は、三十八年前に第八回党大会できめた綱領の路線そのものなんです。党内の綱領の討議は、社会科学の用語でたがいに議論しあいますから、なかなかむずかしい言葉で書いてある場合もありますが、それをわかりやすくいいかえれば、いま私たちがとなえている「日本改革論」そのものなんです。
綱領とはなんでしょうか。
日本の現状のどこに問題があるのか、それを考える。そういう問題を解決して、どのような日本をめざすのか、それをあきらかにする。そして、どんな手段・方法でこの目標を実現するのか。こういうことをはっきりさせるのが、綱領のいちばんの中身です。
私たちが、党の綱領をきめる少し前に、一九五五年ですが、「保守合同」ということがあって、自由民主党といういまの政権党ができました。この党の綱領的な方針は、はっきりしています。自民党がめざす日本とは、アメリカとの軍事同盟を中心にし、国内では、大企業の利益を中心にする、こういう日本をつくりあげようということ、これが、自民党の綱領でした。
保守合同の少しあと、自民党の岸内閣は、前の条約を改定して、いまの日米安保条約をつくりました。岸内閣のあとをうけた、池田内閣と佐藤内閣は、「高度成長政策」といって、日本の大企業が大きくなるために、国をあげて応援をするという政治を、大々的に始めました。まさにこれが、自民党の側の、綱領というべき方針でした。
それにたいして、私たち日本共産党は、第一に、アメリカとの軍事同盟をやめよう、外国の基地もなくそう。そして、ほんとうに独立し、主権をもった国家・日本、非同盟・中立の平和国家をめざそうという方針をあきらかにしました。
第二に、国内の問題では、大企業中心主義をきりかえる、そういう経済の大改革ですが、しかし、いま当面、社会主義をめざすことはしない。資本主義の枠内での民主主義的な改革・変革をめざそう。これが二番目の中心問題でした。
三番目に、その目標を実現する方法としては、国会の多数をえながら、日本の政治、経済、社会を一歩一歩、段階的に変えていこう。
もちろん、私たちは、日本の共産党ですから、将来の展望をいえば、社会主義の大きな目標をもっています。これはもちろん、ソ連流のニセの「社会主義」ではありません。
日本国民が、本格的に政治・経済をしっかり自分の手に握り、「国民が主人公」ということを全面的に実現するという方向ですが、そういう大きな方向を将来の展望としてもっています。しかし、それは一挙にできることではない。社会の改革というのは、階段をのぼるように、一歩一歩あがってゆくものです。その階段の一段一段は、国民が主人公ですから、主人公の国民多数の意思で、そのことを選挙ではっきりしめしながら、あがってゆく。こういうやり方ですすんでゆこうというのが、三番目の大方針です。
この三つの大方針を、党の綱領のなかで、三十八年前にしっかり決めたのであります。これを、「民主主義革命」――アメリカから独立するわけですから「反帝」、大企業中心主義をやめるわけですから、独占反対で「反独占」、社会科学の言葉では、「反帝反独占の民主主義革命」といいましたが、中身は、いまいった内容で経済と政治の大きな改革をやろう、ということです。これが私たちが、三十八年前に、綱領できめた方針でした。
この方針をきめるときには、わが党のなかでもずいぶん反対論がありました。だいたい、アメリカから独立するなんていうが、占領は終わっているのだから、日本の資本主義が大きくなれば、アメリカへの従属関係など自然になくなってゆくはずだという議論。それから日本のようなすすんだ資本主義国で、社会主義革命をいまやらないで、民主主義の改革をやろうなどということは、世界中、どこの共産党もいっていないじゃないか、そんな生ぬるい方針があるかとか、そういう議論が、ずいぶんあったものです。
ですから私たちの党では、第七回大会でも、この綱領に賛成の意見が多数だったのですが、いっぺんで決めないで、じっくり議論しようじゃないかということで、結論はつぎの大会に延ばし、三年がかりの討論で、第八回大会では、満場一致でこれを決めたのです。
いまふりかえってみますと、当時、反対論としてだされた問題には、みんな歴史の決着がついています。あれから四十年たって、日本の資本主義はたいへん大きくなりましたが、その結果、アメリカの基地が自然になくなるわけじゃない。ずっと日本にいすわっているばかりか、日本をアメリカの戦争にひきこむ戦争法まで日本に押しつける。独立の問題が日本の民族にとって大事な課題だったことは、証明ずみであります。
そして当時は、世界でどの共産党もいわなかったかもしれないが、「資本主義の枠内の民主的改革」という考えは、いま世界で大きな評判になっていて、”日本共産党というのはすばらしい方針をもっているそうだ”と、外国のかなりの人が関心をもち、私たちに質問してきます。日本の国内でも「日本改革論」というのは、大きな支持と共感をひろげています。すでに歴史の答えで、決着はつきました。
そういう方向を決めたのが、約四十年前の二つの大会だったのです。
みなさん、その目で、四十年の歴史をふりかえっていただきたいと思います。片方では、自民党がすすめてきた、アメリカとの軍事同盟を強化する道、大企業にありとあらゆる応援をしてそのもうけと横暴を助け、世界最大の大企業集団に発展させ、そのために国民生活を犠牲にする、この道がずっとありました。
それにたいして、その道をおおもとから国民本位にきりかえようじゃないかという私たちの主張が一貫してありました。六〇年代、七〇年代、八〇年代、九〇年代、どこをとっても、この二つの道のあらそいがどんな政治の舞台にもある。そのことがおわかりいただけると思います。
二つの道のあらそいは、いまどこまできているでしょうか。自民党はこの道をすすんできて、どうにも出どころのないゆきづまりにおちこみました。
