八日の日本共産党創立八十周年記念講演会で、不破哲三議長がおこなった記念講演「二つの世紀と日本共産党」の大要は、次の通りです。
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みなさん、こんばんは(「こんばんは」の声)。日本共産党の創立八十周年のこの記念の集まりに、たくさんのみなさんがお集まりいただきまして、本当にありがとうございます。(拍手)
私はまず、この集まりを、大島さんと米倉さんのごあいさつ、各界九人の方のメッセージなど心のこもった祝福の言葉をいただきながら開けたことを、みなさんとともに喜びたいと思います。(拍手)
私たちは以前から、日本共産党の創立記念日について、この日はわが党の過去、現在、未来をともに考える日だといってきました。今回の記念日にはさらに特別な意義があります。八十周年という節目の年であると同時に、激動の世紀であった二十世紀の歴史をふまえて、新たな激動の世紀・二十一世紀に足をふみだし、胸躍るその展望が実感されるなかで迎えた記念日であるということであります。(拍手)
それだけに、二十世紀の日本と世界で日本共産党はどんな役割を果たしてきたのか、また、二十一世紀にどんな目標と展望を持って活動しようとしているのか。それらの問題に重点を置いて考えてみたいと思います。
まず、二十世紀です。この世紀はどんな時代だったでしょうか。二度の世界大戦とファシズム・軍国主義、それが日本にも世界にも大きな被害を与えました。しかし、同時にこの世紀は、その苦難を乗り越えて、人類の歴史に主権在民の民主主義と人間の権利、世界諸民族の主権・独立、そして平和への熱望を刻み込んだ世紀でありました。
この二十世紀に私たちの日本がたどった道筋はたいへん特殊なものでした。
二十世紀前半の日本は、世界でも最も際立った専制政治の国でした。“天皇絶対”、これが子どものときからたたき込まれました。男は二十歳になりますと、必ず徴兵で軍隊生活を経験したものですが、そこでも日本の社会で最も厳しく天皇絶対がたたき込まれました。
私たちも中学生時代に暗記させられましたが、軍人勅諭というのがある。そのなかにはいまでも有名な言葉に「上官の命令は朕(ちん)が命令と心得よ」という一句がありました。朕とは天皇が自分を呼ぶ言葉です。つまり軍隊の中で、上のクラスのものがいうことはどんな無法なことであっても、天皇の命令、絶対命令だから従うべきだ。つまり天皇制の体系が、その末端の隅々まで、そういう形で浸透させられたわけであります。
社会にでますと、主権在民の民主主義の主張や運動は極悪の犯罪とされました。後にはそういう主張や運動をする者を取り締まるために治安維持法という特別な法律がつくられ、特高警察という特別な残虐な警察部隊がつくられ、さらには死刑の罪までそれに加えられました。こういう専制政治が、国民をあの無謀で破滅的な侵略戦争に引き込んだのであります。
とくにこの戦争がアジアの諸国民に侵略の矛先を向け二千万を超える犠牲者を出したということは、日本の国民が、アジアに生きるものとして、絶対に忘れてはならない歴史の事実であります。
そのただなかにいまから八十年前、一九二二年七月十五日に日本共産党が誕生しました。日本共産党は誕生のそのときから、党の旗印として次のような要求をかかげました。
―天皇絶対の専制政治から、国民が選ぶ議会を中心にした民主的な政治体制に転換すること。
―アジア諸国にたいする侵略や干渉の戦争をやめ、朝鮮、台湾などの植民地を解放すること。
―すべての働く人びとの生活を守り、政治的、社会的な権利を確立すること。十八歳以上のすべての男女に選挙権を。
こういう旗印をかかげて活動したために、日本共産党は、天皇制政府から、最も憎むべき犯罪者として激しい迫害をくわえられ、多くの犠牲者を出しました。
しかし、この旗は手から手へと引き継がれ、不屈に守り抜かれました。犠牲者の記録には、市川正一、国領五一郎、野呂栄太郎、岩田義道、上田茂樹、川合義虎、小林多喜二などの指導的な幹部とともに、男性、女性の多くの若い人たちがその名を連ねています。
ここに、その中の一人の女性の死についてうたった短歌があります。
こころざしつつ たふれし少女よ 新しき光の中に置きて思はむ
