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日本共産党創立78周年記念講演会

日本共産党の歴史と綱領を語る

幹部会委員長 不破哲三

2000年7月20日 東京国際フォーラム・ホールA

【写真】不破委員長

 

-  日本共産党の創立七十八周年のこの記念の集会にたくさんの方がお集まりいただきまして、本当にありがとうございます(拍手)。また、全国で衛星通信をご覧のみなさんにも、ごあいさつを申し上げます。

総選挙と六中総

 この記念日は、日本共産党の過去・現在・未来を考える日だと思っております。

 現在でいえば、さきの総選挙がまず問題でありますが、残念ながら後退の結果になりました。しかし、あの謀略的な反共攻撃の嵐(あらし)のなかで、私たちが得た得票と議席は、たいへん貴重なものだと考えています。後退したとはいえ、比例区の得票が六百七十二万票、得票率一一・二%、小選挙区の得票が七百三十五万票、得票率一二・一%。これは三十九議席あるいは四十一議席を得た七〇年代の躍進の時期の峰を越えているものであります(拍手)。七二年の総選挙では、私どもは得票率一〇・八%で三十九議席を得ました。七九年の総選挙では、得票率一〇・七%で四十一議席を得ました。その峰を越えていることは明白であります。

 今度の選挙の中で、わが党に投票していただいた多くの皆さまに感謝を申し上げるとともに、ご奮闘、ご協力いただいた全国の党員、後援会員、支持者のみなさんにも心から感謝を申し上げるものであります。(拍手

 私どもは、昨日(七月十九日)、第六回中央委員会総会を開きまして、第二十二回党大会を、この秋、十一月二十日から開催することを決定しました。この大会では、総選挙の総括をふまえて日本共産党がいかに前進するかの方針が中心議題になります。

 選挙の総括そのものは、六中総では、党中央として大事だと思ういくつかの角度を提起する中間的なものにとどめました。これは全党の自由闊達(かったつ)な討論に期待してのことであります。すでに党の内外から、現在までに千通に近い意見が寄せられています。電話、ファクス、手紙などであります。この機会に、意見を寄せて下さったみなさんにお礼を申し上げるとともに、これからも多くの意見に耳を傾け、全国的な討論もつくして、選挙戦の実情を的確に反映した建設的な総括をすすめるつもりであります。(拍手

 十一月までの約四カ月間、国民の要求の先頭にたって奮闘しながら、選挙総括をふくめての討論を大いにすすめ、それを第二十二回党大会に結実させ、さらにそれを来年の都議選、参院選での前進の力にして、二十一世紀にむけての躍進の新たな出発点を築きたいと思うものであります。

 さて、きょうの講演の主題でありますが、さきの選挙戦で集中的な反共攻撃の嵐をあびたということは、さきほど申しました。この攻撃は、いまの日本の改革についての私たちの政策、提案にたいしてではなく、党の歴史と綱領に矛先をむけての攻撃が多々ありました。すべてが事実と道理をゆがめての攻撃で、全党が奮起して果敢に反撃いたしました。若いみなさんも大いに奮闘されましたが、なかには歴史がわからないとの声もありました。

 きょうはそういうことも考えながら、日本共産党の過去・現在・未来を考えるこの記念の日に、あらためて日本共産党の歴史について、また党の綱領についてお話ししたいと思うものであります。


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党の戦前の歴史から――宮本名誉議長の1933年の事件とは

戦前の日本社会――「天皇を中心とした神の国」の実態は生やさしいものではなかった

 まず日本共産党の戦前の歴史でありますが、反共派はとくに現在名誉議長である宮本顕治さんの戦前の事件にかかわる攻撃に集中しました。

 この問題をよくわかっていただくためには、戦前の日本がどんな社会であったかということを見ていただく必要があります。

 選挙の前に森首相が「日本は天皇を中心とする神の国」だという発言をして、戦前の日本と今の日本との区別もわからないのかと問題になりました。

 「天皇を中心とする神の国」というのは、私どもが戦前の学校で教え込まれた当時の日本の姿そのものでしたが、その実態は、こういう言葉で簡単に表せるような生やさしいものではありませんでした。