安保の問題でいいますと、最初は、アメリカとの軍事同盟は、「日本を侵略からまもるためだ」というのが政府側の説明だったでしょう。そして「いちばん怖い相手はソ連だ」となっていた。そのソ連がなくなりましたが、では、アメリカは日本から引きあげるかというと、引きあげるどころじゃない。二十一世紀中も、日本にいたいんだという。しかも自分が戦争をはじめるときには、日本の自衛隊もでてきてもらいたいということで、おしつけてきたのが、こんどの戦争法でしょう。日本をまもるためのものではなく、アメリカの戦争に日本を動員する軍事同盟だということが、いまやあきらかになった。それでもこの軍事同盟にしがみついて、それで国民に責任をおう政権党だといえるのか。ことはそこまできているのです。
大企業中心主義というのもほんとうにゆきづまりにきました。
たとえば、来年四月から始まる介護保険というのは、日本の国民にとっては、老後をまかせられるかどうかがかかる文字どおりの大事業です。ところが、いまの自民党政府の手にかかると、この国民的な大事業が国民的な大災難になりかねないのですね。
そういう大事業をおこすのなら、国がそれにどれだけ力をだすか、どれだけの財政でこれをささえるかが、当然第一に考えられることでしょう。ところが、いまの自民党政府の介護保険計画にはその考えがないのです。それどころか、いままでお年寄りの介護のために国や自治体がだしていたお金を、保険へのきりかえの機会に四千五百億円も減らして、ほかへ回すようにしようという考えです。この国民的な大事業を、逆に福祉からお金を引きあげてほかに回すチャンスに使おうというのが、いまの自民党政府の思惑ですから、来年四月の実施を前にして、ほんとうにたいへんなことがおころうとしています。
私は、どんな大事な問題も、いまの逆立ちした自民党政治にはまかせられないというところまできている、これが、この四十年間の二つの道筋のあらそいが二十世紀の末に迎えた到達点だと思います。
それならみなさん、これからほんとうに国民の立場で足を前へ踏み出そうというなら、私たちが四十年間訴えてきた道、しっかりした足場をもつこの道に足を踏み出す以外にないではありませんか。(拍手)
自民党がいくらいやがっても、「自共対決」という見通しが、日本の政治のなかからはどうしても噴きだしてくる、そのおおもとはここにあるのだということを、まず最初に申しあげたいのであります。(拍手)
第2の角度 |
二番目の角度は、世界との関係です。私たちは、四十年前にいまの立場、方針をうちだす以前、「五〇年問題」といいまして、たいへんつらい経験をしました。
アメリカの占領下に、党が分裂したのです。そのとき、分裂した一方の側にソ連と中国がついて、ソ連と中国で用意したとんでもない方針を日本にもちこんできたのです。”火炎びん事件”とかの物騒な事件はみな、その一方の側からのソ連や中国の方針のもちこみでおきたことでした。日本共産党が戦後国民のあいだでつちかってきた信頼も、完全にくつがえりました。
そういうつらい時代をへて、私たちが党を統一し、きちんとした方針、立場をもつ党として再建したのが、四十一年前の第七回大会でした。そのとき、私たちは、そのつらい経験から、党のいまの綱領の方向をうちだすと同時に、「自主独立」という態度をうちだしました。ソ連、中国のような、当時でいえば大きな国、自分の国の革命を成功させたという成績をもつ大きな共産党であっても、日本の運動のことについてはどんな外国にも口出しはさせない。そして、日本の運動の問題、日本の問題は、日本共産党が自分の知恵で考え、自分で決め、かりにまちがったときにも自分でちゃんとそれを乗り越えて前へすすむ――この「自主独立」という態度を、約四十年前に決めたのです。
そうしましたら、それから間もなく、ソ連、中国という両方からたいへんな干渉の攻撃をうけました。ソ連はフルシチョフという政権の時代でした。日本共産党がソ連の外交政策の応援団にならないのはけしからん、そういう攻撃でした。つづいて、中国は毛沢東の時代でした。自分の外交政策の応援団にならないという問題にくわえて、革命のやり方が中国方式の「鉄砲から政権が生まれる」という武力路線とちがうのが気に入らない。それで両方から攻撃をうけたのです。その攻撃も、言葉だけの攻撃ではありません。実際に手をだして、日本の国のなかに自分たちの干渉の手先の出店をつくり、なかからわが党をひっくりかえそうという大変な攻撃でした。
世界でも、この二つの大国から同時に攻撃を受けたという党はどこにもなかったのです。
その攻撃を、私たちは自主独立の立場で二つながら打ち破りました。そして相手側はどちらも最後には自分たちの誤りを認めて、問題を解決しました。
しかし解決の仕方とそのあとの状況は、ソ連と中国ではずい分とちがいました。ソ連は十五年かかって一九七九年に誤りを認め、いちおう解決したのですが、口先だけの反省という調子がみえみえでした。だから、自分たちが日本共産党にたいして反省したという事実をソ連の国内ではひた隠しにする、そんな調子ですから、すぐに大国主義のゆり戻しがあり、ソ連共産党の解体までそういう状態がつづきました。
中国の場合は、三十二年かかって、昨年問題を解決し、党どうしの関係をうちたてたのですが、いまの中国の指導部は、干渉をやった当時の毛沢東指導部とまったくちがって、むしろそのときに、いわばおさえつけられていた側にいた人たちです。だから、日本共産党にどんな悪いことをやったかということをよく知りません。しかしずっと過去にさかのぼって事実を調べ上げて、自分たちはどこがまちがっていたのか、そういうことの歴史的反省をきちんとあきらかにしました。そしてそのことを、私も驚いたのですけれども、テレビや新聞で大々的に宣伝するのです。それを国民に知ってもらいたいというわけです。
ここらへんがソ連とはずい分ちがった態度でした。ですから、中国の共産党とのあいだにはこれを基盤に、おたがいに気持ちのよい友好と交流の関係をつくりあげることができました。
私がいま、あらためてその話をするのは、これがただ歴史のうえだけの問題ではないからです。
私たちがいま活動するうえで、二つの大国の干渉とのたたかいを通じてかちとった理論的、政治的な財産で、いまなお生きているものが非常に大きいのです。
いくつかあげますと、私たちはこのなかで、まず外交活動の基本をすえました。どんな相手であっても、干渉や無法な攻撃は許さない。どの国、どの政党とも、対等の立場で交流する。日本の国民の利益や世界の平和にかかわる問題が起きて、必要な場合には、相手がだれであれ、堂々と談判する。こういう態度です。談判というと少しつよい言葉ですが、実際に、六〇年代、七〇年代にはいろんな談判をやったものです。