これはアララギ派の歌人である土屋文明さんが、自分の教え子だった伊藤千代子さんの二十四歳の若さでの死を悼んで、あの時代に雑誌『アララギ』に発表した歌であります。
戦前の日本共産党のたたかいの歴史には、こういういまも胸を打つ苦闘と献身の物語が無数にあります。一九三三年、二十五歳の若い党中央委員として逮捕され、戦後一九四五年十月まで十二年にわたって続いた宮本顕治さんの獄中闘争、法廷闘争は、戦時下のそういう不屈の闘争の典型的な記録の一つであります。
あの戦前の時代には、日本共産党を除くすべての政党が戦争推進の陣営に加わりました。しかし、歴史は命がけでその旗を守った日本共産党こそが、二十世紀の世界と日本の歴史の本流に立つものであったことを立証したのであります。(拍手)
だれが歴史の本流かというこの問題は、戦後、民主主義への政治体制への転換の過程にも強く刻み込まれました。
いまでは、国民が主権者だという主権在民の立場は日本の政治の大原則になっています。しかし、あの戦後の時期に、天皇絶対の旧憲法を廃棄し民主主義の原則に立つ憲法を制定することが問題になったとき、政党の中で、主権在民の原則を堂々と主張し憲法に書き込ませたのは、日本共産党だけでした。(拍手)
私は、日本共産党が、暗黒の時代に民主主義と平和の旗をかかげ、戦後の政治体制の確立の際にも民主主義の先駆者の役割を果たしたことを、わが党の歴史のなによりの誇りとするものであります。(拍手)
強調しなければならないのは、これはたんなる過去の歴史の問題ではないということです。私はこの数年来、中国や東南アジアの諸国を訪問したり、韓国の知識人と交流するなど、アジア諸国の人びととの対話や交流を重ねてきました。その中で、この問題の今日的な重さを本当に痛感してきたものであります。
いくつかの事例を申しましょう。
四年前、日本共産党にたいする毛沢東時代の無法な干渉の問題を解決して後、私は三十二年ぶりに、首脳会談のために中国を訪問しました。
その時、中国への全面侵略戦争(一九三七年七月)の発火点となった盧溝橋近くの抗日戦争記念館で、展示の中に、日本の中国侵略に反対する日本共産党と中国共産党の共同宣言を発見しました。日付は一九三一年九月二十日であります。「満州事変」の名前で日本が中国の東北地方侵略の戦争を開始したのは、この年の九月十八日でしたから、その二日後に二つの党の戦争反対の共同宣言が出されたわけであります。侵略戦争に断固としてたたかった日本共産党の活動が、今日もアジア諸国との連帯の絆(きずな)となっていることを鮮やかに描き出したものではないでしょうか。(拍手)
アジアには、その国自体の戦後の政治の歴史から、共産党が認められていない、だから一般的に共産主義といえば警戒されて当たり前、こういう国が数多くあります。しかし、その国を訪ねても、日本にアジア侵略の戦争や植民地化に反対した党があり、その党が日本共産党であると知ると、それが出発点になって深い友好と信頼の関係が生まれる。こういうことも何度となく経験したことであります。
反対に、日本の政権勢力の側で過去をよしとする無責任な言動がおこなわれた場合には、そのことが日本とアジア諸国との関係を根底からゆるがす大問題に発展する。こういうことを最近でも、くりかえし経験しています。
日本は、明治維新以後の近代・現代の歴史の中で、アジアの隣国を植民地にしたり、アジア諸国にたいする領土拡張の戦争をおこなったりしたアジアで唯一の国であります。私は、日本の政治家はもちろん、日本の国民一人ひとりにも、目をそむけることなく、この歴史を正面から、しっかりととらえる義務と責任があると思います(拍手)。そのことを真剣に認識し、きっぱりとした反省を明確にしてこそ、日本とアジア諸国民の間に、本当の意味での友好をうちたてることができます。
靖国参拝問題や歴史教科書問題にあらわれた、一部政治勢力の言動は、世界史にそむく逆流であり、二十一世紀における日本とアジア諸国民との友好の基盤をおびやかすものであることを、私たちはきびしく指摘する必要があります。(拍手)
日本が二十世紀に経験した、もう一つの重大な転換は、大戦後、アメリカの事実上の従属国という立場に、転落したことであります。