 当時の明治憲法には、第一条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、第三条には「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」、こう規定してありました。天皇は、その言葉がぴったりあてはまるような無条件絶対の支配者であって、それを批判したり反対したりすることは絶対に許されない極悪の犯罪とされていたのが、戦前の日本でした。天皇の名でやられることを批判しようものなら、すべてが「国体を変革する」罪にあたる。中国などアジア諸国への侵略戦争も、日本は「神の国」なのだから、そのもとにアジア諸国を統一するために天皇が起こした「聖戦」だとされました。

 今ではだれでも無法と認めるこの論理が、国家の強権をもって社会全体に強引に押しつけられたのが、戦前の社会だったのであります。

 こういうなかで、日本共産党は一九二二年に創立されました。この国を「天皇を中心とする神の国」から「国民が主権をもつ民主政治の国」にしよう、国民の権利、とくに生活権を保障しよう、侵略戦争と植民地支配をやめさせよう――これが、戦前わが党の先輩たちが最大の任務としてかかげた目標でありました。しかし、この主張――いまでいえば当たり前の民主主義と平和の主張のために、日本共産党は生まれたその時から、その存在自体が弾圧の対象となり、非合法の政党とされたのであります。同じころ、世界各国で共産党は生まれましたが、最初から非合法にされたのは、今沖縄に集まりつつあるサミット諸国のなかでは日本だけのことでした。

 そして、日本共産党が生まれてすぐ、当時の政府は治安維持法というものをつくりました(一九二五年、二八年に死刑法に改悪)。これは、国体、つまり天皇絶対という反民主的な政治の体制を変えようとすることを、「国体の変革」の罪として、最高は死刑にするということを決めた、本当の民主主義弾圧法でした。その法律にもとづいて日本共産党への弾圧がおこなわれましたが、この迫害は一九三一年に中国への侵略が始まった時期からとりわけひどいものとなりました。戦前の弾圧といえば、特高警察――日本共産党などを弾圧することを専門にした特別高等警察の存在がいつも問題になりますが、この警察の活動も、中国侵略の開始とともに、いよいよ本格的になりました。

 そして、政党のなかで戦争反対を貫いたのは日本共産党だけでしたから、三〇年代には、とりわけその迫害が激しいものとなったのです。 共産党員を逮捕したら、その場で死ぬまで拷問する、こういうことも珍しくはありませんでした。わが党の中央委員で上田茂樹さんという人は、一九三二年四月につかまったことまではわかっているのですが、その後の消息は不明で、どこでいつ殺されたかも今日までついにわからないままであります。中央委員の岩田義道さんは、同じ年の十月に逮捕されましたが、逮捕の四日後に拷問で殺されました。作家の小林多喜二さんは翌三三年の二月に逮捕されましたが、七時間後に絶命しました。やはり党の中央委員だった経済学者の野呂栄太郎さんは三三年の十一月に逮捕され、拷問をうけて三カ月後に死亡しました。こういうことが相次いだのであります。

 特高警察はそういうことをやるために、スパイの網の目をはりめぐらせ、党中央にもスパイが潜入しました。今あげた人たちの多くは、そういうスパイの手引きで逮捕され、殺されたのです。その当時の彼らの手口は本当に前代未聞の卑劣なもので、送りこまれたスパイが党の幹部になり、銀行襲撃のような犯罪を自分で計画してそれに党員を動員する、そしてそれによって日本共産党の名誉を傷つけるということまでやったのです。

法廷闘争をただ一人傍聴した宮本百合子の「日記」から

 二十五歳の青年だった宮本顕治さんが中央委員として党中央に入ったのはそういう時期でした。一九三三年であります。そして宮本さんたちが、中央に入りこんでいた二人のスパイの存在に気づいて調査をおこないました。それによって、さっき申しました野呂栄太郎の逮捕も、スパイの手引きによるものであることが証明されました。