中国の毛沢東派の干渉が始まったのも、実は、アメリカがベトナムに攻め込む戦争を起こしていて、それにたいして団結してたたかおうじゃないかという方針で私たちが談判に乗り込み、毛沢東との会談が決裂して以後のことでした。
ソ連とは領土問題で突っ込んだ談判をやりました。「日ソ間に領土問題なんかない」といってがんばるソ連にたいして、「日本とソ連のあいだには平和条約が結ばれていない。ソ連の字引にも平和条約とは国境を画定する条約と書いてある。平和条約を結んでいない以上、日ソ間に両国が認めた国境がないこと、領土問題が解決していないことは明りょうじゃないか」、こういう論立てでソ連側を追い詰めて、とうとう領土問題の存在を認めさせたのが、一九七九年の日ソ両党首脳会談です。この点では日本の政府よりも、だいぶすすんだ交渉をしていたのです。
それから、六八年には北朝鮮にいったのですが、これも実は、大きな問題での談判の訪問でした。北朝鮮の金日成政権が、六七年の暮れごろから「南で動乱が起こったら、主導的に対応する」、「解放戦争の覚悟をせよ」、こういうことを金日成みずからさかんに宣言していたのです。六八年一月には、北朝鮮のゲリラがソウルの大統領官邸を襲撃する、南のあちこちで遊撃隊活動がひろがる、それを北で大宣伝する、ほんとうにぶっそうな状況でした。
私たちは、当時書記長だった宮本(顕治)さんが団長になって、私もくわわって北朝鮮にゆき、金日成との会談で、「無法な南進は、日本の民主派は絶対支持しない。そんなことはやめるように」という申し入れをしたのです。そのときは金日成が「南進するつもりはない」と言明したので、いちおう解決したのですが、それ以後、北朝鮮側からの私たちへの攻撃的な傾向がつよくなり、八三年のラングーンでの爆弾テロ事件、八四年の日本海での日本漁船にたいする銃撃事件のときに、私たちへの乱暴な非難・攻撃がおこなわれました。それで関係を断絶して今日に至っている。これが北朝鮮との関係の歴史です。
私は、野党であっても、日本の国民に責任をおう政党である以上、必要なときにはこういう談判をするという姿勢が非常に大事だと思っています。
実は、日本の野党外交にはこれが弱いのです。相手側のいい分をきいてきて、日本にもって帰る、「窓口外交」といって、これが昔から盛んでした。それから、世界にいろんな問題が起きても、どこかの大国の立場で対応するという傾向がつよくて、ほんとうに日本の国民の自主的立場を表した外交が弱い。これは私は、与党野党を問わず、日本の政界の大きな弱点になっていると思っています。
この問題で実は最近、こっけいなことがありました。六月に東京・足立の区長選挙があったでしょう。あのときには、相手は自自公に民主党が加わっての大激戦で、反共攻撃がほんとうにひどかったのですが、公明党の党首(代表)代行が、なんとカンボジアのポル・ポト政権の問題をもちだして日本共産党攻撃をやったのです。「日本共産党がめざす体制とはなんなのか。カンボジアのポル・ポト体制とどうちがうのか、真っ正直に説明すべきである」。こんなことをいったのです。
ポル・ポト体制というのは、カンボジアの国民を百万人単位で殺したというたいへんな犯罪体制でした。それをひっぱりだして攻撃をする。私はあとでこれをきいてあきれました。なにをあきれたかというと、この方が自分の党の歴史をなにもご存じないことにあきれたのです。
実は、日本の政界では、八〇年代のはじめごろに、ポル・ポト政権への応援というのが盛んだったのですね。「救援センター」をつくるとか、ポル・ポト政権支援の「国際会議」をひらくとかが、ずいぶんやられました。当時は、中国がまだ毛沢東時代の名残がつよいころで、ポル・ポト政権の背景に中国がいることをみんな知っていますから、各党が”われもわれも”とこの運動に参加し、日本共産党を除く全会派が応援団の仲間入りをしました。
自国の国民を大量に殺したポル・ポト派の非人道ぶりを告発したのは、日本共産党だけでした。公明党もその応援組織に副委員長などを送りこんだ、れっきとしたポル・ポト応援派であります。その公明党が、ポル・ポト問題をもちだして日本共産党を攻撃するとは、よくもいえたものだというのが、私があきれかえった真相であります。(大きな拍手)
反共攻撃をやるにしても、もっと歴史の勉強をしてもらいたい(笑い、拍手)。まあ、日本共産党の歴史とまではいいません。自分の党の歴史ぐらいは勉強してやってもらいたいというのが(笑い、拍手)、私がいいたい点であります。
つぎに、わが党の世界政策の基礎もこのたたかいのなかできずかれました。
中国やソ連との当時の論戦では、アメリカの世界戦略をどう評価するかが一つの焦点となりました。ソ連の方は、アメリカがソ連にたいしてどういう顔つきをするか、それだけが評価の基準です。アメリカが米ソで仲よくやろうじゃないかと接近政策をとってくると、アメリカはすっかり心がけがよくなったと、ほめたたえたものでした。一方、中国の方は、”帝国主義はいつまでも変わらない”の一本やりで、きわめて簡単明りょうだが、現実の分析にはなかなかなりません。
そういうときに、私たちは、帝国主義の問題を理論的にはきっちりと踏まえながら、アメリカ政府や軍部の文書そのものでアメリカの外交政策、軍事政策の徹底研究をやり、そのなかから、アメリカの帝国主義的な世界政策がいまどんなあらわれかたをしているのかを、具体的につかみだして対応するという態度に徹したのです。
そのときアメリカのやり方を私たちは「各個撃破政策」とよんで、特徴づけました。ソ連や中国のような大国にはできるだけ接近政策をとってことを荒立てない。そして、そういう大国はわきにおきながら、ベトナムのような大きくない国に、各個ばらばらに攻撃を集中するというのが、われわれがあきらかにしたアメリカの戦略でした。
