日本共産党

第20回党大会

日本共産党綱領の一部改定についての報告

日本共産党中央委員会幹部会委員長 不破哲三

1994年7月19日報告 /1994年7月23日採択


 日本共産党第20回大会1日目の19日におこなわれた、不破哲三幹部会委員長の党綱領一部改定についての報告はつぎのとおりです。


 代議員のみなさん、全国の同志のみなさん。中央委員会を代表して、党綱領の一部改定についての報告をおこないます。

一、はじめに

 十二中総で綱領一部改定案を発表してから、約二カ月にわたって全党の討論をおこないました。この討論では、積極的な支持の意見が圧倒的な多数でした。今回の一部改定案は、現行の綱領路線にもとづく三十余年にわたる日本共産党の活動の到達点をふまえ、今日の情勢にてらしてそれを発展、充実させ、日本における科学的社会主義の事業の意義と展望をあきらかにしたものであります。その内容が確信をもってうけとめられたということは、わが党の理論的、政治的な発展にとって、重要な意味をもつということを、まず最初に申しあげたいと思うのであります。(拍手)

 討論のなかでは、いくつかの疑問や意見もだされています。そのことも念頭におきながら、以下、改定案の章をおって重点的に報告したいと思います。

なぜ「一部改定」なのか

 まず最初に、「全章にわたる改定なのに、なぜ一部改定なのか」(笑い)、こういう質問がだされていますので、お答えしておきます。

 党の綱領を全面的に改定するということは、たとえば、綱領の規定した当面の必要な任務が達成されて、運動がつぎの段階を迎えたときにおこなわれるものです。ロシアの党が、一九一七年の革命の後で綱領の改定にとりくんだのは、その典型的な例であります。また、ある場合には、それまでの綱領路線が間違っているとして路線転換をするとき、これは社会党などがよくやることですが(笑い)、そういうときにも全面改定がおこなわれるものです。

 わが党の今回の綱領の改定は、任務が終わったという前者の改定でもありませんし、後者の路線転換のためのものでもありません。文章的にはたしかに全体にわたっていますが、三十数年の歴史の試練にてらして、綱領の基本路線の正確さを確認したうえで、その内容を現代的に充実発展させたというのが、基本的な性格ですから、これを正確に「一部改定」とよんでいるわけであります。(拍手)

二、日本共産党の戦前の闘争の歴史的な意義(第一章)

戦後の日本政治は侵略戦争と軍国主義の歴史を清算していない

 つぎに、党綱領の第一章、日本共産党の戦前の闘争にかかわる部分ですが、ここでは、戦前の闘争の意義を総括する一連の文章をくわえました。このことは過去の歴史の解明というだけでなく、重要な今日的意味をもっていることに、みなさんの注意をひきたいと思います。

 日本は、第二次世界大戦をひきおこした戦前の侵略国家――日本、ドイツ、イタリアのなかで、戦後の国政のうえで侵略戦争と軍国主義の歴史に明確な反省と清算がおこなわれていない唯一の国であります。いま数多くにわかれている保守政党も、社会党、民社党などの社会民主主義政党も、もとをただせば、戦前の侵略戦争と暗黒政治を推進した潮流のあとをうけた諸政党であります。そういう諸政党が、過去の犯罪的な歴史をきっぱりと清算しないまま、戦後の政治にくわわっている――このことは多くの党に共通する問題であります。歴代の政府が、今回の村山政権をふくめ、あの太平洋戦争にたいして侵略戦争という認識をいまだにうけいれようとしない最大の政治的根拠も、ここにあるのであります。

日本共産党の戦前のたたかいの今日的な意味

 これにたいして日本共産党は、戦前の暗黒時代に、主権在民、侵略戦争反対の立場をあらゆる迫害に抗してつらぬいた政党です。このことは、科学的社会主義の党のほんとうの値うち、その真価を国民的な苦難のなかで発揮したものであったし、同時に、自由民権運動以来の日本人民の進歩と変革の伝統を継承し発展させ、体現したものでありました(拍手)。このたたかいは、日本共産党だけでなく、日本人民の誇りといえるものであります。アジアの人びとやアメリカの人びとが、日本共産党のこのたたかいを知ったとき、あの軍国主義の日本にこのような反戦平和、民主主義の潮流があったのかと、驚きと感動の言葉をもらしたことを、私たちは何べんも耳にしています。

 みなさん。もし日本共産党を先頭にしたこのたたかいがなかったならば、日本人民が戦後かちとった民主主義と自由と平和も、日本社会に「外からあたえられた」もの、つまり、もっぱら「外圧」の産物だということにされてしまったでしょう。そしてまた、民主主義、自由、平和などの成果が今日のような重みとひろがりをもって日本の社会に根を張っている、そのことを実現するうえで、わが党の戦前のたたかいが大きな力とも条件ともなったことは確実です(拍手)。日本共産党の戦前のたたかいの、戦後の民主主義、平和、革新の運動への貢献は明白であります。

 このことは、ポツダム宣言と日本の進歩と変革の運動との関連をとらえるうえでも重要です。わが党の戦前の戦略路線は、資本主義大国の一つであった日本の社会で、民主主義革命を当面の中心課題だとしたところに最大の特質がありました。ところが、別に科学的社会主義を共通の立場にしているわけではない反ファッショ連合国が、軍国主義の一掃という課題を日本社会で達成しようとしたら、その方向は日本共産党の戦略路線と基本的に同じものにならざるをえなかったのであります。戦争の結末そのものが、わが党の戦略路線の正しさを証明したというのは、このことであります。

 日本共産党は、この戦略的な方針を堅持して戦後を迎えたからこそ、戦後の日本政治のなかでも、主権在民の民主政治の確立、農地解放など、徹底した民主主義的変革の遂行をめざす立場をつらぬくことができたのであります。また、アメリカの全面占領の時代に、占領者がポツダム宣言をふみにじって日本の対米従属化をすすめるという事態がおきたときにも、日本の民主主義と社会進歩の立場から、その危険性、重大性をいちはやく見抜いて、民族独立の旗を先駆的にかかげることができたのであります。

なぜ宮本百合子は、敗戦直後の日本で、ぬきんでた視野と洞察をもちえたのか

 私は、二十三年前に、宮本百合子没後二十周年を記念する催しのときですけれども、敗戦直後の日本の言論界の状況をふりかえる機会がありました(「宮本百合子の社会評論について」一九七一年一月)。戦後いろいろ出はじめた総合雑誌の文章を見てみますと、ポツダム宣言をどううけとめるべきか、民主主義とは何か、こういう問題で、代表的な知識人のあいだでもほんとうに混迷が支配的でした。ポツダム宣言のいう民主主義とは「国民主権を意味するものではないことは明瞭(めいりょう)」だという論文が堂々とでたり、民主主義とは「天皇の統治権」に「臣民」が参加する問題であるといった文章が巻頭をかざったり、それが敗戦直後の日本の言論界の代表的な状態でした。

 そのなかで、宮本百合子の発言は実にきわだっていたのであります。私は彼女の発言について、それが、「戦後日本の人民が直面した民主主義の課題を……敗戦とか占領とかの外的な圧力で『与えられた』課題としてではなく、日本社会の内的な必然――その解釈も他に頼るのではなく、日本人民自身が決めるべき必然的な課題として、当面している日本の諸矛盾の人民的、民主的な課題の展望として深くとらえていた」ことに、非常に心をうたれました。また、民主主義の課題をめぐる日本の情勢のさまざまな動きについても、彼女は冷静な分析の目をむけ、なぜ知識人がこんなに混迷しているのか、また、ポツダム宣言で民主主義がいわれるなかでも、旧支配勢力がどんな抵抗をしているのか、その推進者であるべき占領軍が、やがては、どんな危険な意図をもちはじめるようになったか、そういうことまで的確にとらえて、批判と警戒の声をあげていたのであります。

 私は、そのときに、「いったい、なぜ宮本百合子が、あの敗戦直後の時期に、こういう高い見地にたち、広い歴史的な視野と洞察をもつことができたのか」という問題をみずから提起して、その答えの一番肝心な点を、彼女が「あの暗黒の時代に、抑圧の鎖が打破され、民主主義の課題が日本人民の公然たる課題としてとりくまれる、そういう時代にたいして、十分な準備をもってそなえていた、数少ない知識人の一人であった」ところにもとめました。

 宮本百合子の没後二十周年の集会での話でしたから、彼女の問題としてとりあげたわけですが、これはもちろん、彼女の個人的な才能だけに還元される問題ではありません。日本共産党の不屈で先駆的な闘争の歴史を背景とし、それとむすびついてはじめておこなわれたことだということが、重要な点であります。(拍手)

「侵略戦争を阻止しえなかったから…」は反動的俗論

 これは事実の問題として、だれも否定するわけにはゆかない歴史の真実であります。それだけに、反動支配勢力が国民の目からもっともかくしたいことです。

 いま問題になっている「侵略戦争を阻止しえなかったから、日本共産党にも戦争責任がある」といった議論は、その提唱者がだれであれ、学問の名に値しない反動的俗論であります。これをヨーロッパにおきかえてみたら、ことの筋道は明白でしょう。ヒトラー・ドイツは、最終的には連合軍の軍事的勝利によって打倒されました。しかし、戦争で決着がつく以前にファシズムを打倒できなかったからといって、ヨーロッパでレジスタンスの戦争責任を問題にする論者がいるとしたら、民主主義とファシズムにたいするその論者の立場そのものが問題にされ、非難されるでしょう。ところが日本では、この種の反動的俗論が、「政治学」的なかざりたてをもって一部にもてはやされているのであります。そのこと自体が日本の後進性のあらわれであること、そしてこういう論調が、自分では言いたくても言えない反動的支配層の願望にかなっているということを、私たちは直視する必要があります。(拍手)

 綱領の一部改定案は、そういう問題にも正面からこたえたものであります。

三、日本の情勢の基本規定について(第二章・第三章)

 つぎに、第二章、第三章にかかわって、日本の情勢の基本規定についてのべます。

 日本の情勢をどうみるかは、綱領路線の中心問題の一つでした。一部改定案は、「現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義と、それに従属的に同盟している日本の独占資本である」こと、わが国は、「高度に発達した資本主義国」でありながら、アメリカ帝国主義への「事実上の従属国」となっていること――この基本規定を現行綱領からうけついでいます。改定したのは、従属の内容の叙述を「アメリカ帝国主義になかば占領された」から、「国土や軍事などの重要な部分をアメリカ帝国主義ににぎられた」という文章にあらためたことであります。