 しかし、この過程で不幸な事件が起きたのです。二人のスパイのうちの一人が、調査の途中、急性の心臓死を起こしました。

 宮本さんが逮捕されたあと、この事実を知った特高警察は、これを「指導権争いによるリンチ殺人事件」として大々的な宣伝をおこなったのです。こんどの選挙中にまかれた反共ビラは、このとき特高警察が作り上げたデマ宣伝、「リンチ殺人事件」ということをそのまま蒸し返したものであります。

 しかし、事実は、党内の「指導権争い」などではなく、党に潜入したスパイにたいする調査でした。このことには、後日談があるのですが、そのとき調査の対象になった一人はその後警察に捕らえられて裁判にかけられました。特高警察は、スパイの存在を認めませんから、この人物は自分たちが送りこんだスパイだということを認めないまま、共産党の幹部として起訴したわけです。その当人があわてて、「私はそうじゃないんだ。特高警察の課長の命令で――毛利という課長なんですが――送りこまれてこういうことをやったんだ」と、一生懸命法廷で弁解するのですが、特高警察と通じていた法廷は、そういう証言はとりあげないで有罪にしました。こういうことがあとでおきたぐらい、特高のスパイ政策はスパイのご当人も認めた明瞭(めいりょう)なものだったのです。

 そして当時、スパイにたいするわが党の最高の処分は、除名してそのことを天下に公表し、二度とそういう活動ができないようにする、こう明瞭に規定されていました。そういう中で起こった不幸な事件だったのであります。

 逮捕された宮本さんは、このデマ宣伝を打ち砕くために、獄中でも法廷でもたたかいましたが、私はこの闘争は歴史の記録に残るものだったと思います。

 とくに、当時の党の幹部で、同じくスパイの調査に参加したほとんどの人物が攻撃におびえて党の立場を捨て、警察に迎合的な陳述をする、そういうなかでの、いわば極限的な困難に追い込まれたなかでのたたかいでした。しかし、このたたかいは自分とその名誉を守るというだけでなく、不当な誹謗(ひぼう)・中傷をくつがえして日本共産党の名誉を将来にわたって守るためのたたかいだとして、宮本さんは全力をあげて取り組んだのであります。

 宮本さんはどんな拷問にも屈しないで、密室での取り調べはすべて拒否し、そして法廷に出たときには道理をつくしてたたかうという態度を堅持しました。

 法廷のたたかいは途中で(宮本さんの)病気で中断され、最後の裁判は戦争が終わる前年、一九四四年の十二月まで続きましたが、まさに戦争中の法廷であります。妻の宮本百合子さん以外には、被告の側に立つ傍聴人はだれひとりいない、そういうなかでのそれ自体がきびしい法廷でしたが、そこで、道理をつくす法廷闘争を、諄諄(じゅんじゅん)と事実をとき明かす、こういう態度ですすめたのであります。

 宮本百合子さんは、この法廷に参加して「日記」に記録を残しています。彼女自身、夫の宮本顕治さんの口から事の真相を聞くのは、この法廷が初めてでありました。そこで、初めてそういう事実を耳にしながら、「日記」や手紙にそのときの思いを記録しています。

 そのいくつかを紹介したいと思います。一つは一九四四年九月二日。第四回公判を聞いての日記であります。

 「極めて強烈な印象を与える弁論であった。詳細に亙る弁論の精密適切な整理構成。あくまで客観的事実に立ってそれを明瞭にしてゆく態度。一語の形容詞なく『自分としての説明』も加えず。胸もすく堂々さであった。……リアリズムというものの究極の美と善(正直さ)を感じる。深く深く感動した」

 これが初めて事実を聞いた百合子さんの感想です。

 次の公判では、そのことの文学的な値打ちにも触れて、のべられています。

 九月十四日、第五回公判。「品位にみちた雄弁というものが、いかに客観的具体性に立つものかを痛切に学ぶ。彼は、一つも自分のためには弁明しない。只事実を極めて的確に証明してゆく。こうして、私は、事実はいかに語らるべきものか、ということについて、ねぶみの出来ない貴重な教育をうけつつある。ああ自分もああいう風に語れたら」