これをしっかり事実でおさえていますと、どんな事態になってもつよいわけですね。七〇年代に入って、アメリカがソ連ばかりか中国とも接近政策をとる。それがニクソン訪中で、世界でも日本でも見方がだいぶ混乱したのですが、私たちはこれは各個撃破政策のよけい悪賢いあらわれだということをはっきりと指摘しました。そして、そういう分析が、たたかっているベトナムで大変貴重なものと評価され、私たちの論文がベトナム語に翻訳され、南ベトナムの前線でも読まれたという話をあとでききました。そういう威力を発揮したものです。
私たちはそういう分析をずっとつづけているわけです。ですからソ連が崩壊したあとのアメリカの戦略の動き、とくにいまアメリカがとっている、国際連合の平和秩序をひっくり返して、西ではNATOの「新戦略」、東では日本とのガイドライン・戦争法、この二つを柱にしてアメリカ本位の横暴な世界秩序をつくり上げようという危険な計画についても、私たちは、アメリカ政府の外交文書、軍事文書からずっと分析してきました。
こういう分析がいま、私たちの世界政策にしっかりした事実と科学にもとづく基礎を与えている。このこともみなさん方に、ぜひご報告しておきたい点であります。(拍手)
それから、理論の問題でもたいへんな財産があります。私たちの理論は科学的社会主義です。その科学的社会主義をどういう立場でとらえ、どういう立場で発展させるか、これもこの論争のなかで、よりしっかりしたものになりました。
なにしろ相手は、中国にしてもソ連にしても、どちらも「マルクス・レーニン主義の本家だ」という立場で、その理論をもちだして自分たちの干渉主義や大国主義の正当化をはかってきます。これを打ち破る大論争でした。そのとき、私たちは、マルクスやレーニンの一語一語をふりまわすのではなく、この百数十年来の科学的社会主義の大きな流れをしっかりつかむ、その立場で、日本と世界の現実を分析する、こういう観点を論戦のなかでしっかり確立したのです。
中国の毛沢東派との論戦では、革命路線の問題が大きな焦点になりました。私たちの党の綱領は、さきほど申しましたように、多数者革命です。議会で多数をえて、日本の政治を変える仕事を前進させてゆく。これが、毛沢東派からさんざんな攻撃を受けました。「革命の法則は『鉄砲から政権が生まれる』だ。レーニンも『武力の革命、強力革命が避けられない』といっているじゃないか」。こういう議論でした。
私たちはこれにたいして、マルクス以来の科学的社会主義の流れ全体を問題にし、マルクスもエンゲルスも、国民が議会を選ぶ民主主義の政治制度のあるところでは、「議会の多数をえて革命を」という民主的なやり方を追求した、この流れが科学的社会主義のなかには一貫してずっとあるのだということを、歴史と理論で証明しました。
そして、日本共産党が綱領で決めた方針こそは、科学的社会主義のこの流れの現代的な、また現代日本的な発展だということを、あきらかにしたのであります。(拍手)
そのさい、私たちは、レーニンの主張であっても、この大きな流れに合わないとか、歴史の発展に合わないものは、それが誤りであること、あるいは、彼が生きていた時代には通用したかもしれないが、現代には通用しない”過去の主張”になっているということを、遠慮なく指摘しました。
それから少したってからですけれども、私たちは、わが党の文書のなかから、「マルクス・レーニン主義」という、マルクスやレーニンがいったことはなんでも正しいと一見思わせるようなことばはのぞきまして、「科学的社会主義」という科学的なことばで統一したわけであります。(拍手)
私事になりますが、私はいま「レーニンと『資本論』」という論文を、雑誌『経済』に連載しています。ソ連が解体したいまになって、なぜレーニンの研究をやるのかという疑問をもつ方もおいでかもしれません。きくところによりますと、ソ連の崩壊とともに、もっていた『レーニン全集』を戸棚の奥深くしまい込んでしまった方もいるということです。しかし、レーニンは、少なくとも五十年近く、理論の面でも科学的社会主義の代表者としての位置を認められてきた大先輩であります。二十世紀を終わる前に、レーニンのやった仕事の全面的な再検討をしておきたいと思って始めた研究でありますが、この八月号で連載が二十三回目になりました。だいたいあと一年ぐらいで終わるんじゃないかと思っている次第であります。
ですから中間報告になりますが、レーニンには、一面、科学的社会主義の流れを多くの点で正確につかみ、情勢の時代的な変化に応じて、これを発展的に展開するというすばらしい面があって、そういう力は抜群であります。
しかし同時に、いろんな制約もあります。なにしろ、多くの場合、革命運動の先頭で走りながら、やった理論研究です。しかも、彼が受け継ぐべきマルクスやエンゲルスについて、その著作のすべてを読むわけにいかなかったわけですね。『全集』などない時代ですから。ほんとうに限られたものを読んで、そこから吸収して、自分の理論の糧にしながらの走り方でした。そういう制約から、大きなまちがいに落ち込むこともあったのです。とくに国家論、革命論、社会主義論などの、いわば大事な骨にあたる部分で、そういうこともかなりありました。その後、自分自身誤りに気がついて是正にとりくんだという問題もあれば、それができないまま生涯を終わったという部分もあります。
ですから、そういう点では、いま科学的社会主義の大きな流れのなかで、レーニンの理論を再吟味し、私たちが肯定できる発展的な部分と、理論的な誤り、あるいは歴史の試練に耐えなかった部分とをきちんと区別して解明することは、私は、二十一世紀における科学的社会主義の理論的な発展の道を開くためにも、大事な仕事だと考えています。(拍手)
理論にたいするこういう姿勢も、ソ連、中国の干渉との理論闘争のなかで、より自覚的に確立したものであることを、重ねて申しそえておきたいと思います。(拍手)
第3の角度 |
三番目の角度は、この四十年間、政治戦線の変遷という面でみたらどうだったろうか、この問題であります。
この面から四十年をみますと、三つの大きな時期が区切られます。
一つは、六〇年代、七〇年代のいわば第一次の躍進の時期であります。