三十数年前の綱領論争と歴史の判定

 三十数年前、第七回、第八回党大会当時の綱領論争のさいに、綱領路線の反対者たちはこの現状規定に反対しました。もう日本は基本的に独立しているという論理でした。事実を前に、対米従属の現実を認めざるをえなくなっても、“これは占領時代の一時的な遺物であって、日本独占資本の成長発展とともに、自動的に解消することは間違いない”、こういう議論をさかんに展開したものです。

 しかし、三十数年たったいま、この論争にたいする歴史の判定がどうくだったかは、もはや明確であります。(拍手)

 日本独占資本の経済的な復活・強化は、ヨーロッパその他の資本主義諸国を次つぎに追いぬき、一九七〇年代以後は、経済力で世界第二位の地位をしめるようになり、海外への進出もさかんになりました。では、それによって、対米従属の関係は解消したでしょうか。いま、日本の現状をみれば、あいかわらず全土に米軍基地がおかれて日本がアメリカの世界戦略の前進拠点になっていること、自衛隊の増強や海外派兵、日米共同作戦の準備などがなによりもまずアメリカ側からの要求によって進行していること、外交面で世界もあきれるほどの自主性の欠如が、内閣がどう変わろうが依然としてつづいていること、さらに経済面でのアメリカからのあいつぐ圧力と干渉など、各分野での対米従属の現実はあまりにも明白です。

 復活強化した日本の独占資本は、みずからの帝国主義的な海外進出の要求をつよめていますが、それが対米自立の方向ではなく、アメリカ帝国主義の副官として、その世界戦略の一翼をより積極的にになう方向で追求されていることも、日本の情勢の重要な特徴です。最近、大きく問題になっているアジア・太平洋地域への米日共同しての進出の問題、あるいは北朝鮮の「核疑惑」を言いたてての「制裁」問題での日本のアメリカへの追従などにも、この現実は生なましくあらわれています。対米従属の関係はひきつづき日本の情勢の基本的な特徴の一つとなっているのであります。

「半占領」の規定について

 この問題に関連して、「半占領」という規定について一言しておきたいと思います。一部改定案では、第二章の戦後の日本の情勢の変化を論じた部分で、サンフランシスコ体制によって「アメリカ帝国主義の全面的な占領支配は、半占領状態に」かわったという規定を残したまま、第三章の現状規定の部分では、先ほどのような改定をおこないました。

 もともと、この「半占領」という規定は、第七回党大会の前の党の文書で解明されているように、アメリカの「全一的占領体制ではないが、その一定の重要な側面がのこされている過渡的な形態」を規定するために使われてきた用語であって(一九五七年十二月全国書記会議での報告、宮本顕治『日本革命の展望』所収)、理論的な意味では、日本の現在の状態にもあてはまりうる規定です。ただ、今日の対米従属の実態的な内容は、サンフランシスコ条約の締結から四十年余りたってかなり変化してきており、現状の表現としてよりわかりやすい、うけとりやすい規定にあらためたというのが、今回の改定の趣旨であります。

 一部には、ここで「国土や軍事などの重要な部分」をあげているが経済面の従属はもう問題ないのか、という質問がありました。改定案のこの文章は、日本の対米従属の関係のなかで、日米安保条約にもとづくアメリカの軍事基地の配備および自衛隊の米軍への従属が核心をなしていることを指摘したものであって、従属関係がそこだけにとどまるものでないことはいうまでもありません。

 経済面での対米従属では、いまでは、アメリカが日本経済の重要部門を直接にぎるといった形態よりも、日米安保条約にある「日米経済協力」の条項などを根拠に、政治的な介入や圧力とむすびついて、アメリカの経済的な利益をつらぬき、アメリカの特権を日本におしつけるというやり方が、これまで以上に目立つようになっています。軍事費の増強や海外援助・ODAへの介入など、予算編成へのアメリカからの圧力は顕著であります。また、「日米構造協議」でアメリカ資本が日本市場で特権的立場をしめるようにとの要求、コメの「輸入自由化」の強要など、こういうことがいまの日米関係の大きな特徴になっています。こういう点も綱領の上で適切に表現されるように努力しました。

四、世界情勢について(第四章)

 第四章、世界情勢の部分ですが、ここでは、いくつかの中心問題についてのべたいと思います。

(1)二十世紀論の角度から世界情勢をとらえる

 まず第一は、二十世紀論の角度から世界情勢をとらえるという問題であります。一部改定案は、第四章の冒頭、世界情勢の叙述を、つぎのように二十世紀論からはじめています。

 「世界の資本主義は、二十世紀とともに、独占資本主義、帝国主義の段階に入った。それ以来約一世紀のあいだに、世界の平和と民族自決、社会進歩の事業は、多くの激動と曲折をへながらも確実に前進してきた」

社会発展の法則的な基礎は、社会そのものの内部矛盾にある

 このように、世界情勢の叙述を、世界が二十世紀の初頭に独占資本主義、帝国主義の段階にはいったことの確認からはじめたということは、ただ歴史をよりさかのぼって見るということにとどまらない、深い意味があるのであります。

 レーニンが『帝国主義論』でおこなった二十世紀の資本主義についての分析と批判は、今日においても、多くの点で、現在の世界情勢をとらえる科学的な指針としての意義をもっています。また、二十世紀における世界諸国民の進歩と変革の運動は、発達した資本主義諸国においてであれ、植民地・従属諸国においてであれ、独占資本主義、帝国主義の反動支配を人民多数の利益をまもる方向で打破することを、中心的な課題として発展してきました。今日の世界情勢とその発展方向を見るときにも、ここに大きな視点をすえることが大切であります。

 この間、ロシアの十月革命をはじめ、独占資本主義、帝国主義の体制からはなれた一連の国ぐにが生まれました。これらの国ぐにのその後の動き、ソ連の解体や東欧の激変をどう見るかは、後でよりくわしく検討する問題ですが、私たちが活動している日本をふくめ、世界の大部分は、今日なお、独占資本主義、帝国主義の体制か、あるいは、多かれ少なかれそれへの従属関係を残した資本主義的な体制のもとにあります。重要なことは、これら資本主義世界での社会発展の法則的な基礎は、資本主義制度自身の内部にある矛盾の発展にあるという点です。そこでの人民の闘争の課題と展望も、その内部矛盾からとらえてこそ、法則的な発展の方向をあきらかにすることができるのであります。

 これにたいして、世界の共産主義運動のなかでは、かつて、解体したソ連共産党を中心につぎのような議論がしきりに展開されました。「十月革命とソ連の誕生以後、世界はまったく新しい情勢に入った。世界の発展方向は社会主義と資本主義の二つの体制の闘争がどうなるかで決まる。社会主義の国ぐに、なかんずくソ連の発展が、資本主義諸国の将来の運命も決定づける」という議論であります。「資本主義の全般的危機」の理論も、これを根本的な特徴の一つとしてきました。

 日本共産党は、こうした、ソ連の発展が世界の運命を決定するといったソ連第一主義の世界論にたいしては、一貫して批判をくわえてきました。とくに一九七七年の第十四回党大会では、ソ連第一主義の世界論から世界の革命運動を見る立場を、「社会発展の原動力をその社会の外部に求める誤った議論」として、その思想的な根底から批判をおこないました。そして、「今日資本主義世界に属する国ぐにの、資本主義から社会主義への発展の法則的基礎は、まさにその国の資本主義社会そのものの内部矛盾」にあること、その諸矛盾は、現代では、「数世紀にわたる資本主義の歴史のなかでも、もっとも鋭くかつ大規模になっている」ことを、具体的な事実とともに指摘しました。一九八五年の第十七回党大会が「資本主義の全般的危機」という規定の削除を決定したのも、この理論的な見地にたってのことでした。

早くも勢いを失った“資本主義万歳論”

 この見地を自覚的につらぬくことは、今日いよいよ重要になっています。ソ連の解体後、二十世紀を社会主義、共産主義の実験と失敗の世紀、資本主義の優位性が証明された世紀、などと特徴づける議論が、マスコミをにぎわしました。しかし、最近では、同じマスコミのうえでも“ソ連が解体したからといって、資本主義万歳とはいえない”とか、“資本主義は「マルクスの呪(のろ)い」から抜け出られないでいる”とか、“ソ連の次に崩壊するのは資本主義そのものではないか”とか、さめた議論がしばしば登場しています。しかも、そういう声が、理論的には科学的社会主義に批判的立場をとっている経済学者や哲学者のあいだからも広く聞かれ、ある意味では、一種の学問的常識とさえなりつつあることは、特徴的であります。

 科学的社会主義の原点は、理論的にも実践的にも、資本主義の批判およびその害悪を社会の進歩と変革の方向で克服しようという運動にありました。その闘争の過程で、世界のある部分でおこった革命が、スターリン以後の指導部の誤りによって解体したからといって、資本主義社会の固有の矛盾、とくに帝国主義段階における搾取と抑圧やそれにたいする人民の闘争の必然性がなくなるわけでないことは、ものごとを多少とも整理して、多少とも冷静に考えるならば自明のことであります。(大きな拍手)

 日本で流行している「冷戦終結」、「保革対立消滅」論は、より根本的には、「共産主義失敗」論、「階級闘争消滅」論としてあらわれていますが、これは以前、ソ連共産党などが流布して、わが党が明確に批判した外因論――社会のいろいろな動きの原因をその社会の外部にもとめる議論を、裏返しの形でむし返したものにすぎません。われわれが二十世紀をつらぬく独占資本主義、帝国主義の諸矛盾を具体的にとらえて、日本と世界の現状を見定めるならば、今日の世界情勢についてのこういった俗論は、理論的には成り立つ余地がないのであります。