 百合子さんは宮本顕治の法廷での陳述を聞いて、自分自身がその事態のなかの人物の一人でありながら、自分のための弁明とか、自分の立場からの説明というものを一切加えないで、客観的に事実をずっと積み上げてゆくなかで、何が真実かを明らかにしてゆく、そのことを重く受け取ると同時に、そのことが自分の文学にとってもつ意味を体でくみとったわけですね。

 私は、百合子さんは、実際、そのとき受けた思いを戦後の作品に生かしたと思います。『播州平野』、『風知草』、『二つの庭』、『道標』など、多くの作品が戦後書かれました。このなかでは、宮本百合子さん自身が「ひろ子」、「伸子」という名前での登場人物でありました。しかし、自分自身がそこに登場していながら、それこそ自分としての説明を一切加えないで、自分を含む社会の展開をリアルに描き出してゆく、これは彼女自身が編み出した創作の方法ですが、宮本百合子さんにこういうところまでの影響を与えるほど、法廷での堂々たる弁論が展開された。私はここに非常に感銘を受けるものです。

宮本顕治氏に対する復権証明書

復権証明書

 こういう法廷闘争の結果、戦時中のあの無法な法廷でも、「不法監禁致死」などいくつもの罪名をなすりつけはしたが、肝心の「殺人」という罪をなすりつけることはできなかったのであります。治安維持法違反が主で、無期懲役の判決が一九四四年十二月五日に下されました。

 この治安維持法違反については、戦後の民主化のなかで、一九四五年十月、政治犯として釈放されて決着がつきます。当時の政府は、そのほかのことがあるじゃないかとがんばったのですけれども、一九四七年五月には、日本政府がそのすべてについて全面的な復権を認めざるを得なくなり、「復権証明書」を出しました。

 五月に東京地方検察庁の検事正、木内曾益氏の名前で出された「復権証明書」には、先の判決について「将来に向て其の刑の言渡を受けざりしものと看做(みな)す」、要するになかったことにしようということが書かれたわけであります。

 このように、この問題は、戦争中の暗黒裁判の問題として、政治的にも法的にも完全に決着のついた問題であります。

 だからその後、一九七六年に、民社党という反共政党がこれを国会に持ち出したときにも、結局、その攻撃は成功しませんでした。しかし、失敗しても失敗しても、これを反日本共産党という目的のためには繰り返し持ち出す。そのこと自体が、自分が戦前の暗黒政治の後継者であることを告白しているのと同じではありませんか。(拍手

弾圧で命を落とした人たち
上田 茂樹
(1900〜1932)
中央委員

 1922年7月、党の創立とともに入党。『赤旗』(せっき)や『無産者新聞』の編集・発行にたずさわる。32年4月に逮捕され、以後消息不明。特高警察に虐殺されたと推定される。

小林 多喜二
(1903〜1933)
作家

 労働者や農民の生活とたたかいを命がけで描いた、日本の代表的な革命作家。1931年入党。33年2月20日、スパイの手びきで逮捕され、7時間後に特高警察に虐殺される。

岩田 義道
(1898〜1932)
中央委員

 1928年のはじめに入党。党の宣伝部長として『赤旗』(せっき)再刊の中心になり、党の大衆化に努力。32年10月30日に逮捕され、その4日後、警視庁で拷問によって殺される。

野呂栄太郎
(1900〜1934)
中央委員・経済学者

 当時の日本の資本主義を科学的社会主義の立場から解明した。1930年ころ入党。弾圧で破壊された党の再建に尽力。33年11月に検挙されて拷問を受け、翌年2月に死亡。

伊藤千代子
(1905〜1929)

 1928年2月、女子大在学中に入党。翌月検挙され拷問を受ける。夫が党を裏切ったのちも、天皇制権力に抵抗して最後までたたかった。1929年9月24日、衰弱による急性肺炎で死亡。

飯島 喜美
(1911〜1935)

 1929年5月に入党。女性労働者としての経験を生かし、婦人の活動や組織化に力を尽した。33年5月に検挙され、35年12月18日、栃木警察署で獄死。24歳の誕生日の翌日であった。