第七回党大会のときには、安保闘争のときにも同じ状況でしたが、衆議院でのわが党の議席は一議席でした。それが六〇年に三議席、六三年五議席、六七年五議席、六九年十四議席、七二年三十九議席と、選挙の回を重ねるごとに躍進しました。得票も六〇年の百十六万票から七二年の五百六十四万票に十二年間で五倍になりました。七〇年代のはじめにヨーロッパの党の代表が日本にきて会談をやったときに、この数字をみせましたら、彼が「おう、直線的」(笑い)と、感嘆の声を上げたのを覚えています。まさにそういう躍進でした。
革新自治体も京都、東京、沖縄、大阪、埼玉とどんどんひろがり、七〇年代半ばには、日本の人口の四〇%以上が革新自治体のもとで暮らす、そこまで前進しました。
「これは大変だ」というので田中角栄内閣のときに、大反動攻勢が始まったのです。実は、自民党に川島さんという幹部がいまして、六〇年代の末に、まだそのころはわが党は議席は少なかったのですが、「八〇年代には自共対決の時代がくる」という予言をしたことがあります。六〇年代の末に、「八〇年代には……」といったのですから、まだ先の先というつもりだったのでしょう。ところが、その状況が早くも七二年にきてしまったというので、田中角栄内閣が大あわてで大反共キャンペーンを始め、それが実って、八〇年代には反動大攻勢の時期として本格化しました。
だいたい八〇年代から九〇年代の前半ぐらいまでは、その反動攻勢の時期で、率直にいってなかなかきびしい時代でした。
これの始まりとなったのは、一九八〇年の「社公合意」でした。自民党の反共大作戦のいちばんの担い手となったのが公明党で、社会党を口説き落として革新統一戦線から引き離すというのが、おそらく公明党の任務だったと思います。社会党をくどいてくどいて口説き落とし、とうとう八〇年一月に、社会党に、いままでの安保反対路線をやめさせると同時に「日本共産党を除く」という反共路線も承認させました。
これによって、七〇年代にずっときずいていた中央での革新共闘とか地方の革新自治体の統一とかが、いっぺんでくつがえされることになったのです。それが、一九八〇年の一月の「社公合意」でした。国会でも、いまではなつかしくきこえる「日本共産党を除く」という無法な体制が、それ以降十数年にわたってすべての国会運営を支配するようになりました。
私たちは七〇年代はいろいろあったが、得票のピークは七六年の総選挙の六百三万、議席のピークは七九年の総選挙の四十一議席、そこまで記録したのです。それが八〇年代には選挙ごとに押し戻され、九三年の総選挙では議席は十五議席、得票は四百八十三万、七〇年代の最高からいえば八割台の得票というところまで後退させられました。
しかし、ここで深く考えてみる必要があるのは、この反動攻勢の時期に破壊的な影響をうけたのは、わが党だけじゃないということです。いわば日本の政治全体、国民全体がこの反動攻勢の時期に大被害をうけたということ、私はこのことをいま、きちんと振り返ることが大事だと思います。
それは八〇年代以後の反動攻勢の時期を、まがりなりにも革新の共闘があり、日本共産党が前進していた七〇年代とくらべてみるとよく分かります。
まず、大企業中心政治の問題です。七〇年代には公害問題が全国で火を噴き、三大裁判で企業側が負けました。また、第一次石油ショックのさいの悪徳商法が国会でも糾弾され、大企業中心主義はダメだということを、最後には自民党も党の公文書でいわざるをえなくなるところまで追い込みました。
また、政治腐敗の問題でも、ロッキード事件を野党が協力して追及し、総理大臣がくわわった腐敗事件の全貌(ぜんぼう)をあきらかにしました。当時は「灰色高官」といって、時効などで法律上の罪にはならないが、政治的道義的責任がある政治家は名指しで公の場で名前をあげられ、糾弾される。そういうことまで政界では当然のこととされました。
地方政治では、革新自治体がいろんな政治をやれば、自民党がにぎる自治体も黙っていられないわけで、自治体は住民むけの政治をやるのがあたりまえだということが、一つの大きな流れとなりました。さらに革新自治体が自民党政治にさからってやった住民むけの政治が、政府も取り上げざるをえなくなって全国政策になるという例も少なくなかったのです。無担保無保証人の融資という制度は、京都で始まった革新自治体の成果でしたが、七〇年代には、国の制度としても、中小企業向けの無担保無保証人の融資の制度が生まれました。お年寄りの医療の無料化も革新自治体が始めたことでしたが、初めは「枯れ木に水をやるようなものだ」といって非難、攻撃していた自民党も無視できなくなり、ついには政府がこれを取り上げて、国の制度のなかにお年寄りの医療の無料化の制度が始まる、これも七〇年代でした。
安保の問題でも、七〇年代には、安保でいえば民社党がいちばん右翼ということになっていたのですけれども、その民社党をふくめて、米軍基地が日本にあることをそのまま肯定する野党はただの一つもありませんでした。これが野党ならあたりまえの態度とされました。
しかしみなさん、私があげたこれらのことが、すべて八〇年代以後にひっくりかえされたのです。
反動攻勢が始まり革新の共闘が崩されてから、「大企業中心で何が悪い」という開き直りの政治が横行するようになりました。「民活」、「民活」といって「大企業に学べ」というのが、政界の風潮になりました。
それから、あれだけ国民が追及していた政治腐敗でしたが、それが途方もなく大きくなりました。私は、いまでも思うのですが、金権政治の元祖といわれた田中角栄氏は、国内で五億円の金を調達できないで、危険だとわかっていながらロッキードの献金に手をだして領収書を書いた。それがあの大事件になったわけでしょう。いま、五億円――物価が上がっているから、いまなら十億円、二十億円というお金に当たるのでしょうが、その程度の金は、自民党のどの派閥でも、どこからでも平気で生みだしてきます。
田中角栄氏の後を継いだ金丸信氏などは、国が公共事業を発注するたびに、そのいくばくかは発注額に比例して自分のところに入ってくるという自動献金装置までつくって、逮捕されたときには金の延べ棒が金庫にざくざくでした。(笑い)
汚職・腐敗の構造が八〇年代、九〇年代にそこまでひろがったのです。福祉だろうがなんだろうが、国の予算が動くところは全部汚職の根になる。日本の政治のなかで、これぐらい汚職・腐敗がひろがった時代はないと思います。