二十世紀の進歩に貢献した十月革命とレーニン時代の意味

 十月革命の評価の問題についても、二十世紀の世界の流れを全体としてとらえる見地にたってこそより明確になります。第十九回党大会では、科学的社会主義を学説、運動、体制の三つの角度からとらえ、体制論の問題としては、「レーニンが指導した時代」と「その道にそむいたスターリン以後の時代」とを区別することの重要性を強調しました。この見地は、綱領一部改定案でも展開され、とくにレーニンが指導にあたった時期に「民族自決、平和、男女同権、八時間労働制や有給休暇制、社会保障制度などを宣言し実行したこと」が、資本主義諸国にも影響をあたえて世界の進歩に貢献したこと、その人類史的な意義はその後のスターリンらの誤りの累積やソ連の崩壊によっても失われるものではないことが、強調されています。つまり、この時期のソ連における達成の意義と影響は、ソ連だけの範囲にとどまらず、また、一時的な一過性のものでもなく、世界各国での人民の闘争とむすびついて、二十世紀の世界の流れを社会進歩の方向におしすすめる巨大な力を発揮したのであります。

 今日、かつての植民地・従属諸国をふくめて、世界のすべての民族が自決権をもつことは、国際社会の普遍的な原理として、少なくとも理論的には承認されています。しかし、一九一七年十一月に、レーニンが革命政権の「平和についての布告」で、植民地諸民族にも民族自決権があると宣言したときには、まったく新しい問題提起として世界をおどろかせたのであります。

 社会保障制度をはじめ、国民の生活権、生存権が民主主義的権利の不可欠の柱として国際的にも認められるようになったことは、二十世紀の人類的な進歩の重要な側面をなしていますが、十月革命後のソ連における達成がこれらの世界的な進歩の出発点となったことは、理論的な立場を異にする人びとからも広く指摘されていることであります。

 たとえば、憲法学者の宮沢俊義氏は、岩波文庫の『人権宣言集』の序論のなかで、国民の生活権、生存権を「社会権」あるいは、「社会国家の理念」とよんでその歴史を紹介していますが、これも十月革命の意義を高く評価している議論の一つです。宮沢氏は、社会権が一般に承認されるようになったのは、第一次世界戦争以後のことで、ソビエト・ロシアにおける権利宣言の影響のもとに、ヨーロッパ諸国の憲法が「すべて多かれ少なかれ社会国家の理念を承認し、その表現として、権利宣言のなかで各種の社会権を宣言・保障」するようになったと、そのことをはっきりと指摘しています。

 もう一つの例をあげますと、労働の分野に国際労働機関・ILOがありますが、ILO発足三十周年を記念した文章のなかで、四代目にあたる当時の事務総長が、ILOがほかの国際機関とちがって、政府、労働組合、経営者が平等の資格で参加する国際機関になったのは、十月革命の影響によるものだったと、その経過を具体的に説明しています。ILOの第一号条約が、ロシアで実現した八時間労働制を国際条約化した八時間労働制条約だったことも、けっして偶然ではなかったのであります。

 このように、科学的社会主義の事業が何を達成したかを、体制論をふくめて評価する問題でも、それが、二十世紀の世界的な進歩にいかに貢献したかを事実にもとづいて科学的にとらえる見地が、きわめて重要であります。

(2)アメリカ帝国主義の評価について

真価を発揮してきた日本共産党のアメリカ帝国主義論

 つぎの問題ですが、世界情勢を見るうえで、重要な焦点をなす問題の一つに、アメリカ帝国主義の評価の問題があります。

 アメリカ帝国主義が、世界の侵略と反動の中心勢力であることは、言葉の上では、以前は世界の共産党の運動のなかで異論のなかった点でした。一九六〇年に八十一カ国の共産党・労働者党の代表があつまった国際会議の声明などでも、日本共産党代表の原則的な努力とむすびついての成果ではありましたが、そうした評価が、最後には全員一致で確認されました。ところが現実の世界政治や、国際的な実践のなかでは、これらの評価が投げ捨てられ、たとえばソ連の指導部から、またそれよりおくれてではあるが、ある時期以後は、中国の指導部からも、こういう確認に反して、アメリカ帝国主義を美化する評価がひろめられ、世界の平和・民主の運動にも深刻な混迷をまねいたのであります。

 そういうなかで、日本共産党が党綱領にもとづいて展開したアメリカ帝国主義論は、この三十年余のあいだ、世界で独自のきわめて重要な役割をはたしました。その特質の一つは、アメリカがどんなに悪がしこい術策に訴えてきても、それにだまされることなく、彼らの侵略政策の本質とその狙いを、具体的に見抜いて、国際的にも平和・民主の運動がすすむべき道を正確に方向づけたところにありました。

 わが党のアメリカ帝国主義論の真価が典型的な形で発揮されたのは、綱領の一部改定案に書いてあるように、七〇年代の初頭、「ニクソン政権が中国、ソ連を訪問して『友好関係』をうたいながら、ベトナム侵略戦争をやりとげようとした」ときでした。このとき、訪問の相手となったソ連、中国は、これをニクソン政権の平和的な意図のあらわれだとする立場をとりましたし、日本の政界でも、“北京を訪問する以上、アメリカがベトナムから手を引くことは間違いない”といった評価が支配的になりました。

 実は、アメリカのこういう術策は、このときはじまったものではなく、ケネディ政権のころからずっととられてきたものでした。ベトナム侵略戦争自体が、ソ連にたいして「接近」政策、「緊張緩和」政策を広く展開しながら、そのかげのもとで準備され開始されたものでした。日本共産党は、アメリカのこういう意図を早くから見抜き、ソ連などとの「接近」につとめつつその他の地域に侵略戦争を集中する彼らの戦略を、各個撃破政策と特徴づけて――この特徴づけは、一九六三年におこなったものですが――、その打破のためにたたかってきました。ですから、七〇年代初頭のニクソンの訪中訪ソのときにも、これがベトナム侵略戦争をやりとげるための策略であることをただちに指摘したのです。そして、国内でも、また国際的な平和、民主運動の分野でも、アメリカ帝国主義の意図を具体的な事実の裏づけをもって告発し、国際的にひろめられた帝国主義美化論との理論的な論争も展開しながら、アメリカのベトナム侵略を打ち破るためにたたかいました。

 この分析の正確さは、ベトナム侵略戦争の経過そのものによって実証されました。最終的には、アメリカ帝国主義の完全な敗北にいたったこの侵略戦争は、その経過の全体において、日本共産党のアメリカ帝国主義論、党綱領路線にもとづき科学的な分析に裏づけられたアメリカ帝国主義論の優位性を証明する歴史となったのであります。(拍手)

冷戦体制――平時でも戦時動員体制をとる

 アメリカ帝国主義の評価をめぐる当時の論争をふりかえるとき、いま浮きぼりになってくる重要な点の一つに、アメリカを中心にして戦後構築された冷戦体制の評価の問題があります。

 この冷戦体制というのは、第二次世界大戦後、ヨーロッパとアジアで一連の国ぐにが社会主義をめざす道にふみだす、世界の全域で植民地体制の崩壊がすすむ、こうして帝国主義の世界支配に新しい大きな打撃があたえられた情勢のもとで、帝国主義の陣営がとった体制であります。

 それは、政治的内容としては、すべての帝国主義、独占資本主義の諸国が、アメリカ帝国主義を盟主とする軍事的政治的同盟に結集して、社会主義をめざす諸国に対抗し、民族解放運動や資本主義諸国における社会進歩の運動を抑圧しようというところに、大きな特徴がありました。

 ここで大事なことは、この体制がなぜ冷戦体制とよばれたかということであります。社会主義をめざす諸国に対抗するとか、民族解放の運動や社会進歩の運動を抑圧するとかは、帝国主義がいつでもどこでもやってきていることです。冷戦体制というのは、そういう帝国主義の政策一般に解消するわけにゆかない、独特の実態的な特質をもっています。それは何かというと、アメリカ帝国主義が、第二次世界大戦が終わって世界が平時の条件に移ったときにも、戦時体制を解かないで、軍事的にも経済的にもいつでも戦争ができる戦時動員体制を事実上維持しつづけたことです。これは、第一次世界大戦と第二次世界大戦のあいだの時期にはなかったことでした。

 帝国主義だからといって、いつでも戦争体制をととのえているわけではありません。第一次世界大戦の後、三つの侵略国家である日本とドイツとイタリアは、早くから国の全体が戦時体制に移行しました。しかし、その他の国ぐには、戦争にまきこまれるのに応じて、戦時体制の構築にとりくんでゆくというのが、通常のことでした。とくにアメリカでは、ドイツとイギリスのあいだで戦争がはじまって以来、政府は、イギリスへの武器援助その他を決定し、武器貸与法という特別の法律まで成立させました。しかし、戦時体制がとられていないために、兵器生産が思うにまかせず、必要な援助ができません。ドイツが対ソ戦をはじめたあと、一九四一年七月に、アメリカ大統領の特使がイギリスとソ連を訪問して、爆撃機などばく大な援助がもとめられたが、その月にアメリカで生産された大型(四発)爆撃機はわずか二機しかなかったという記録があります。戦時体制がとられていないために、いくら武器援助の必要があっても、軍需生産の体制さえとれなかったのです。その年の十二月、日本の真珠湾攻撃をうけて全国的な戦時体制が一挙に実現したとき、はじめて本格的な対英援助や対ソ援助ができるようになったというのは、よく知られている歴史的な事実であります。

 これにたいして、第二次世界大戦後に構築された冷戦体制では、まずアメリカ本国で、巨大な核戦力をふくむ膨大な戦力が、それをささえる軍需産業の体制とともに常時維持されています。また軍事ブロックの網の目が世界中に張りめぐらされ、平時でも米軍が世界各地に前進配備されています。軍事ブロックに結集した同盟諸国にも、戦時体制なみの同盟者の役割が振りあてられています。こういう体制が、冷戦の名のもとにつくられたのです。“熱い戦争”ではないが、体制は“熱い戦争”なみということで、“冷たい戦争”、冷戦とよばれたわけであります。日本のような高度に発達した資本主義国が、半世紀にもわたって外国の軍事基地がおかれ、対米従属のもとでアメリカの前進拠点にされるということは、世界資本主義の歴史にも前例がない異常な事態ですが、こういうことが生まれたのも、冷戦体制と不可分の問題でした。

 いま「冷戦終結」論がしきりにとなえられていますが、この議論が客観的な現実にあっているかどうかをみる一番の中心問題、その基準とも標識ともなる問題は、いまのべたような、いつでも戦争ができるという事実上の戦時体制が、ソ連の解体とともに解除されたのかどうかにあります。この見地から見るならば、アメリカ帝国主義が、かつての「ソ連脅威」論をより一般的な「紛争脅威」論などにおきかえて、「世界の憲兵」戦略という新しいよそおいのもとに、冷戦体制を再編・継続していることは、だれの目にも明白となるはずです。