さきほど私は、民族の独立・主権、これが二十世紀の歴史の流れだといいました。日本が従属国に転落したことは、世界のすべての民族の独立を大きな流れとした、二十世紀の世界史に逆行するものだったといわなければなりません。
日本が戦争に負けたとき、ポツダム宣言を受諾しました。これは連合国の共同の要求でした。そしてその実行を保障するために、連合国が日本を占領下におきました。これは、国際的な正当性を持っていました。しかし、そのときに、世界は、この占領が二十一世紀まで続こうとは、だれも予想をしていませんでした。
ポツダム宣言には、この目的が達成され、日本の国民の自由に表明する意思にしたがって、平和的傾向を持つ、責任ある政府が樹立された場合には、「連合国の占領軍はただちに日本国より撤収せらるべし」(第十二項)、こう明記されてありました。
ところが、その占領を担当した主力がアメリカ軍だったために、アメリカ政府は、このポツダム宣言にもとづく日本占領を、占領の途中から、事実上、アメリカの単独占領にきりかえ、自分が支配する軍事戦略の体制に日本を半永久的に組み込もうという、恒久基地化のたくらみをめぐらし始めました。
そこから日本の従属国化が始まったのであります。
そして、この従属化の計画を、「条約」という形で具体化したのが、一九五一年のサンフランシスコ講和会議で結ばれた、平和条約と日米安保条約でした。
だいたい、日本が外国にたいする従属国家になるというのは、日本の歴史のなかでかつてなかった事態であります。日本が文書による歴史を持つようになってから約千三百年たっていますが、外国の従属国になるなどは、この間に一度もなかったことです。
しかも世界はどういう時代かといえば、民族の自決権、主権・独立が支配的な流れとなり、かつては植民地、従属国とよばれてきた諸民族のほとんどが政治的独立をかちとり、国際政治の重要な勢力となってきた時代であります。
そのときに、一億二千万の人口と、世界で有数の経済力をもつ日本が、半世紀をこえる長きにわたって、事実上の従属国の状態に甘んじているということは、私は、世界史の中でもきわめて異常なことだといいたいのであります。(拍手)
この従属国化を支える柱が、すでに半世紀をこえて続いている日米安保条約であります。
はっきりいって、安保条約とは、占領下の基地体制の骨組みを、条約の形で日本に押しつけた条約です。だから、最初の日米安保条約を一九五一年に調印したときには、自民党の前身である自由党と民主党以外には、国会でこれに賛成した党はありませんでした。
一九五五年にこの二つの党が合同して、自由民主党を結党しました。この自由民主党でさえ、そのとき発表した「政綱」では、「独立体制の整備」という項目の最後に、「駐留外国軍隊の撤退に備える」、つまり、米軍撤退という目標を書かざるを得なかったのです。
一九六〇年、安保改定と称して、いまの安保条約が押しつけられました。共産党、社会党は反対の共闘を組みましたが、それに加わらなかった民社党もこの条約に賛成せず、国会では自民党だけの単独採決で強行されたものでした。
一九六四年に結党した公明党も、最初は「段階的解消論」で、“安保条約のない日本”を公然と目標にかかげていました。
ですから、私が国会に最初に出た一九七〇年代のはじめには、現行の安保条約に賛成だという政党は、自民党以外に一つもなかったのです。
公明党に至っては、選挙に負けたら、人気取りのためにあわてて「安保条約即時廃棄」という看板までかかげました。
ところがその後の歴史の中で、まず公明党と民社党が安保賛成に立場をきりかえ、社会党がそのあとをついで右寄りになり、村山内閣のときに安保賛成論に落ちこむ。こう変わってきました。
しかしみなさん。旧安保条約を採択した一九五一年の国会でも、現行安保条約を採択した一九六〇年の国会でも、賛成票を投じたのは自民党とその前身の党だけだったのであります。したがって、それ以外の党の安保賛成論は、五〇年代、六〇年代あるいは七〇年代はじめにこれらの党がとっていた、それまでの初心を捨てたものであります。
現在は、与党三党だけでなく、野党勢力の間にも、安保条約廃棄をめざす政党は日本共産党以外にはありません。率直に言って、私は、この事実は、国の主権・独立という大問題での、日本の政界の最大の弱点をなしていると、言わざるを得ないのであります。(拍手)