地方自治体は、天下御免でゼネコンの「開発会社」に変えられました。住民のための政治をやると、何か悪いことをしているものとして中央から糾弾されるという、逆立ち政治がひろがりました。
社会保障に二十兆円、ゼネコンむけ公共事業に五十兆円という逆立ち財政も、こういう流れのなかで本格的に仕上げられたものです。
安保にたいして批判をする野党は日本共産党以外になくなりましたから、日米軍事同盟の改悪が、大手を振って大きな抵抗もなしに積み重ねられるようになりました。
そして、こういう悪政が、あらゆる分野で、七〇年代の成果をひっくりかえしてひろがるなかで、日本共産党を除く「オール与党化」というのがすすんだのですから、この時代の政治は実にたいへんな体制だったのです。
そういうたいへんな時代の本当の意味というのは、実は後からみてわかることですけれども、そういうなかで日本共産党は、どんなに攻撃を受けても、「のぞく」ということでしめだされても、国民の利益をまもって筋を通す活動をつらぬきました。そのことが、すぐには現れないでも、社会の底の方といいますか、いちばん奥深いところで、日本共産党への共感や信頼の根になってすすむ。
私は、ここに、暗い時代に次の局面が準備されるといいますか、歴史の味わいといいますか、なかなかのものを感じるわけであります。(拍手)
それで、九〇年代後半に躍進の時期を迎えました。
実は、それまでにもマスコミが「地殻変動」だといって、日本共産党の躍進の予告や期待をした時期が何回かあったのです。
第一回は、消費税導入が大問題になり日本列島が揺れた一九八九年。各地の地方選挙で日本共産党推薦の候補が大成果を上げたことから、「地殻変動」ということばがマスコミの紙面を飛び交いました。そしてこの年の都議選と参議院選挙では「共産党の躍進、必至」などといわれました。それをいっぺんに吹き飛ばしたのが「天安門事件」で、いっきょに情勢が変わりました。
二度目は、九三年の金丸ゼネコン疑惑のときでした。自民党の政治のもとでさっきいいました政治腐敗が構造化している。それが自民党の最大の実力者のところで取り仕切られている。それがあきらかになったわけですから、それを追及する立場にたつ日本共産党への人気も急上昇しました。あれは、自民党政治の危機が一つの沸騰点に達したときだったと思いますが、その危機を打開するため、自民党から新生党が分裂し、日本新党ができて、「非自民」の流れをつくる、これに日本共産党以外の野党が全部合流する、こうして「非自民か自民党か」という政治状況がにわかにつくられ、この「非自民」の騒動によって、このときも情勢は一変しました。
しかし、「非自民」とは、あのときは一時的に自民党政治を危機から救った起死回生の妙手、うまい手だとみえたのですが、実態は「オール与党」政治の矛盾のいままで以上の表面化でした。いままで「オール与党」のわくのなかに入っていた党が、自民党をおしのけてかわりに政権を握ったわけでしたが、結局は”自民党政治のわくのなかでは、政党の組み合わせが変わっても、政治は何も変わらない”ということを、国民全体の目の前で証明してみせるだけの結果に終わったのです。
しかも、あそこから始まった政党の相つぐ離合集散は、政党の背骨を失わせ、「非自民」にたいする国民の支持は急速になくなりました。
私は、「非自民」政権の時代に、反共「オール与党」の体制が、いわば元手を使いはたしてしまった、そういう感じがしています。そして、わが党の躍進はこれにつづく九六年の総選挙を転機にして開始されたのです。
九六年の総選挙では、前回(九三年)の十五議席から二十六議席に躍進しました。得票も、前回の四百八十三万票から比例で七百二十七万票に躍進して、大躍進と評価されました。
九七年の都議選では、十三議席(九三年選挙)から二十六議席に躍進して都議会第二党となりました。得票も、前回の六十二万七千票から八十万三千票に大きく増えて全国を励ましました。
九八年の参議院選挙では、当選数は前回(九五年)の八議席から十五議席に、得票は前回の三百八十七万票から八百二十万票へと、倍以上になり、そして非改選とあわせた議席は十四議席から二十三議席に躍進しました。
それで、ことしのいっせい地方選挙であります。当選者は前回より二百七十八名増えて二千四百十二名。とくに県議選では、前回の二百四十六万票を七四%増やして四百二十八万票の得票をえました。議席は五十四増えました。
わが党はいままで都道府県議会の議席数では、他の野党にくらべてずっと数が少なかったのですけれども、この躍進で、東京、茨城、沖縄といういっせい地方選挙のない三都県を入れますと、全国に百八十五の都道府県議会の議席をもつことになり、公明党、民主党とほぼ肩を並べる地歩をえました。
こういう連続の躍進を、九五年からずっとつづけてきているわけであります。
私は、こうして、第一次の躍進、長い反動期、そしていまの新しい躍進と、そういう流れのなかでいまの政治情勢をみていただけると、大局がみえてくるのではないかと思います。
片一方には自自公の陣営があります。確かに、両院の多数を確保して悪法の連続強行を自慢していますが、国民的基盤が弱いのが何よりの特質です。
たとえば、きょう「日の丸・君が代」法案を衆議院で採決しました。四百三対八十六、八割をこえる多数ということで自自公は大喝采(かっさい)をあげていました。しかし、国会のなかでは法制化賛成が八割をこえるが、国会の外、国民のあいだでは法制化反対が五割をこえ、六割をこえている。この国民の声といまの自自公多数の国会との矛盾をどうしてくれるのだということが、数字の上でも、きわめてくっきりでたのが特徴ではないでしょうか。(拍手)
そして、それだけ数の多数はあるのだが、いくら数の多数があっても、四十年かかって矛盾、ゆきづまりがはっきりしてきた自民党政治に二十一世紀の見通しをつぎ木する力は、この多数者は何ももっていない。先がみえないのです。(拍手)
ですから、「オール与党」体制は国民の批判が熟するのに十数年かかりましたが、この自自公は、まだ内閣ができる前からこれを批判する国民の意思は明りょうであります。(拍手)