すべてを「米ソ対決」の角度からみる世界論の誤り

 そして、この第二次世界大戦後の冷戦体制のもう一つの重要な特質は、軍事戦略としては、ソ連を重要な相手とした作戦がたてられてはいるが、現実にソ連相手の戦争がおこなわれたことは一度もなく、実際の戦争行動は、ベトナム侵略戦争をはじめ、いわゆる第三世界の国ぐににたいしてとられてきたということです。社会主義をめざす国のなかで、大国が直接アメリカとの戦争の当事者となったのは、義勇軍の派遣という形で中国が朝鮮戦争に参加したのが唯一の例外でした。

 戦後半世紀の世界情勢をふりかえって重要なことは、アメリカ帝国主義の政治・軍事戦略を「米ソ対決」の角度からだけ見るという単純化した見方の誤りが、歴史の現実の展開のなかで、くりかえし実証されてきたことであります。実際、この一面的な世界論は、米ソ間あるいは米中間に「協調」や「接近」の局面が生まれるごとに、現実に展開されている戦争と侵略の諸政策から目をそむけてアメリカ帝国主義を平和的に美化するという誤った見方を生みだし、日本と世界の平和・民主運動の方向を誤らせる役割をはたしました。

 そしていま注目すべきことは、ソ連解体という情勢のもとで、同じ型のアメリカ帝国主義美化論がふたたび登場していることです。それが「冷戦終結」論であります。アメリカ帝国主義の侵略と戦争の政策の主要な推進力は、世界制覇をめざす帝国主義的な野望にあるのであって、ソ連が解体したからといってそれが消え去るものではありません。現に彼らは、先ほどものべたように、「世界の憲兵」戦略への再編成をおこなって、冷戦体制を維持しつづけています。

 今日、日本と世界の平和・民主勢力が世界の諸問題に対処するうえで、アメリカ帝国主義の侵略と戦争の諸政策とのたたかいは、ひきつづき、平和と民族自決のための中心問題になっています。ここに、一部改定案が、世界情勢をみる根本にすえている綱領的見地の中心の一つがあるのであります。

 なお綱領一部改定案は、アメリカ帝国主義の「世界の憲兵」戦略の重要な内容として、「現在の核保有国による核兵器の独占を体制化」し、「核兵器を武器としたアメリカ帝国主義の覇権主義を世界におしつけようとするたくらみ」を告発しています。そのことの重要性について一言強調しておきたいと思います。実際、アメリカ帝国主義が、北朝鮮の“核疑惑”をいいたてて、「制裁」の名による戦争のまぎわまで世界をあわやひきこもうとした最近の事態の推移は、その危険性を生なましく浮きぼりにしました。彼らは、「核拡散防止」という名目で、なにか核軍縮への一歩であるかのようによそおいながら、核兵器の独占による覇権主義の意図をかくそうとしており、その術策は、現在、世界の平和をめざす人びとのあいだにも一定の影響をあたえています。それだけに、この面で、日本の平和・民主運動が、核戦争防止・核兵器廃絶をめざす正確な課題と路線をひろめてゆく活動は、きわめて重要であります。

(3)覇権主義の克服の課題について

 つぎに、「社会主義をめざす国」という新しい規定の問題、また解体したソ連などを社会の実態としてどう評価するかの問題にすすみたいと思いますが、この問題にはいる前に、覇権主義の克服についての現行綱領の命題について、若干のべておきます。

 わが党の綱領は、覇権主義のすみやかな克服のための努力を、日本の革命運動の未来にとっても、社会主義の本来の歴史的使命の発揮のためにも、重要不可欠な任務として意義づけてきました。この命題がいかに正確なものであったかは、ソ連の解体とその後の事態の展開によっても確証されました。

 この命題は、一九六一年に最初に党綱領を採択したときからあったものではありませんでした。覇権主義との闘争についてのこの命題は、それ以来の三十年余の活動のなかで、ソ連などの実態についての認識をふかめたことをつうじてとりいれたものであります。ここでその歴史を詳細にふりかえるつもりはありませんが、六〇年代初頭からの日本共産党指導部の転覆をめざすソ連からの干渉とこれを打ち破る闘争、およびその間におこったチェコスロバキアへの侵略は、ソ連覇権主義の実態とその害悪についてのわれわれの認識をふかめる重大な経験でした。

 私たちはソ連の干渉にたいして、十五年にわたって原則的なたたかいをおこない、一九七九年に、ソ連指導部が干渉の誤りを公式に認めたことを前提として、両党関係の正常化に応じました。大国主義的なごう慢さを特質とするソ連指導部が、資本主義国の共産党にたいして、みずからの干渉行為の自己批判をおこなったというのは、きわめて異例なことでした。しかしそれも、覇権主義、大国主義についての本質的な反省をともなうものでなかったことは、間もなく暴露されたのです。両党の首脳会談で、過去の干渉へのソ連側の反省と両党関係の正常化を共同の文書で確認したのは、一九七九年十二月二十四日のことでした。ところが、ソ連がアフガニスタンへの侵略を開始したのは、それからわずか三日後の十二月二十七日のことだったのであります。ソ連指導部の覇権主義は、一時的なものでも、局部的な誤りでもなく、体制化しているとみるべき、きわめて根の深いものであることはもはやあきらかでした。こうした覇権主義は、それにつづくポーランド危機でも公然とあらわれました。

 日本共産党は、こういう認識にもとづいて、一九八五年の第十七回党大会での党綱領一部改定の機会に、覇権主義の害悪とその克服の問題を、綱領的な課題として明記したのであります。

 ここでつけくわえておきたいのは、私たちはそれを、ソ連共産党との関係が比較的よい状態にあった――よいといってもあくまで比較的な話ですが――そういう時期におこなったということです。わが党が、世界平和と核兵器廃絶の問題をめぐって、ソ連共産党と長期にわたる論争をおこない、その理論的な決着を事実上の背景として、一九八四年十二月、ソ連共産党とのあいだで、核戦争阻止、核兵器廃絶のための闘争についての共同声明を発表したのは、みなさんがよくご承知のとおりであります。そして、その実行に共同で責任をおうということで、両党首脳のあいだの定期協議の開催までとりきめました。

 第十七回党大会は、そういう時期にひらかれた党大会で、ソ連共産党も大会に代表団をおくってきていました。その代表団の面前で、覇権主義への痛烈な批判をふくむ党綱領の一部改定案が提案されたわけですから、ソ連代表団からは抗議めいた申し入れがありました。綱領には、ソ連という国の名前は書いてありませんでしたし、わが党は覇権主義はソ連にかぎられるものではないという見地を明確にしていましたが、克服すべき覇権主義の最大のもの、歴史的な巨悪ともいうべきものとして、党綱領改定案がソ連覇権主義をさしていることは、読むものにはだれにも明白なことでした(笑い)。もちろん、われわれはそうした抗議は問題にしませんでした。核戦争、核兵器の問題など、ある重要な課題で一致点を確認しあい、共同声明を発表していたとしても、ソ連覇権主義の害悪はそれによって帳消しにされるような性質の問題ではないこと、その克服は日本と世界で平和と社会進歩の運動が前進するうえで、避けることのできない根本課題だというのが、私たちの認識だったからであります。(拍手)

 ソ連の覇権主義にたいする闘争を党の綱領に明記した政党は、日本でも世界でも日本共産党のほかにはありませんでした。しかし、それがどんなに重要で適切な、また先見的な命題であったかということは、当時のゴルバチョフ指導部が、間もなく日本の革新運動にたいする新たな干渉にのりだしたことからも明白でしたし、さらに六年後の、ソ連共産党とソ連の解体にいたる全歴史が証明したことであります。(拍手)

(4)「社会主義をめざす国」という規定について

 さて、「社会主義をめざす国」という規定の問題にはいります。

「社会主義をめざす」とは、その国が過渡期にあることを一律に表現したものではない

 綱領の一部改定案は、旧ソ連・東欧諸国をふくめ、これまで「社会主義国」とよんできた諸国を「社会主義をめざす国ぐに」、「社会主義をめざす道にふみだした国ぐに」と表現し、旧体制が解体したソ連・東欧について、「社会の実態として、社会主義社会には到達しえないまま、その解体を迎えた」と規定しました。

 ここでまずあきらかにしておきたいのは、この「社会主義をめざす」という言葉は、その国の人民あるいは指導部が社会主義を目標としてかかげている事実をあらわしているだけで、これらの国ぐにが、社会主義、共産主義社会にいたるいわゆる過渡期に属していることを、一律に表現したものではない、ということです。つまりこの規定は、その社会が現実に社会主義へむかう軌道の上をすすんでいるかどうかの評価をふくむものではないのであります。

 その国が現実に社会主義社会にむかう過渡期にあるのか、それともその軌道から脱線・離反して別個の道をすすんでいるのか、また資本主義に逆行しつつあるのか、あるいはもともと社会主義とは無縁だったのか――私たちは、それらは、国ごとの個別の研究と分析であきらかにすべき問題だと考えています。 

「生成期」論をめぐって

 つぎの問題は、では、旧ソ連は何だったのかという問題で、これは、大会前の討論でも、もっとも議論の多かった問題の一つであります。また、改定案の見地と、従来わが党があきらかにしてきた「生成期」論――第十四回党大会(一九七七年)で定式化した「社会主義生成期」論との関係も、広く討議されてきました。

 日本共産党の「生成期」論は、当時、国際的にもおどろきの目で迎えられ、大きな先駆的な役割をはたした理論でした。

 その当時、ソ連で定説になっていたのは、十月革命以後、ソ連は過渡期の道をすすんできたが、スターリンの指導のもとに、三〇年代には「集団化」、コルホーズ化という形で農業の社会主義化をやりとげた結果、過渡期の任務を成功的に達成して、社会主義社会の建設は完了した、そしてより高い段階である共産主義社会への移行の時期にはいった、という見方でした。