安保擁護派は、日米関係のこうした現状について、“同盟を結んでいるのだから当たり前”といいますが、日米安保条約のように従属関係をむきだしにした同盟は、今日の世界には存在していません。
端的な事実を二つだけあげましょう。
まず、米軍基地の現状であります。いま沖縄では、県民がアメリカの軍事基地のはざまに生活し、しかもその基地をどんな戦争に利用しようが、アメリカの自由勝手だということになっています。いったい百三十万人もの人口をもつ地方を、こんな状態においていて平気だという国が、日本のほかに世界のどこにあるでしょうか。
また、首都圏には三千三百万の人口が集中していますが、そこにアメリカの巨大な空軍基地・横田や、空母機動部隊の母港・横須賀が置かれ、広範な住民が、日常、その被害にさらされています。自分の国の心臓部にこんな現状があることを許している国が、日本のほかに世界のどこにあるでしょうか。(拍手)
外交をみてください。戦後、アメリカがとってきた行動の中で、平和を破壊し、民主的道理にそむくものとして国際的に批判をうけてきた行動は、無数にあります。六〇年代・七〇年代のベトナム侵略戦争、八〇年代の中米諸国への軍事侵略、最近では「悪の枢軸」論にもとづく先制攻撃戦略などなどです。
そういうなかで、日本は、国際政治の重要問題で、アメリカに「ノー」と言ったことは一度もありません。その態度は、小泉内閣のもとで、いっそう極端なものになっています。外交的従属国だといわれても仕方がない状態ではありませんか。(拍手)
「同盟」の形をとってはいるが、ここにあるのは、まぎれもない帝国主義的な支配と従属の関係であります。
この状態を打破して、主権国家としての日本の地位を全面的に回復するということは、私は、二十一世紀に日本がなしとげるべき最大の国民的課題の一つだと思います。(拍手)
日本共産党は、アメリカの占領支配の時代、占領政策を批判しただけですぐ米軍に逮捕されて強制労働所にたたきこまれた時代から、この従属国化政策に反対し、「ポツダム宣言の厳正実施」とともに、「日本の完全な独立」という旗をかかげて奮闘した政党であります(一九四七年、第六回党大会の決定)。
だからこそ、私たちはいま、日米軍事同盟という、この従属の枠組みから抜け出し、非同盟・中立、独立の道にふみだすことを日本の進路の中心問題としていっかんして追求するのであります。
ここにこそ、日本の未来があります。平和と主権を願う国民の声が、軍事同盟反対の立場で大きく合流し、安保条約の廃棄を、この条約の第一〇条にもとづいて堂々と通告する日が二十一世紀の早い時期に必ずくる、ということを、私は確信をもって展望するものであります。(拍手)
二十世紀、とくに第二次世界大戦後に、世界が直面したもう一つの大きな問題に、ソ連覇権主義の問題がありました。
ソ連は、世界で最初の「社会主義国」だということ、また第二次世界大戦で、ファシズムと軍国主義を打ち破った世界の民主的な陣営の柱のひとつだったことを看板にしていました。しかし、その実態は、スターリンらの支配のもとで、とっくに社会主義にむかう軌道からはずれていました。ソ連の現実は、他国の併合や支配を追求する覇権主義の体制と、国民を抑圧する専制主義の体制に変質をとげていたのです。
しかし、そういう本体が「社会主義」という看板のもとに隠されていたために、私たち日本共産党も、この勢力の実態を正確に認識し、その横暴とたたかう立場を確立するまでには、一定の時間と経験が必要だったのであります。
わが党が、このソ連覇権主義とはじめて直接にぶつかったのは、いわゆる「五〇年問題」のときでした。これは実は、スターリンが、革命直後の中国共産党と組んで、中国方式の武装闘争を日本共産党に押しつけようとして企てた干渉作戦でした。その干渉の中で党は分裂し、分裂した一方の側――徳田・野坂派と呼んでいますが、これがこの干渉作戦に完全に組みこまれ、スターリンの直接指導のもと北京に拠点をつくって、軍事方針と呼ばれる冒険主義の方針を日本の国内に持ちこみました。