数十万の人々を弾圧した暗黒政治の決着はまだつけられていない

 私がさらに強調したいのは、この事件は決着済みだが、戦前の暗黒政治そのものの問題はまだ決着がついていないということであります。

 私は、一九七六年に民社党などの反共政党が、この事件を国会に持ち出したときに、(衆院)予算委員会でこうのべました。

 「この治安維持法によってどれだけの人が共産主義者の名をもって逮捕されたか――完全な統計はありませんが、司法省の調査によってみると、検事局に送検されただけでも七万五千六百八十一名です。送検されない段階の逮捕を合わせれば、これが数十万に上ることは容易に察知されることです。

 しかも、治安維持法で逮捕された被告に対してはあらゆる人権が認められませんでした。そのために多くの人びとが共産党員として命を落としました。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟という組織が調査したところによりますと、逮捕されて、現場で、留置場で拷問などによって虐殺された者が六十五名、そういう拷問、虐待が原因で獄死した者が百十四名、病気その他の理由で死亡した者が千五百三名、全部で千六百八十二名が、わかっているだけでも治安維持法によって逮捕され、虐殺され、死亡しているわけです」(衆院予算委員会総括質問、一九七六年一月三十日)

 ここでつけくわえますと、この勇気ある不屈の先輩たちのなかに、党幹部だった夫の裏切りにもめげないで最後まで節を貫いた伊藤千代子さんや、コンパクトに「闘争・死」という言葉を残して獄死した飯島喜美さんなど、多くの若い女性たちがいたことを忘れることはできません。いま名前をあげたこの二人は、ともに二十四歳の若い命を落としたのであります。

 このときの予算委員会で、私がこういう事実をあげて、治安維持法をどうみるかということを質問したのにたいし、当時首相だった三木武夫氏は、“戦前の法律のことだから私がいろいろ価値評価をいたす立場ではない”と逃げました。再度の質問にたいしてもようやく「今日の事態から考えると、好ましい法律であったのではない」というにとどまりました。

 三木武夫氏でさえそうだったわけです。これは、あの暗黒政治が国政を担う政権党としてまったく清算されていないことの現れでありました。

 しかし歴史の審判は、すでに明白であります。日本共産党が多くの犠牲者を出しながら、「主権在民の民主主義の旗」、「侵略戦争反対の平和の旗」をかかげたことは、わが党の誇りある歴史であります。(拍手

 それは、日本共産党にとってだけ意義を持つことではありません。このたたかいがなかったら、民主主義も、平和も、すべてが敗戦による外国からの輸入品だということになってしまうではありませんか(拍手)。明治初期の自由民権運動以来の、民主主義の伝統をになってのわが党の戦前の活動と役割には、まさにその意味で、国民的な意義があったのであります。

 そのことを強調して、次の問題、戦後の歴史に移りたいと思います。


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党の戦後の歴史から――憲法制定と国民主権

新憲法制定の過程――「主権在民」を主張した政党は日本共産党だけだった

 戦後の歴史で反共派が取り上げたのは、憲法問題です。これは驚きでした。あまりにも歴史を知らない者の攻撃だったからであります。

 憲法問題というのは、命がけで国民主権を貫いてきた民主主義の政党、日本共産党が、戦後の日本でまさに真価を発揮した分野だったのです。

 一九四五年八月に、ポツダム宣言受諾による敗戦がありました。しかし、ポツダム宣言に示された世界の民主主義のレベルと、日本の政界の民主主義理解の水準の間には、あまりにも大きい落差、開きがありました。日本の政界というのは、わが党以外のすべての政党、保守党では民政党と政友会、それから社会大衆党、こういうものが全部、大政翼賛会に合流して(一九四〇年)戦争推進の流れに身を一体にしたという状況でしたから、ポツダム宣言を受諾したといっても、民主主義がわからないわけであります。

(資料)
新憲法制定と各党の態度
─国民主権の問題を中心に

(1945年)