 戦前の三〇年代後半に、社会主義社会の建設を完了したというこのスターリン理論は、その後の指導部にもそのままひきつがれました。フルシチョフは、一九八〇年までに共産主義社会に到達するという大風呂敷をひろげて失敗しましたが、これも社会主義社会建設完了論を土台にしたものでした。フルシチョフの失敗があきらかになったあと、ブレジネフ指導部は、この理論をソ連は「発達した社会主義」の段階にあるという新しい規定で置きかえました。社会主義社会としてはソ連はすでに完成しており、その高度の発展段階にあるという立場ですから、これもスターリン理論のうけつぎです。

 ソ連がそういう見方をひろめているときに、日本共産党が、現在世界で社会主義を名乗っている国ぐには、ソ連をふくめて、まだ「生成期」にある、社会主義社会の完成とか、社会主義の本来の進歩的な諸特徴が全面的にその力を発揮するとかには、はるかに遠い段階にある、そういう評価をしめしたわけであります。しかも、私たちは、「生成期」論を提唱したさい、ソ連社会がただ過渡期の途中にあるというだけでなく、そこには、スターリンその他の誤った政策によって複雑な制約や否定的傾向が刻まれており、それを克服しないかぎり社会主義社会への前進はない、ということもきびしく指摘しました。

 それは、国際的にも重要な反響をよんだ日本共産党の独自の先駆的な見解でした。

 しかし、当時はまだ、旧ソ連社会にたいする私たちの認識は、多くの逸脱と否定的現象をともないつつも大局的にはなお歴史的な過渡期に属するという見方の上にたったもので、今日から見れば明確さを欠いていたことを、ここではっきり指摘しなければなりません。

スターリン以後のソ連社会は経済的土台も社会主義とは無縁

 ある社会を研究する場合、政治的な上部構造の面からだけでなく、経済的な土台の面からも見る必要があるということは、史的唯物論の根本的な要求の一つであります。この見地から旧ソ連社会を見る場合、重要なことは、スターリンが、民族自決権のじゅうりんや大量弾圧など、国際・国内の政治の分野で重大な誤りをおかしただけではなく、経済的土台の領域においても、根本的に誤った政策を強行して、レーニンが探究した過渡期の軌道をくつがえしてしまった、という事実にあります。

 社会主義とは「生産手段の社会化」だとよくいわれます。わが党の綱領にもそのことは明記されています。では「社会化」とはなにかと言えば、生産手段を社会、すなわち人民の手に移すことであります。生産手段を国有化しさえすれば、それが「社会化」だというわけにはゆかないのです。国有化が生産手段を人民の手に移す形態、手段となるか、少なくともそれに接近する一形態となるかどうか、ここに肝心な問題があります。

 ですからレーニンは、十月革命の最初の段階から、経済生活の全国的な管理と運営に人民が参加できる条件をつくりだすことを、社会主義への道の決定的な問題として強調しつづけたのです。彼が、晩年の探究のなかで、いわゆるネップ(新経済政策)に到達したさい、人民の文化的知的水準の向上に特別に力をいれたのも、人民の多くが字も読めない、文化がないような状態では、人民が経済の管理に参加する基礎がきずけないという、強烈な目的意識にもとづいてのことでした。

 ところがスターリンは、三〇年代に、工業でも農業でも、レーニンのこの方針を完全に投げすてました。スターリンの指導と命令のもとに強行された農業の「集団化」なるものは、農民の自発的な意思による協同組合化という科学的社会主義の大原則をふみにじって、農民を強制的にコルホーズなどに追いこんだものであり、農民は、国内の移動や旅行の自由さえもたない、極端に隷属的な生活条件のもとにおかれました。しかもそれは、シベリアその他への数百万の農民の追放をともなっていたのです。工業でも、革命の初期に重視された経済管理への労働者、労働組合の参加の制度は失われ、労働者は賃金など自分の労働条件の問題についての交渉の権利さえ大幅に制限されたり奪われたりしたうえ、人権を侵害する過酷な労働制度が強権をもって導入されるようになりました。

 たしかに形のうえでは、「国有化」もあれば「集団化」もありましたが、それは、生産手段を人民の手に移すことも、それに接近することも意味しないで、反対に、人民を経済の管理からしめだし、スターリンなどの指導部が経済の面でも全権限をにぎる専制主義、官僚主義の体制の経済的な土台となったのです。

 さらに、スターリン以後のソ連社会の重大で深刻な実態は、囚人による強制労働がおそるべき規模で存在しつづけたことであります。最初は、農村から追放された数百万の農民、つづいて大量弾圧の犠牲者たちが、絶え間ないその人的供給源となりました。多くの報告によれば、強制収容所の囚人労働は、毎年数百万という規模で、三〇年代から五〇年代までつづいたといわれます。この強制労働の制度は、たとえば、零下五〇度というシベリアの酷寒の条件での休息も休日もない長時間労働など、普通なら不可能な過酷な条件のもとでの労働を可能にして、スターリンが誇った多くの巨大建設の基盤ともなりました。さらに重要なことは、この膨大な強制労働の制度の存在が、社会の全体を、一歩間違えばだれでもそこへ転落するという恐怖でしめつけて、ソ連社会における専制的支配のささえという役割をはたしてきたことであります。

 みなさん、社会主義とは人間の解放を最大の理念とし、人民が主人公となる社会をめざす事業であります。人民が工業でも農業でも経済の管理からしめだされ、抑圧される存在となった社会、それを数百万という規模の囚人労働がささえている社会が、社会主義社会でないことはもちろん、それへの移行の過程にある過渡期の社会などでもありえないことは、まったく明白ではありませんか。(拍手)

 このように、スターリンは、レーニン時代の探究の結論である過渡期の軌道をくつがえし、社会主義とは無縁な社会への転落の道をつきすすんだのであります。そしてその後のソ連指導部――フルシチョフ、ブレジネフ、ゴルバチョフなどの指導部も、強制収容所の縮小・廃止をはじめ一連の「緩和」政策を実行しはしたものの、スターリンが転落させたこの道に根本的な批判をくわえることも、そこからぬけだすことも最後までできなかったし、やろうとしなかったのであります。

 ソ連共産党の最後の書記長であるゴルバチョフが、一九八七年の十月革命七十周年記念日でおこなった演説は、この点で記憶に値します。彼はそのとき、一方でペレストロイカや、帝国主義美化の「新しい思考」路線などを大宣伝し、いかにもソ連社会における新しい波の先駆けであるかのようなよそおいをしました。しかし、他方では、農業の強制的な「集団化」など三〇年代にスターリンがやったことについて、若干の逸脱があったことは認めながらも、それは、世界で最初の社会主義社会をきずきあげた「歴史的規模と歴史的意義をもつ偉業」であるとし、農業の「集団化」さえも、「結局は原則的な意義をもつ転換点」であって、「国の大半の住民の生活様式」を社会主義化したものだったと意義づけ、「当時の条件の下」で別の方針を選ぶことは不可能だった、そこに「生活の真実の立場がある」など、基本的にはスターリン礼賛に終始したのでした。

 スターリン以後の転落は、政治的な上部構造における民主主義の否定、民族自決権の侵犯にとどまらず、経済的な土台においても、勤労人民への抑圧と経済管理からの人民のしめだしという、反社会主義的な制度を特質としていました。旧ソ連社会の経済的諸制度のなかで、社会主義的性格をいちおう評価できるのは、レーニン時代に基礎がおかれた社会保障など人民の最低生活保障にかかわる諸制度ですが、それは、生産関係にではなく、分配関係に属するものであって、社会の経済的な骨格を形づくる基本的要素とはならなかったのであります。

 いま私たちが旧ソ連社会の実態についてたちいった批判をおこない、そのような社会が経済制度としても社会主義とは無縁であったことを、厳格な科学的な立場にたってはっきりと認識することは、将来、日本の国民が社会主義的な発展の道へふみだすかどうかが現実の日程にのぼってくるときにも、きわめて重要な意義をもつ問題であります。

教条的な図式主義をしりぞける

 最後に、スターリン以後のソ連社会を経済的社会構成体としてどう規定するかという問題にふれたいと思います。

 この問題では、社会主義社会やそれへの過渡期なのか、そうでなければ資本主義社会なのかというように、社会主義か資本主義かの二者択一の形で問題を提起するのは、問題のたてかたそのものが科学的でないということをまず指摘しなければなりません。実際、私が先ほど報告した旧ソ連の社会には、資本主義社会でもなかなか発見できないような(笑い)、人民にたいする前近代的な抑圧の制度が無数にあるわけであります(笑い)。ことはそんなに単純ではないのです。

 マルクスは『経済学批判・序言』で、原始共産制社会、奴隷制社会、封建制社会、資本主義社会を、これまで人類の歴史のうえにあらわれた四つの社会構成体として列記しています。これに共産主義社会をくわえれば、五つの社会構成体ということになりますが、マルクスは、そのさい、「大づかみにいって」をつけくわえることを忘れませんでした。われわれがあれこれの社会を研究するさいに、人類史には過去、現在、将来をつうじて、五つの社会構成体しか存在せず、どんな時代のどんな社会も、この五つのどれかにかならずあてはまるはずだ、とする教条的な見地はとるべきでないのです。

 マルクスは、自分の史的唯物論が、あらゆる時代、あらゆる社会につうじる「万能の合鍵(あいかぎ)」としてあつかわれることを、きわめてきらいました。この理論を、どんな社会にもあてはまる“普遍的な歴史哲学”にはしてくれるな、というのが、彼のくりかえし強調したことであります。マルクスにしてもエンゲルスにしても、実際にあれこれの社会の分析にとりくむとき、その社会があたえられた社会構成体のどの型に属するかという立場から出発したことは、一度もありませんでした。その社会の実際のしくみと運動を事実と実態にもとづいて分析し、そこからその社会にふさわしい規定をひきだすのがつねであって、歴史の複雑な展開のなかでは、現在の時点では予見できない新しい社会形態に出合うことがありうることも、彼らは当然の前提としていました。

 旧ソ連社会がいかなる社会構成体であったかの問題についても、教条的な図式主義をしりぞけた、実態にそくしての研究が重要であります。これからも、この社会については、多くの側面、多くの実態があきらかにされてくるでしょうし、多くの研究もおこなわれるでしょう。私たちは、この党大会でソ連をいかなる社会構成体とよぶべきかという学問的結論をだして、こんごの学問的研究を制約するつもりは少しもありません(笑い、拍手)。この党大会で、科学的社会主義の事業の担い手である日本共産党としての立場から確認したいのは、スターリンによる転換以後、強力をもって形づくられた旧ソ連社会が、社会主義社会でもそれへの過渡期の社会でもなかったということ、そこに私たちの認識の今日的な到達点があるということであります。(拍手)