ことの真相はソ連崩壊後、明るみに出てきたソ連共産党の機密文書によって明らかになりましたが、このとき、日本側で干渉作戦の中心の担い手になった野坂参三という人物は、戦争中、中国の延安で活動していたものを、敗戦直後にスターリンがひそかにモスクワに呼び寄せ、ソ連の秘密の代弁者として活動せよ、こういう密命を与えて日本に送りこんだものでした。その密命がいわば猛威を振るったのが、あの「五〇年問題」でした。しかしこの干渉作戦は完全に失敗しました。
党の分裂に反対し、武装闘争路線の持ちこみに反対した党の幹部や党組織は、「五〇年問題」を解決するたたかいのなかで大きな役割を果たしました。
わが党は、さまざまな粘り強い努力のなかで統一を回復し、一九五八年の第七回党大会と一九六一年の第八回党大会で、この痛苦の経験からの教訓を明確にし、党の新しい方針を決定したのであります。
この、教訓と方針の最も重要な内容は二つありました。
一つは、自主独立の立場であります。“ソ連・中国に誤りなし”、こういう思いこみや先入観と手を切って、日本の問題はどんな場合でも自分の頭で解決し、いかなる外国の党の介入や干渉も許さない、こういう自主独立の立場を確立したことが、大きな教訓でした。
もう一つは、戦後ずっと懸案になってきた党の綱領を決定したことであります。この綱領にも、干渉によって持ちこまれた武装闘争路線の誤りを明確にしたことをはじめ、「五〇年問題」の経験は全面的に生かされました。
こういう意味で、この二つの大会は、戦後のわが党の歴史のなかで画期的な転換点となったのであります。とくに、自主独立の立場を確立したことは、その後ソ連が、あるいはまた中国の毛沢東派が、世界各国の共産党をその影響下におこうという企てを露骨にするなかで、世界政治のなかで抜きんでた威力を発揮するようになったのです。(拍手)
当時は、スターリンの死後、国際的にも、各国の共産党は互いに「対等・平等」だとか、「自主独立」が当然の原則だとか、そういう言葉が、表向きの建前としては言われるようになっていました。しかし、それを建前にとどめず、本気で実行しようとした共産党は、世界であまり多くはありませんでした。
ソ連共産党は、日本共産党が自主独立の立場を内外に明確にしたことを見て、これは自分たちの活動の障害になる、なんとしてでも、ソ連追従の党につくりかえよう、こういうことを考えて、六〇年代に再び日本共産党への干渉を企ててきました。それが六四年に公然と始まった新しい大干渉作戦でした(その詳細は、不破『日本共産党にたいする干渉と内通の記録――ソ連共産党秘密文書から』上・下、一九九三年)。
わが党は、正面からこれとたたかって、全面的に打ち破りました。わが党の反撃に追い詰められて、ソ連自身も、十五年たった後でのことでしたが、自分の誤りを公式に認めざるを得なくなりました。
ソ連の、この度重なる干渉作戦は、わが党が、社会主義の精神を捨て去ったソ連の実態の認識にいたる決定的な契機となったのであります。
私たちは、日本にたいする干渉に反撃しただけでなく、各国の主権と国際的な平和の秩序を破壊するソ連の態度にたいしては、たとえば、一九六八年のチェコスロバキア侵略の場合でも、あるいは一九七九年のアフガニスタン侵略の場合でも、社会主義の立場とは絶対に両立できないものとして、徹底的にこれを批判しました。
一九七九年十二月のアフガニスタン侵略は、実は、さきほど申しましたように、十五年たってソ連が干渉の誤りを認めた、その会談の後で起こったことでした。ですから、わが党が直後の一九八〇年二月に開いた党大会にソ連代表も出席したわけですけれども、私たちはその面前で、ソ連の行動が、いかに許されざる不当な侵略行為であるかということを全面的に糾弾したものであります。
当時の世界で、私たちのような正面からの告発をおこなった共産党は、ほかにはありませんでした。イタリアやフランスなどヨーロッパの諸党は、そういう時にソ連の介入には賛成できないという声明や談話を一応出すこともありました。しかし、そこでは、“ソ連との連帯というわれわれの立場に変わりはない”という断り書きを必ずつけるのが普通のやり方でした。ですから、賛成できないといっても、これは、アリバイ的な色彩の極めてあらわなものでした。