野党戦線はどうか。「戦線」というものがいまだにきずけていないということを、私は率直にみる必要があると思います。野党全体として、自民党政治に何をもって対抗するかという政治の軸が定まってない。
この一年間、たとえば、国民的な問題で自民党の悪政にたちむかうべき主題はいくつもありました。まず消費税減税の問題が不況対策のかなめでした。しかし、いまの野党三党のなかで、消費税減税に賛成の立場をとったのは日本共産党だけでした。ついで、銀行に何十兆円もの税金をつぎこむという暴挙が問題になったときに、当時の野党はほとんどが自民党の側になだれこんでしまいました。ここでもこの悪政に対抗する軸は野党の戦線としてはきずけませんでした。ガイドライン法案、戦争法案については、いちおう民主党をふくめて反対の態度をとりましたが、しかし、海員組合など陸海空の労働組合が呼びかけての集会に共同するという立場をとったのは共産党と社民党だけでした。これも政党間の協定ではありませんでした。
つまり、この一年間に野党の立場が試された大きな三つの問題で、どこでもしっかりした対抗の軸はきずけなかったというのが、全体としてみた野党の現状です。
だから私たちは六月の第四回中央委員会総会で、日本共産党が躍進してこそ自民党政治に対決する野党の戦線がきずけるということをのべたのであります。
もちろん私たちは、一挙に理想的な野党戦線ができるとは思っていません。しかし、たとえ部分の問題であっても、自民党の悪政の一角を突破できる共闘がしっかりできるのならば、これは日本の政治の転機になります。
私が、いまの野党のなかに安保などの問題では意見のちがいがあることをよく承知していながら、昨年の参議院選挙のあと、もしつぎの総選挙で野党が多数になったならば、自民党政権をつづかせないために暫定政権の協議に参加する用意がある、その場合にはこういう考え方でのぞむということを発言したのは、その立場からであります。
みなさん、これだけの歴史をへてきたいま、日本共産党が、この躍進の流れを発展させて、さらに大きな前進をするならば、ほんとうに新しい日本の政治の局面がひらける、その間際にたっているのだということを、私はみなさんに訴えたいのであります。(拍手)
第4の角度 |
最後に第四の角度として申しあげたいのは、この四十年間、政党としての日本共産党はどんな発展をしてきたのかという問題であります。
いろんな政党があります。そして、政党としてのあり方、実態、そういうものも歴史のなかでかなり鮮明になってきました。
私はその点で、わが党の活動の三つの特徴をあげたいと思います。
一つは私たちの党が、全国の二万六千の支部を基礎にして活動している政党だということであります。政党というのは、国会やテレビの舞台で活躍することだけが仕事ではありません。やっぱり日々に国民のあいだで生活し活動し、国民とつながり会話をし、そして国民の要求を吸い上げ、ともにたたかう。この草の根の力をどれだけ生かせるかというところに、政党の大事な命があります。これを担っているのがわが党の支部であります。
そして私がとくに申しあげたいのは、支部を基礎にした日常の活動というのは、反動攻勢のきびしい時期にも着実に展開されていたということです。だから国会議員の数は大きな消長がありましたが、いちばんの根っこというべき地方議員の数は、反動攻勢の時期にも全体としては減らないで増えつづけてきたのです。
これを数字で紹介しますと、六〇年代のはじめ六〇年一月には、わが党の地方議員の数は六百十九名でした。七〇年一月には千六百五十三名にふえ、八〇年一月には三千五百九十二名にふえました。九〇年一月には三千九百六十一名と、増え方は減りましたが三千名台をさらにのばして、四千名に近づきました。そして現在、四千四百十六名です。この九年間に四百五十五名増えましたが、その大部分(三百七十二名)は、この一年間に増やした数です。
そういう活動が支部を基礎にして展開されていた。私はここに、日本共産党の国民とつながる大事な特徴があることを強調したいのであります。(拍手)
私たちは、九三年以来、「支部が主役」ということばで支部活動の重要性を強調してきました。最近、「支部の経験を聞く会」を開いて、全国のすすんだ支部の話をききましたが、その一つの大事な教訓は、いますばらしい経験をあげている支部が全国にあるが、それは特別な条件を備えた、いわば別格の支部ばかりではないということです。なかには会議で「ついこのあいだまでは私たちの支部は地区委員会から『お荷物支部』と呼ばれていました。それがこう変わりました」と、誇らしげに発言された方もいました。つまりどんな支部でもその気になっておたがいが努力をすれば、すばらしい「主役」の支部に変えられる、そういう時代だということを、私はこの会議でも痛感しました。
その気持ちでおおいにこの道をすすんでゆきたいと思っています。(拍手)
二番目は、「しんぶん赤旗」の問題です。「赤旗」はいろんな面で苦労していますが、ここまでくるにはやっぱりたいへんな歴史がありました。とくに日刊の「赤旗」を毎朝、通勤の方が出かけられる前にお宅に届ける。週刊の日曜版はその週のうちに届ける。この配達・集金の網の目をつくりあげるには、全党の協力をえてのほんとうにたいへんな努力がありました。
この面で、私は、外国のマスコミとの接触で、二つ経験したことをご報告しておきたいと思います。
一つは、八〇年代の話です。一九八二年に、フランスのミッテラン大統領が日本を訪問したことがありました。そのときに、フランスの国営テレビが先乗りをしてきまして、日本のいろんな状況をミッテラン訪日の前にフランスで放映したいと、政治の分野でわが党に取材にきました。
私もインタビューに応じましたが、わが党の活動をいろいろ取材して帰ったのです。そのころ、パリにいた特派員からあとできいたのですが、日本特集の政治の部分が放映になった日、番組が始まったら、いきなり東京の朝まだき、「赤旗」を抱えてこれから配達にでようという配達員の姿が、フランスの国営テレビの画面に大写しで出て(拍手)、そこから日本の政治の紹介が始まったというのです。