五、民主主義革命の路線について(第五章・第六章)

(1)民主主義革命の戦略路線

 第五章、第六章の民主主義革命にかんする部分にはいります。ここでの綱領の中心命題は、日本社会が当面している社会変革の性格を、民主主義革命、反帝反独占の民主主義革命と規定したところにあります。

 この規定は、綱領を採択した当時、独占資本主義国での革命即社会主義革命と思いこんでいた教条主義者たちからは、はげしい攻撃の対象となりました。国内では、日本の社会の根本的な改革を真剣に問題にしたことがない社会党までが(笑い)、日本共産党の綱領が直接社会主義革命をめざしていないことを不満として、「革命なき革命論」などといった悪口を、自分の機関紙にしきりに並べたてたものでした。この悪口は、実は、日本社会の当面の中心課題である反帝反独占の課題を後ろへ押しかくす日和見主義の隠れみのでしかありませんでした。

 この党がいまは、先日の村山委員長の首相就任の記者会見にみられたように、社会党は綱領をはじめ党の文書から「社会主義という言葉」を全部追放してしまっているんだから安心してくれ(笑い)といい、それを党が脱皮したことの証拠としてしきりに宣伝しているわけで、たいへん滑稽(こっけい)な光景であります。ここで注釈しておきますと、いま社会党が「社会主義という言葉」とともに追放したのは、以前はこの党もある程度は認めていた、現実の革新的諸課題だということが、大事であります。 世界の共産主義運動のなかでも、発達した資本主義国における民主主義革命という規定は、多くの資本主義国の党から批判的な目で迎えられました。当時、ヨーロッパの党のあいだでは、社会主義革命論が支配的で、その多くが、直接の形で表現しているといないとにかかわらず、ソ連などで「社会主義」と称されていた体制、あるいはそれに近いものを社会発展のつぎの段階として想定したものでした。一九六〇年の国際会議で、日本共産党の代表が、発達した資本主義国での民主主義革命について問題提起をしたときにも、ヨーロッパの諸党は、ヨーロッパではそうした革命路線は問題にならないという態度をとったものであります。そのために、その会議が採択した文書では、民主主義革命を論じたときに、アメリカ帝国主義の支配下にある「ヨーロッパ以外の発達した個々の資本主義国」の問題だという地理的な限定が意図的にくわえられました。「ヨーロッパ以外」に限定することを主張した諸党にとっては、発達した資本主義国では社会主義革命論が本流で、民主主義革命などの路線は、ごく特別な事情のもとでの例外としてしか、うけいれられなかったのであります。

 しかし、社会生活の現実の論理はなかなか頑強なもので、その国の共産党が社会主義革命論をとっている国ぐにでも、社会の諸矛盾と人民の闘争の発展は、民主主義的課題のための闘争をしばしばいや応なしに前面におしだしてきます。そういう場合でも、これらの国ぐにでは、民主主義のための闘争は、社会主義革命にいたる過渡的な通過点としてあつかわれるのがつねでした。

 そういうなかで、日本共産党が、資本主義か社会主義かの選択の以前に、民族独立の問題をふくめた民主主義的変革を徹底する課題を、独自の革命段階の任務として、いいかえれば、社会進歩の事業の段階的な任務として提起したことは、国際的にみてもきわめて重要な意味をもっていたのであります。

 旧ソ連共産党が解体し、ソ連式の教条主義が力を失ったいま、この路線にも、国際的に新しい光があてられつつあります。ソ連覇権主義とたたかいぬいた日本共産党の自主独立の立場への注目とともに、民主主義革命のこの路線にも大きな関心がよせられつつあります。なかには“実は私は三十数年前、ある国際的な舞台で宮本議長にあい、宮本同志の知性にみちた問題提起が非常に印象的だった、民主主義革命の路線もそうだったのだが、当時の私はまったくそれを理解しえずに冷淡な態度をとった”といって、そのことをいまにいたって残念がる外国の党幹部の感想もありました。私たちはその感想を喜ばしいニュースとして聞いたものであります。

(2)革命の段階的発展をどうとらえるか

 綱領の一部改定案では、民主主義革命路線の意義をしっかりふまえたうえで、いくつかの改定をおこなっています。

 その一つは、民主主義革命から社会主義革命への段階的な発展の問題をより明確に叙述することにつとめた点であります。

 この二つの革命は、日本社会の進歩的な発展のあいつぐ二つの段階として、客観的にみて連続する性格をもっています。しかし、それは反共主義者が悪意をもって宣伝するように、民主連合政府だと思って足をかけたら、いつのまにか民主主義革命になり、また社会主義革命になるなど、エスカレーターのように勝手に引っぱっていかれる(笑い)、そういう性質のものではありません。つまり、それは、いったんその軌道にのったらいや応なしにつぎの段階につれてゆかれるといった、国民の意思から独立した自動的な過程では、絶対にないのであります。社会の進歩的な変革が、ある段階からつぎの段階に前進するということは、国民の意思による選択――この意思は今日の日本では、選挙によって表明されます――、この国民の意思による選択をつうじてのみ、段階的な前進が実現するのであります。

 第七回党大会(一九五八年)の綱領報告は、民主主義革命から社会主義革命への前進について、それは「わが国の客観的な情勢がそれを不可避的なものとし、わが国の労働者階級と人民の多数がそれを必要と考える状態でのみ成功的にできる」ということを、すでにはっきりと指摘しています。

 さらに「自由と民主主義の宣言」は、民主連合政府による民主的な革新、反帝反独占の民主主義革命、社会主義革命、さらに共産主義社会の前進など、日本の社会の前途を展望しながら、それらを、「それぞれ、日本国民の生活と福祉、権利と自由を拡大向上させる、社会発展の前進的な諸段階をなすもの」と意義づけたうえで、その前進の一歩一歩が主権者・国民の自由な選択によることを次のようにのべています。「社会進歩のどのような道をすすむか、そしてその道を、いつどこまで前進するかは、主権者である国民の意思、選挙で表明される国民自身の選択によって決定される問題である」。

 今回の一部改定案は、日本共産党が一貫してとってきたこの見地を、よりわかりやすく定式化したものであります。

(3)独占資本にたいする民主的規制

 つぎの問題は、行動綱領の改定にかかわる問題です。行動綱領の今回の改定で重要な点の一つは、その最後の部分で、当面の経済改革の要求を、「金融機関をふくめ独占資本にたいする民主的規制」として総括したことであります。この点では、これまであった国有化の要求をなぜとりさげたのかという質問もだされていますので、若干たちいった解明をおこなっておきたいと思います。

 党綱領を採択した当時、経済の民主主義的改革の問題について、国際的にも一定の討論がありましたが、それは、要求の中心を、主として重要な産業や企業の国有化とその民主的管理にしぼっていたのが、特徴でした。この傾向は、発達した資本主義国での革命路線として、全体として社会主義革命論が支配的だったことともむすびついていました。

 もちろん民主主義革命の課題としても、国有化は、積極的な要求となりうる問題であります。わが党は、この問題について、国有化即社会主義ではなく、民主主義的な国有化がありうること、民主主義的な課題の範囲の問題として、民主的な政府や権力による国有化を提起できることを早くから明確にしてきました。

 しかし、理論問題としてこういう指摘をしながらも、当面の行動綱領として、いま、国有化の要求をかかげることが適切かどうかという問題については、わが党は慎重な態度をとってきました。そこで行動綱領では、当面の経済改革の中心要求として、「独占資本にたいする人民的統制」という課題を提起し、その実現と経験をつうじ、条件が成熟するのに応じて、国有化に移行するという展望をあきらかにしました。また、その間にも、部分的には「一定の独占企業」の国有化の要求が日程にのぼってくることもありうることを指摘しました。それが現行綱領の行動綱領のなかに定式化されたのでありますが、人民的統制をつうじて国有化へというこの方向づけは、日本共産党が当時独自に展開した見地でした。

 第八回党大会でこの行動綱領を決定して以後、わが党は、「独占資本にたいする人民的統制」の課題について、その理論的な研究と政策的な具体化の両面から、多くの努力をおこなってきました。その今日的な到達点として、私はここで、第二回全国協議会の報告と最近の『新・日本経済への提言』をあげたいと思います。

 二全協の報告では、「独占資本にたいする民主的規制」という方針が、机の上の青写真から生まれたものではなく、「日本の国家独占資本主義が現実に準備しているしくみ、経済の全国的な規制や管理のしくみを、民主的な権力のもとで、人民的に活用しよう」とする方針であること、だからそれは、「青写真にとどまらない現実性、日本の国民の経験に根ざした説得力」をもちうるのであって、日本がこの課題にたちむかい、これを現実的に達成するならば、それは将来、日本が社会進歩の道をさらに前進するうえでも、「貴重な国民的な経験」を提供するものとなることを、あきらかにしました。もし日本の革新・民主の勢力が、民主的規制によって経済管理の国民的な経験を蓄積することをぬきにして、いきなり国有化から経済改革に手をつけようとすれば、たとえそれが一定のかぎられた部門の問題であったにせよ、国民的な理解をえることもできないし、実際の経済的な成功を保障することもできないだろう、これが二全協があきらかにした一つの点であります。

 二全協の報告がさらに、マルクスやレーニンの文献をもふりかえりながら、この方針の理論的な意義を解明したことも重要であります。社会の経済的な改革、変革とは、なにかより高度な形態を外からもちこんで、その社会に人工的に植えつけるような形で実現されるものではないのであります。そういう見地から、マルクスもレーニンも、資本主義がつくりだして、現在の社会の胎内にそだっている「発達した諸形態」はなにかということを、非常に熱心に研究しました。マルクスは、そういう角度から銀行制度、金融制度に将来の改革のテコとなる「発達した形態」を見いだしましたし、レーニンは、さらにすすんで国家独占資本主義の機構が全国的な経済の記帳と管理の形式を準備していることに目をつけて、それを論じたわけです。

 要するに、外から植えつける形ではなしに、現在の社会の胎内にそだっている「できあいの諸形態」を最大限に活用しながら、それをテコにして前進をはかる、ここに彼らが注意を集中した点があったのですが、わが党の「独占資本にたいする民主的規制」の方針の根底にあるのも、理論的には同じ見地であります。