その後親しくなったヨーロッパの諸党の幹部たちに会いますと、当時の日本共産党のソ連批判は、われわれの批判とはけた違いのものであったとか、われわれの立場をどんなに延長・拡大しても届きようのないものだったとか、ため息交じりに評価してくれたものであります。
一九九一年に、このソ連共産党が崩壊を遂げた時、わが党はこれを「歴史的な巨悪の崩壊」として歓迎する声明を発表しました。この声明は、その時だけの印象によるものではなく、六〇年代からの、こういう闘争に裏付けられたわれわれの実感を映したものだったのであります。
ソ連覇権主義にたいする、いま見たような態度の違いは、世界の共産党、なかでも発達した資本主義国における共産党の最近の動向にまったく対照的結果を生み出しています。
九〇年代以後、世界の共産党の運動には、後退の現象が広く生まれているといわれ、私たち日本共産党がその中で元気で活動していると、なにか日本では不思議なことが起こっているかのようにいわれることもあります。
しかし、そこにはなにも不思議なことはないのであります。日本共産党が、戦後早い時期に自主独立の立場を真剣に確立し、相手がいかなる党や政権であろうと、日本の運動に干渉したり、他国の主権を侵犯したりするものにたいしては、断固として対決する立場をとってきたこと、とくにソ連覇権主義にたいして、そのいかなるあらわれも許さない態度を貫いてきたこと、ここに、私たちがこの時期に元気に活動してきたなによりの根源があります。(拍手)
ヨーロッパではどうだったでしょうか。さきほど、チェコスロバキアやアフガニスタンの問題の時にも、ヨーロッパの諸党の間では、正面からの告発はなかったということを申しました。ソ連共産党が崩壊した後、そこからでてきた秘密文書の中には、これらの党が長い間、ソ連から秘密資金の巨額の援助を受けてきたこと、それが、ソ連の覇権主義と正面からたたかえない物質的な背景となってきたことまでが、明らかに記録されていました。
しかし、フランスの党も、イタリアの党も、過去と真剣に立ち向かいこれを誤りとしてただす誠実な態度はとりませんでした。そのことが、それぞれの国の政局の中で、政権がらみの動きに不明りょうさがあったこととも重なって、九〇年代以後の政治的後退の大きな原因の一つとなったことは、疑いないと思います。
最近のことを紹介しますと、フランスでは、この四月と六月に大統領選挙と総選挙がありました。フランス共産党は、戦後長い間、ずっと20%台の得票を維持してきた政党ですが、四月の大統領選挙では、得票率3・4%、十六人の候補のうち十一番目。六月の総選挙では、得票率4・9%。フランスのマスコミの間でもまさに党の存在を問われるという、大後退を喫しました。
イタリアは、共産党が、ソ連問題に正面から立ち向かうのではなしに、九〇年代のはじめ、共産党の名前も科学的社会主義の理論も捨てることで、つまり、社会民主主義政党の一つに変わることで、ソ連とのいわば悪影響を断ち切るというやり方をとりました。そのとき、左翼民主党と名前を変えたのです。
私たちは、そのころ、ずいぶんいろんな方がたから、イタリアがやったように名前を変えたらどうだということを、さんざん言われたものであります。しかし、イタリアで起こった実態は、“生き残り”作戦の成功どころではなかったのです。左翼民主党に名前を変えておこなった最初の選挙(一九九二年)では、共産党の名前でおこなった最後の選挙(一九八七年)にくらべて、イタリアの党は四百万票も得票を失い、戦後最低の得票率にまで低落しました。その後、若干盛り返して、中道左派政権に入閣しましたが、昨年の総選挙でまた敗北し、得票率を戦後最低のさらに新しい水準に落としました。
こういう事実をみて、いま歴史を振り返りながら私が思い出すのは、一九六〇年、世界八十一カ国の共産党・労働者党がモスクワに集まって開いた国際会議の当時のことです。この会議は戦後の最大の会議で、予備会議から本会議まで二カ月間も続いた会議でした。
日本共産党が自主独立の態度を国際舞台で鮮明に表して、世界の共産党の注目を浴びたのはこの会議ででした。とくにソ連共産党の役割に特別な意義づけ、いわば世界を指導する党という意義づけを与えようという提案があったのにたいして正面から異議を唱えたのは、日本共産党の代表団、団長は宮本顕治さんでしたが、日本共産党の代表団だけでした。