特派員はおおいに感激していましたが、「赤旗」を各戸に配るという活動に日本共産党がとりくんで成功しているということは、それぐらいフランスのテレビにとって衝撃的だったのです。
もう一つは、九二年のことですけれども、海外むけ衛星放送の企画で、アメリカのジャーナリストが取材できて対談したことがありました。
その対談の第一問が、「『赤旗』は政党の機関紙なのに、なぜアメリカのどの新聞よりも部数が多いのか」(笑い)。怒った調子ではないのですが、真顔で追及するんです。
調べてみますと、たしかに「ニューヨーク・タイムズ」よりも「ワシントン・ポスト」よりも、「赤旗」の部数がはるかに多いんですね。
私たちがみんなの努力でこれだけひろげてきた集金・配達の網の目や「赤旗」の部数が、世界の目からみるとそれだけ驚かれるような地歩をきずいている、そのことをあらためて痛感しました。
私たちはいま、「しんぶん赤旗」を発展させる仕事でたいへん苦労していますが、はっきりいって、二十一世紀の新しい政治をひらく力としては、まだまだこの力は足りないものだと思っています。それにふさわしい大きな発展をかちとりたいと思います。ご支援・ご協力を心からお願いするものであります。(拍手)
三番目は、党組織の組み立て、民主集中制という問題です。
よく、民主集中制とは何かといわれますが、民主的な討論をつくし、決めたことは統一してその実行にあたる。派閥、分派はつくらない。つまり、討論をつくすという民主主義と、党の統一という面と、この両面を表したのが民主集中制という原則であります。
このことばは、なにかある時期からたいへん悪者あつかいされまして、こういうものを残しているのが時代遅れの党だといわんばかりの人がいますけれども、私は、民主主義と統一の両面というのは、近代政党なら常識的な組織のあり方だと考えています。
実際、私どもの経験でも、あのソ連、中国の干渉とたたかったさいに、党がこの原則で団結していなかったら、それこそたいへんなことになっていたでしょう。
いくら党が自主独立を決めても、「私はソ連がいいと思うからあっちの側につく」といったり、「自分は中国の側につくんだ」といって勝手なことをやる、現に規律を破ってそうやった人たちがいくらかはいましたが、これが党の原理原則だったらたいへんであります。
このたたかいは私の実感でも、まさに日本共産党の生死をかけたたたかいでしたから、そんなことをやっていたらあのような成功はおさめられなかったでしょう。民主集中制をきちんとまもってこそ、干渉を撃破することができたわけであります。
ただ、悪者あつかいされた期間が長いですから、誤解も多いのです。
党中央が決めたことは、黙って無条件に従うというのが原則で、それとは別の意見などいえないんだ、そういう誤解をしている方がいますが、わが党の規約ぐらい、ちがう意見をもった人の権利を、きちんと明文で保障している党はあまりほかにはないはずであります。
実は先日だした、『新日本共産党宣言』という井上ひさしさんとの対論でも、このことが話題になりましたので、私は話したのです。
たとえばいま、東京の狛江市で日本共産党員の矢野さんが市長さんとして活躍していますけれども、三年前の選挙のときはこんなことがありました。現地で議員団の団長を市長にたてるという話をきいたので、そんなことは認められない、あまりにも無理だといって、中央の担当部門は現地へ説得にいったんですね。しかし、なんべんもやりとりしているうちに、中央の方が説得されちゃって(笑い)、いや、それは現地に理があるということになって、立候補を認めたといういきさつがあるのです。
やっぱり、どんな問題でも、事実と道理にあったものが最後の議論には勝つわけであって、そういう道を保障しているのが民主集中制というあり方です。
もう一ついいますと、党の大会のときに、党の方針などにたいする党員からの批判の意見を文書でこれだけ公表している党もないと思うんですね。
党大会というのは、支部からはじめて代議員を選んでゆきますから、支部や地区で少数だという意見は、党大会には直接の形ではなかなか表れないのです。ですが、たとえその支部では一人の意見であっても、大会の機会にものをいいたいというときは、中央に意見を送ってくれば、それを印刷して公表するという制度をつくってあります。
第二十回大会(一九九四年)のときには、三百二十七通の意見を公表しました。前回の第二十一回大会(一九九七年)では百八十六通の意見を公表しました。なかには、党の方針にたいして相当きびしく批判したり反対したりする意見もあります。それを全部公開して、その意見に反対だと思う人は、さらにそこに意見をよせて討論する。そういうことをやっている。これが民主集中制であります。
もちろん、組織は生きたものであります。同じ民主集中制といっても、情勢によって中身、やり方は発展があって当然であります。党員一人ひとりの自発性を基礎にして、党内に民主主義をおおいに発揮するという点でも、政党として国民にたいして統一した責任をはたし、ばらばらな態度はとらないという点でも、この試された道を私たちはさらに大胆に前進したいと思っております。(拍手)
以上、四つの角度から話しましたが、四十年間の歴史がいまの日本の情勢のなかに、また日本共産党のいまの活動のなかにいかに生きているか、多少ともくみとっていただけたでしょうか。
これからいよいよ、日本の国民が、自分の手で日本の現代の歴史をひらいてゆく時代がきます。私たちは第二十一回党大会で、二十一世紀の早い時期に民主連合政権をつくるという目標を決めましたが、その展望はますます裏づけをつよめています。(拍手)
みなさん、きょうは最近四十年の歴史を振り返りましたが、その根底には戦前戦後七十七年の歴史があります。
党創立以来、国民主権のため、平和のためのたたかいのなかで倒れた多くの人びとをしのび、その遺志と願いを引き継いで、二十一世紀に新しい日本をひらくため、全力をあげて奮闘する決意をのべまして、党創立七十七周年を記念する話を結びたいと思います(拍手)。どうもご清聴ありがとうございました。(拍手)
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