 また、『新・日本経済への提言』は、日本経済の現状の精密な分析から、民主的規制の対象となる独占資本とは、約二百の独占企業であること、民主的規制の政策というのは、「大企業をつぶす」発想などとはまったく無縁で、日本経済のなかで絶大な力をもち、特権的な地位をきずいてきた大企業にたいして、その社会的な責任を明確にし、国民生活に損害をおよぼす横暴をおさえることに主眼があることをあきらかにしたうえで、民主的規制の政策内容を体系的にあきらかにいたしました。

 この問題にかんする行動綱領の文章はきわめて短いものでありますが、これらの文献をふくめて、その深い内容をくみとっていただきたいと思います。

(4)「労働者、農漁民、勤労市民の階級的な連携」について

 第六章の部分では、「労働者と農民の同盟」という従来の定式を、「労働者、農漁民、勤労市民の階級的な連携」という新しい定式にあらためたのが、重要な点であります。

 もともと労働者と農民の同盟という定式は、歴史的には、資本主義の発達が相対的におくれ、人口のなかで農民層の比重がとりわけ大きかったドイツでまず生まれ、その後、より広く資本主義諸国の多くで重視されてきた戦略方針です。その主眼は、なによりもまず、その国の勤労人民の多数を結集するさい、この二つの階級勢力の提携が決定的だというところにありました。

 日本では、農民は、戦前はもちろん、戦後もある段階までは、人口のなかで労働者階級につぐ第二の階級勢力として大きな比重をしめていました。しかし、いわゆる高度成長期をへて、日本の階級構成が大きく変動したもとでは、「労働者と農民の同盟」という定式は、勤労人民の多数の結集という本来の見地からいって、しだいに実情にあわない狭いものになってきました。一九七三年の第十二回党大会で、「都市と農村の中間層との同盟」という方針を強調したのは、この見地にたってのことでありました。なお、このとき、農民の強制的な集団化に反対するという原則を明確にうちだし、将来でも協同組合化にあたっての自発性――協同組合にはいるのに賛成だという農民だけがその意思にもとづいて参加するのが自発性ということですが、これを厳守することを、科学的社会主義の原則的見地として強調しました。これは先にのべた、スターリンによる強制的「集団化」の誤りを念頭においての解明だったことを、このさい付言しておきたいと思います。

 今回の改定は、第十二回党大会での「都市と農村の中間層との同盟」という見地を、より発展させて、綱領にとりいれたものであります。その根本は、より広い視野で、抑圧されている勤労大衆を、日本の社会の進歩と変革の事業、当面する政治革新と民主的改革の事業に結集するという見地をつらぬくところにあります。それぞれの分野で、この問題提起にふさわしい新鮮な努力をもとめたいのであります。

(5)民主共和国の実現をめざして

 民主主義革命にかかわる最後の問題として、民主主義革命が目標とする国家形態を、従来の「人民共和国」から「民主共和国」にあらためたことについてのべます。

 「提案説明」にもありますように、もともと「人民共和国」とは、ソビエト式の国家形態をとらず、「名実ともに国会を最高機関とする」議会制の共和国をとるということを表現したもので、その内容は、「民主共和国」と実質的に異なるところはなかったのです。そこで、今回、一般に理解しやすい民主共和国の用語を使うことにしました。これは、マルクス・エンゲルス以来、科学的社会主義の運動の伝統的な要求であります。また、主権在民の原則を首尾一貫した形で実現し保障する国家形態として世界的な普遍性をもった要求だということが、重要な点であります。

 私たちは現在、君主制の廃止という問題を、行動綱領にはかかげていません。それは、当面の人民の諸要求をまとめるという行動綱領の性格にもとづくものであって、君主制の廃止と民主共和国の実現という問題は、日本の民主的な変革が前進して、主権在民の原則の徹底が社会の真剣な問題になるような段階では、当然、日程にのぼってくるべき問題であります。

 そういう展望にたって、世界史の流れを見るとき、君主制の廃止と民主共和国の実現が、文字どおり二十世紀の人類の進歩のとうとうたる本流となっていることは、重要であります。実際、二十世紀のはじめには、世界全体を見渡しても、まともな民主共和国は、スイス、フランス、アメリカの三カ国しか存在しませんでした。主だった国は圧倒的に君主制の国でした。君主制国家が世界の大多数をしめているというのが二十世紀の出発点だったのです。それが、二十世紀の九〇年代を迎えた今日、君主制と共和制がしめる世界的な比重は完全に逆転しました。国連加盟百八十四カ国のうち、君主制の国家はわずか二十九カ国、国連に加盟していない君主制の国トンガをくわえても三十カ国、あとは多少の色合いのちがいはあれ、すべて共和制の国家というのが、世界の現実であります。

 日本が、憲法で主権在民の原則をうたいながら、君主制が残されている世界で数少ない国の一つになっていることの意味を、この民主主義の世界史的な流れのなかで見定めることは、今日きわめて重要な問題です。

 わが党は、この問題の解決を今日の行動綱領の問題として提起してはいませんが、日本の民主主義の巨視的な長期的な展望としては、ここに一つの重大な問題があることを強調したいのであります。

六、社会主義・共産主義への展望と課題(第七章)

 綱領の最後の章にはいります。この章は、社会主義革命および社会主義・共産主義の社会への展望の問題にあてられており、大きくいって二つの部分からなっています。第一の部分は、資本主義社会から社会主義・共産主義の社会に移行する過渡期の任務にかんする部分です。第二の部分は、共産主義社会の二つの段階とその後の展望にかんする部分です。

(1)過渡期の任務について

 まず、過渡期の任務についてですが、旧ソ連などの社会的実態があきらかになったいまでは、過渡期にむかって本格的に足をふみだした経験を、人類はまだもっていない、といわなければなりません。レーニンはこの問題の探究をおこないましたが、それは、おくれたロシアの条件のもとでの、しかもごく端緒的な探究にとどまりました。また現在、その探究にとりくんでいる国はあっても、それはまだごく初歩的な段階であることは、当事者の党や政府自身の言明からも明白です。

 宮本議長は、二十四年前の第十一回党大会で、すすんだ資本主義国での革命は、まだ本格的にはこの地球上で実現されておらず、日本でわれわれがとりくんでいる革命の事業は、「新しい、人類の偉大な模索と実践の分野」に属することを強調しました。今日では、それにくわえて、過渡期に本格的にふみだすこと自体が、人類史上未踏の分野に属することを指摘しなければなりません。

 われわれは、未来社会の青写真づくりをこととするものではありませんから、ここでは、現在あきらかにできる、また二十世紀の歴史的教訓からいう必要のある最低限のことをのべるにとどめました。

 内容的にいいますと、まず、社会主義建設の骨格をなす三つの目標――労働者階級の権力の確立、生産手段の社会化、社会主義的計画経済についてのべています。この三つは現行綱領の規定をひきついだものですが、よりわかりやすくするために、それぞれの目標の意味するところを書きくわえました。

 旧ソ連・東欧などの経験からの重要な教訓の一つは、これらの目標が表面的には実現されたかのような形をとっても、その国の指導部が、専制主義、覇権主義などの誤った政策をとりつづけた場合には、政治的上部構造ばかりか、社会の経済的土台までが、社会主義とは異質な、反人民的なものに変質するということです。この点はさきほどくわしくのべました。この見地から、一部改定案では、三つの目標につづいて、社会主義建設の推進にあたって堅持すべき基本点がのべられています。これは、一九八八年の第二回中央委員会総会と一九八九年の第五回中央委員会総会――どちらも第十八回党大会の時期の中央委員会でありますが――で、「社会主義の優位性を発揮すべき基本点」として提起したものに、「自由と民主主義の宣言」ですでにあきらかにしてきた諸点もくわえて、より充実させたものであります。

 それにつづいて、社会主義建設の段階での統一戦線政策の基本が定式化されています。この部分は、内容的には、現行綱領のままですが、問題の性格をより鮮明にするために、「統一戦線政策」という言葉をとりいれて、「党は、社会主義建設の方向を支持するすべての党派や人びとと協力する統一戦線政策を堅持し」という表現にあらためました。

 この考え方自体は、すでに一九七〇年の第十一回党大会で確認されており、それをふまえて、一九七六年の第十三回臨時党大会の綱領報告で、つぎのように解明されていたことであります。すなわち、この報告は、社会主義建設にとりくむ社会主義権力が、「社会主義建設を支持する人民連合――労働者階級と他の人民諸階級、諸階層との広大な連合に依拠する権力となる」ことは明白だとして、この連合を「社会主義的人民連合あるいは社会主義統一戦線」と性格づけました。改定案は、この言葉をとりいれたものであります。

(2)知的労働と肉体労働の差別の問題

 つぎの問題は、共産主義社会の叙述についてですが、この叙述は、「提案説明」でのべているように、共産主義的な未来の大局的な展望について、ごくおおづかみな特徴づけをするにとどめました。

 この点では、未来社会の設計図をほしがる青写真待望論者にたいして、マルクスがのべた言葉が、今日の私たちにとってもきわめて教訓的であります。マルクスは、晩年のある手紙のなかで、「未来の革命の行動綱領」を純粋に理づめで先どりしようとすると、それは必然的に空想的なものになるし、そういうことをやることは「現代の闘争をそらすものでしかない」という名言をのべたのです。

 この部分にかかわる改定で重要な意義をもつのは、知的労働と肉体労働の差別についての問題です。共産主義社会は二つの段階にわかれる、社会主義社会とよばれる低い段階から高度の共産主義社会にすすむ、というのが私たちの展望ですが、現行綱領では、人間の知的労働と肉体労働の差別が消えさることを、社会主義社会から高度な共産主義社会に移行する基本的指標の一つとしてあげています。一部改定案では、それを削除しました。

 それは、現代の新しい状況のもとでは、この差別をなくす問題は、共産主義社会の高い段階までまたないでも、低い段階、すなわち社会主義社会の段階でも解決できる課題に変化しつつあると、考えたからであります。

 大会前によせられた意見のなかには「提案説明」が「より近い将来に解決すべき課題に変化しつつある」としているのを読んで、「より近い社会」とは資本主義社会をさすものと考え、資本主義のわく内で解決可能とするのは早すぎるのではないかといった疑問がかなりありました。しかし、これは誤解であって、提案の趣旨は、現行綱領で共産主義社会の高い段階で解決すべき課題としていたのをあらためて、とくに日本のような条件のもとでは、社会主義社会の段階でも解決できる課題として位置づける点にあったのです。本論にはいる前に、この誤解をまず解いておきたいと思います。