しかし、その当時の日本共産党は統一を回復したばかりで、党勢も大きなものではなかったのです。ちょうどこの会議と並行する時期に安保闘争直後の総選挙(一九六〇年十一月)がありました。そこでの得票率は2・9%でした。イタリア、フランスの党は当時選挙をやれば得票率20%以上が当たり前のこととなっていましたから、“こんな小さな党がどうしてこんな大きなことをいうのか”と思ったかもしれません。
しかし、四十年たったいま、この状況はすっかり変わりました。資本主義国で最大の共産党だったイタリアの共産党は社会民主主義政党への変身を試みて共産党の運動から去りました。イタリアにつぐ力を持っていたフランス共産党は得票率3%から4%という少数政党に後退しました。これにたいして日本共産党は一進一退はあるが、問題の九〇年代にも選挙で一連の躍進を記録しました。
現在、わが党は四十万人を超える党員、二百万近い読者、四十の国会議席と約四千四百の地方議員、こういう党勢を持ち、現在発達した資本主義国で最大の党勢力を持つ党に発展しています。(拍手)
私はここに、二十世紀におけるわが党の活動の貴重な結実、党の方針・政策の正確さとともに、全党の日常不断の努力が生み出したなによりの成果があることを、強調したいのであります。(拍手)
先日サミットが開かれました。ロシアの全面加盟が決まりましたが、発達した資本主義国での参加国はやはり七カ国であります。そのなかで日本はいま、最大の党勢を持つ共産党が活動する国となっています。ここに二十一世紀を迎えた日本の政治状況のたいへん重大な特徴の一つがあることをここで重ねて強調するものであります。(拍手)
ソ連問題の最後ですが、私たちは、領土問題など日本とソ連の国家関係の問題でも、覇権主義・大国主義の無法を許さないという立場から、解明してきました。
領土問題――千島、歯舞、色丹問題の本質は、それがソ連の不法な領土拡張主義の表れだというところにあります。
第二次世界大戦で連合国は、他国から暴力で取った領土は返還させるが、それ以外では、勝ったからといって自分たちの領土を増やそうという領土拡張主義は取らないということ――「領土不拡大」の原則を、戦後処理の大原則として世界に公約していました。この原則によれば、北海道の一部である歯舞、色丹はもちろん、明治の初期に日本とロシアの間での平和的な条約交渉(一八七五年の樺太・千島交換条約)で日本の領土として決まった千島列島をソ連が自分のものとするのは、連合国が自ら宣言した民主主義の大原則を踏み破るものだったのであります。
わが党はこの見地から、一九六九年に、ソ連がスターリン以来のその不当な領土拡張主義を改め、領土不拡大の民主的原則にもとづいて、日本の歴史的な領土である千島、歯舞、色丹を日本に返還すべきだ、という方針を明らかにし、党としてもこの立場での交渉をソ連とくりかえしてきました。
日本が領土問題で世界に訴えるべき国際的な大義名分は、スターリンの領土拡張主義のこの誤りをただして、領土不拡大の原則に引き戻すことにあります。ところが自民党政府は私たちのこの要求を拒否しました。しかし私のみるところ、それに代わる議論としては、国会でも、国際的にはなりたたない条約解釈論を持ち出すだけで、国際政治の舞台で通用できる国際法上の立場は打ち出せないでいます。
そのために、日本の要求はここに根拠がある、大義があるということを世界の世論にも、ソ連、ロシアの世論にも堂々と訴えることができないまま、“指導者同士が仲良くすれば道が開ける”といって肩を抱きあったり、“資金や施設の援助をすれば好意的な反応が返ってくるんじゃないか”といって、「北方四島支援」なるものを一生懸命やったり、いわば邪道にばかり熱中してきたというのが、自民党外交の実態ではなかったでしょうか。ここに、鈴木宗男氏のような利権政治を横行させた根本があるのであります。(拍手)
私たちは、領土問題の道理ある解決のためには、この根本問題にまで踏み込んだ日本外交の抜本的な総点検が、急務となっているということを、つよく指摘したいのであります。(つづく)
(2002年7月11日(木)「しんぶん赤旗」に掲載)