東野敏弘・黒田庄町長 |
皆さんこんばんは。兵庫県黒田庄町長の東野です。(拍手)私の町は、生まれたばかりの赤ん坊から百三歳の高齢者の方まで合わせても八千人という人口ですから、こんなにたくさんの方々を前にして、今緊張しています。
黒田庄町―私は大変好きな名前です。荘園の名残を残す自然豊かな街なみを表わしていますし、明治二十二年に黒田庄村ができて以来、合併を経験していない、そういう町でもあります。
その町が、私が就任する六年前までは、部落解放同盟が支配する、ものの言えない町でした。自由にものが言える、町民が主人公で、開かれた黒田庄をつくろう、そういう住民の方々の熱い思いのなかで、当時、中学校の教師であった私が町長に就任させていただきました。田中町長と同じ時期に再選を果たして、今二期目、六年目をむかえています。(拍手)
中学校の教師でしたから、議会の傍聴に行ったこともありませんし、行政のこともまったく知りませんでした。町長という仕事は、町の新しい施策や、いろんな支出、一つひとつ決裁という形で、最終的に印鑑を押していきます。そういう意味では、やりがいのある仕事であるかわり、大きな責任を問われます。私が就任したときは、助役も収入役もおりませんでしたから、わからない書類を見て印鑑を押さなければいけないということで、えらく緊張しました。十二時までに帰れたことはありません。わからないことは、職員を呼んで、しつこくしつこく尋ねて、決裁の印鑑を押します。
六年前に就任してから、出張とか、そういうことがなければ、私は、朝の七時半には役場に入っています。役場玄関の左手に町長室があるものですから、この季節、窓を開けていると住民の方であれ、職員であれ、町長がいるかいないか、何をして、誰と話をしているか、すべてわかります。ガラス張りの知事室が長野県で有名になりましたが、黒田庄は初めから外から町長室が見えます。気軽に住民の方々があいさつしてくれたり、職員が出勤をしてくる、そういう人を出迎えるのを、楽しみにしています。
第二十三回の党大会にむけて綱領の改定案が出されました。不破議長の報告によりますと、改定案をつくるにあたって、多くの人々にわかりやすい綱領となるように表現をあらためるということに主眼をおかれたとのことです。地方自治を預かる者として、まったく同感であります。住民の皆さんが何を考えているのか、どういう要望をお持ちか、そのことに耳を傾ける、そして、町長がいまやろうとしていることが住民の方々に理解されてこそ、住民が主人公の政治ができるのではないかと思っています。
そのため、毎年、八月から九月にかけて、すべての集落に町三役で出向いて行って、住民の皆さんから、ご要望を聞く住民懇談会をもってきました。たくさんの要望が出て、それを次の年に予算化をしていく、また、私がいま考えていることを住民の皆さんにお話しをする、そんな機会としてもたさせていただいています。そして、月一回第三土曜日の午後、町長室の開放をしています。たくさんの町民の方々が、毎回楽しみに来てくださっています。高齢者の方がとくに、「いっぺん町長室に入りたかったんや」と喜んでいただいています。歴代の村長さんから私まで、写真が飾ってありますので、自分の小学校の入学式のときはこの人が来たんだなと、そんなことを楽しくお茶を飲みながら話をして下さっています。そんななかでこそ、自分の町だという誇りがもてる、というふうに思っています。
黒田庄町が、自慢できる施策のひとつに、福祉送迎車という制度があります。私は選挙で、福祉バスを走らせると公約しました。けれども、初めて女性で課長になった職員が、老人会の方や障害者の方とひざを交えて話をするなかで、「町長、それはあかん。バスだったら停留所まで歩いていって、時間を気にしながら待つということをする。町には、マイクロバスではなくて、ワゴン車、リフト車がある。ワゴン車だったら、狭い道を通って、自宅から目的地まで送り迎えすることができるから、ワゴン車を走らせよう。そして、元気な高齢者がたくさんいらっしゃるから、そういう方に運転をお願いしよう」、というふうに制度化してくれました。いま、町内だったら、お年寄りの方、障害を持っている方、前の日に予約をしていただければ、自分の家から役場や買い物、病院などまで送り迎えができるようになりました。町外へは、送りは送迎車を使い、帰りはタクシーチケットを使ってタクシーで帰ってくる、こんなふうな形で、八千人の町ですが、昨年は、のべ四千人を超える方にご利用いただいています。(拍手)
また、今年二月に、若者定住をめざして、六階建て三十六戸の町営住宅を建設しました。若い人たちに相談をかけたら、マンション風の町営住宅を建ててほしい、こういうことが総意でありました。黒田庄では役場が三階建てで一番高かったわけですから、六階建てというのは遠くから目だって、今、名所になっています。(拍手)
そして、ゲートボールで世界一になるとか、世界陸上で黒田庄出身の子が走るとか、スポーツが大変熱心な町ですので、住民の方々から、利用しやすいスポーツ公園をつくろうという提案をいただき、今年度から、整備にとりかかることができました。住民の皆さんが自分の町だという実感がもてる、そういう中でこそ町は良くなるんだなと、あらためて思いました。
私は、一九七四年十一月二十二日、ちょうど私の二十歳の誕生日に日本共産党に入党しました。その日は兵庫県で八鹿高校事件が起きた日です。私自身、部落問題を解決したい、そういうふうな思いを強くもっていました。警察権力と一緒になって高校の先生を殴る蹴る、そんなひどい暴力行為にたいして、日本共産党の方々が体をはって守られる、正義を貫く、そういうふうな姿に接して、この党なら信頼できる、自分の生きかたをまっとうできる、こういう思いで入党させていただきました。
以来、二十八年間、信頼できる党員の仲間の方々や住民の方々に支えられて今の自分があると考えています。町長職というと、さまざまな妨害があるわけですが、一方で、甘い誘いもあるわけです。日本共産党員としての生きかたが、自分を支えている、そんな思いをしています。まだまだ未熟な自分でありますが、日本共産党の党員である、このことを誇りに思いながら、また、多くの住民の皆さんの期待にこたえるべく、精一杯、町長職をまっとうしていきたいと考えています。(拍手)
こうした晴れの場で発言させていただきましたことに感謝を申し上げ、私のごあいさつを終わらさせていただきます。ありがとうございました。(拍手)
(2003年7月22日(火)「しんぶん赤旗」)