 知的労働と肉体労働の差別の問題というのは、階級社会における支配階級と支配される階級の対立にもむすびついた問題であり、また人間の能力の全面的な発達をさまたげる問題として、マルクス、エンゲルスがとりわけ重視し、その差別の解消を「真に自由な人間関係の社会」――共産主義社会の成立の大前提ともみなした問題です。マルクス、エンゲルスの見解によりますと、これまでの社会では、一方に社会の共同事務、行政とか経済管理、あるいは科学や芸術などの問題に専門的にたずさわって、生産労働にはいっさいくわわらない少数の知的な働き手がいる、他方には、もっぱら生産労働をひきうけて知的な労働からはしめだされている広範な勤労大衆がいる、共産主義社会にいたれば、こういう状態が過去のものとなって、社会を構成するすべての人びとが、社会をささえる生産労働の一翼を自分の能力に応じてひきうけると同時に、さまざまな肉体的、精神的な能力を思いのままに発揮できる条件が保障される、これが、社会のいわば当然の準則、きまりとなってこそ、ほんとうに平等な人間関係の社会が生まれる、こういう展望をもったのであります。

 しかし、こうした状態が社会の全体にわたって実現されるためには、少なくとも二つの条件が必要となります。

 一つは、人民全体の知的水準の抜本的な向上をかちとる問題です。マルクス、エンゲルスが活動した当時には、『資本論』に生なましく叙述されているように、労働者階級の子どもたちには、小学校教育さえまともな形では保障されず、よりすすんだ高等教育の機会に恵まれるのは、支配階級か、それに近い立場のきわめて少数の人びとにすぎませんでした。この状態を根本的に改善し、すべての人民が知的活動に参加できる条件をととのえること自体、当時は、たいへんな社会的な努力と期間が必要になると予想されたのであります。

 もう一つの条件は、労働時間の根本的な短縮という問題です。マルクスは、物質的な生産の領域でも、知的な労働と肉体労働の境目が固定的なものではなくなることを想定していました。しかし、より重要な問題は、社会をささえるのに必要な、いわば義務的な生産活動――これには当然すべての人間が従事するが、その枠の外で、各人が知的な活動やスポーツなどに自由に参加し、自分のもっているあらゆる能力を発展させる機会と条件をつくりだす、というところにありました。マルクスは、それには労働日の短縮、社会的義務をはたすのに必要な労働時間の根本的短縮が必要条件だということを、『資本論』でも強調しています。この面でも、当時のヨーロッパは、労働者の長期にわたる闘争とその圧力のもとに十時間労働法がようやくかちとられはじめたところで、生産労働の領域の外で勤労者の自由な活動を保障できるような時間短縮は、はるかに遠いかなたの展望でしかありませんでした。

 こういう歴史的な事情のもとに、マルクスは、「知的労働と肉体労働の差別の解消」の問題は、社会主義社会ではまだ実現困難だと考え、共産主義社会の高い段階にいたってはじめて解決できる課題として、これを位置づけたのであります。

 しかし、それから百年余をへた今日では、問題解決の前提となる社会的条件には、根本的な変化が起こっています。

 まず教育水準の問題でいえば、現在の日本では九年間の義務教育が法律で定められていますが、さらに中学卒業者の九五%が高校に進学しています。つまり、十二年制の普通教育が国民大多数の共通のものになっているということです。知的労働と肉体労働の差別を固定化する条件は、この面では大きく失われつつあるといってよいのであります。「提案説明」で指摘したように、現場の生産労働自体についても、知的労働と肉体労働の区別や境目は、日ごとに流動的なものになりつつあります。

 もう一つの面、労働時間の問題はどうか。日本では、世界でも異例の長時間労働が支配的ですが、国際的には、十九世紀の十時間労働制はおろか、二十世紀のはじめにソ連が先陣をきった八時間労働制も、いまでは過去のものになりつつあって、すすんだところでは、拘束週三十数時間といった時間短縮の制度化が問題になっています。それは、抜本的な時間短縮を可能にするだけの生産力の発展が現に存在しているということであり、搾取を生産活動の目的としない合理的な社会体制が実現したら、この分野でも画期的な新しい条件をひらきうるということをしめしているのです。

 一部改定案は、こうした歴史的な条件の変化を考慮にいれて、知的労働と肉体労働の差別の解消の問題を、共産主義社会の高い段階ではじめて解決できる課題としてあつかうのでなく、「より近い将来」、すなわち社会主義の段階で解決にとりくみうる課題として位置づけたのであります。

(3)人類の前史から本史への展望

 最後の問題でありますが、一部改定案は、共産主義社会の叙述の締めくくりとして、つぎの文章をつけくわえました。

 「人類は、こうして、ほんとうの意味で人間的な生存と生活の諸条件の保障をかちとり、人類史の新しい発展段階に足をふみだすことになる」

 この文章を読んで、「自分は党に入ってからこれまで、共産主義は最終目標だとばかり思いこんできたが、違っていたのか」とおどろきの投書をよせてきた同志もいました。しかし、実はここに、科学的社会主義のほんとうに壮大な見地があるのであります。人間がこの地球上に生まれて二〜三百万年、長い原始共産制の社会をへて、階級社会に足をふみいれてから長く数えても数千年であります。これにたいして、こんごの人類史は、すくなくとも、数億年単位、数十億年単位で展開されるはずであります。ですから、そういう大きな歴史的な視野からみれば、われわれはいま、人類史のあけぼのの段階にいるわけで、いまとりくんでいる社会変革の事業をやりとげて共産主義社会に到達するというのは、歴史の終着駅どころか、人類の本格的な歴史への始発駅だといってもよいのであります。

 マルクスもエンゲルスもこのことをくりかえし強調しました。マルクスは、『経済学批判・序言』で、資本主義社会をもって「人間社会の前史は終わる」という有名な言葉を残しました。これは共産主義社会とともに、人間社会の本史、ほんとうの歴史がはじまるということであります。エンゲルスも『自然の弁証法』という遺稿のなかの一八七六年ごろに書いた文章で、人間が動物の世界から分離する過程を歩んできたことをあとづけながら、動物界からの人間の分離は、社会主義、共産主義の社会によってはじめて完成するのだということを強調しました。「計画的に生産され分配されるような社会的生産の意識的な組織」、すなわち共産主義社会だけが、「人間を社会的関係においても他の動物世界からぬけださせることができる」し、そこから「一つの新しい歴史の時代」がはじまって、人間の活動の全分野が「従来のいっさいのものをしてその光を失わせるほどの一大躍進をとげる」(自然の弁証法への「序論」)、人類はこういうかがやかしい未来展望をもっているのだということです。それからまもなく書いた『反デューリング論』では、エンゲルスは、この問題を別の角度から論じて、人間はそのときにはじめて、外的な力にしばられずに、自分で自分の歴史をつくるようになり、ほんとうの意味で社会と自然の主人公になる、それは「必然の国から自由の国への人類の飛躍である」、とのべています。

 こういう新しい歴史、人類のもっているすべての可能性が全面的に発揮される人類の本史へのページをひらく時代に私たちは生きている、これが、科学的社会主義の世界観が今日の世界にあたえている位置づけであります。

 そういうと、そのかがやかしい「本史」の時代に生まれあわせないのは残念だ(笑い)、少し早く生まれすぎた、と嘆く人がいるかもしれません。実は過去にも、そういう嘆きを口にした人がいたのです。それは、ドイツの党内に誤った「社会主義」をもちこんでエンゲルスに批判されたデューリングという人物であります。彼は、いま人間がやっていることは将来人類が到達する高みからみれば未熟で幼稚なものであってたいした意味がないのだとか、数千年後、数万年後の人類は、われわれの時代を「太古」と評価して、ばかにするだろう、こういった軽蔑(けいべつ)の調子で現代を語ったものでした。

 エンゲルスはこれを痛烈に批判して、つぎのようにのべました。「この『太古』は、いかなる場合にも、将来のすべての世代にとって、つねにきわめて興味ふかい歴史上の一時代たることを失わないだろう」。なぜかといえば、「この時代は、それ以後のいっそう高度な発展全体の基礎をなすものだからであり」――いまわれわれは本史の基礎をつくっているんだということですね――それからまた、「動物界からの人間の分離をその出発点とし、協同社会に結合した未来の人間が二度とけっして遭遇することのないような、さまざまな困難を克服していった経過をその内容としているからである」。つまり、いま私たちが日々経験しているたたかい、困難にぶつかりながらそれを克服して前進をかちとる過程、これは、「本史」を生きる将来の人類は経験したいと思っても絶対に二度と経験できないことだろう(笑い)、だからこそ今日の時代は永久に語りつがれる値うちがある興味深い一時代なのだ、エンゲルスは『反デューリング論』のなかでこういうことをのべて、現代に生き、現代にたたかうものへの激励の言葉としたのであります。(拍手)

 そういう意味では、私たちはほんとうに生きがいのある時代、人類の「本史」を切りひらく、もっとも創造的な歴史の開拓者の時代に生きているのであります。綱領の最後につけくわえた文章にはこういう思いもこめられているのです。

 それにくわえていえば、現代社会には、前史から本史への移行以前に、人類史を中断させかねないような重大な危険もはらまれています。核戦争の危険がそれであります。また、人類の生存環境を破壊する地球的規模での自然破壊も、そういう危険をふくんでいます。しかし私たちは、こういう危険があるからといって、人類史が希望ある将来をもつことを否定するような悲観論者ではありません。人類の生存すら危うくしかねないこれらの危険をとりのぞくために、日本と世界の変革に、より意欲的に挑戦するのが科学的社会主義者であります(拍手)。危険があればあるほど、資本主義社会、階級社会に特有の社会的不合理をとりのぞき、合理的な社会をめざす現代のたたかいと活動の世界史的な意義は、いっそう大きいのであります。そのことを自覚的にとらえて、当面する日本の政治と社会の革新の課題に、いっそうの熱情と確信をもってとりくもうではありませんか。(大きな拍手)

 以上をもって党綱領の一部改定についての報告を終わるものであります。(拍手)


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