8月15日  ポツダム宣言受諾による敗戦。

11月10日 日本共産党、「新憲法の骨子」を発表。

  1. 主権は人民にある。
  2. 民主議会は主権を管理する。民主議会は18才以上の男女の選挙権、被選挙権の基礎に立つ。民主議会は政府を構成する人々を選挙する。

(1946年)

1月21日  日本自由党、「憲法改正要綱」を発表。

  1. 統治権ノ主体ハ日本国家ナリ
  2. 天皇ハ統治権ノ総攬者(そうらんしゃ)ナリ
  3. 天皇ハ万世一系ナリ

2月14日  日本進歩党、「憲法改正案要綱」を発表。

  1. 天皇ハ臣民ノ捕翼ニ依リ憲法の条規ニ従ヒ統治権ヲ行フ
    立法ハ帝国議会ノ協賛ニ由リ、行政ハ内閣ノ補弼ヲ要シ、司法ハ裁判所ニ之ヲ託ス

2月23日  日本社会党、「新憲法要綱」を発表。

    主権と統治権

  1. 主権  主権は国家(天皇を含む国民協同体)に在り
  2. 統治権 統治権は之を分割し、主要部を議会に、一部を天皇に帰属(天皇大権大幅制限)せしめ、天皇を存置す

6月20日  政府、議会に「帝国憲法改正案」を提出。

    「国民主権」の規定がなく、前文でも、「ここに国民の総意が至高なものであることを宣言し」とあるだけだった。

6月28日  日本共産党、「日本共産党憲法草案」を発表。「主権在民」を次のように明記した。

    第一条 日本国は人民共和国制国家である。
    第二条 日本人民共和国の主権は人民にある。主権は憲法に則って行使される。

7月25日  日本共産党、議会の憲法改正委員小委員会に、憲法改正案にたいする「修正案」を提出。その中で、前文に「主権在民」を明記すること、第一章の「天皇」条項を全文削除することを提案した。

10月7日  衆議院が、一連の修正をくわえたうえで、「日本国憲法」を可決した。

 全文に、「ここに主権が国民に存することを宣言し」と、「国民主権」の規定を明記したことは、もっとも重大な修正点をなした。

 それは憲法問題に端的に現れました。日本共産党は一九四五年、敗戦の年の十月十日に幹部が釈放され、その一カ月後の十一月十日に「新憲法の骨子」という新しい憲法への提案をおこないました。

 その提案では、「一、主権は人民にある」「二、民主議会は主権を管理する。民主議会は十八歳以上の男女の選挙権、被選挙権の基礎に立つ。民主議会は政府を構成する人々を選挙する」、こういう形で、国民主権、普通選挙権、そして議院内閣制、こういうことを戦後の日本の政治の原則としてただちに明らかにしたのであります。

 保守党としては、戦前の政友会、民政党の流れが再編されて、日本自由党、日本進歩党という二つの党ができました。これが合同して、最後にはいまの自民党になるわけでありますが、敗戦の翌年一月ないし二月に、この二つの党が憲法の改正案をそれぞれ発表しました。

 日本自由党、これはいまの民主党代表の鳩山由紀夫さんのおじいさんの鳩山一郎さんが総裁になってつくった政党ですが、この党の「憲法改正要綱」には、主権の問題ではこう書いてありました。まず「統治権ノ主体ハ日本国家ナリ」と国民主権の問題をいわばごまかすかたちをとりますが、その次に、「天皇ハ統治権ノ総攬者ナリ」、「天皇ハ万世一系ナリ」と続くのですから、実際は、天皇主権をそういうかたちで引き継いだものであります。

 日本進歩党の方は、どうかといいますと、この党も、四六年二月に憲法改正の案を出しました。その主権のところにあるのはこういうことであります。「天皇ハ臣民ノ輔翼ニ依リ憲法ノ条規ニ従ヒ統治権ヲ行フ」。「輔翼」というのは、助けるということです。

 戦前の憲法には「国民」という概念がなくて、「臣民」でした。つまり国民は全部天皇の家来という考えだったわけですが、それをそっくりそのまま受け継いで、ポツダム宣言を受諾して民主主義を受け入れたはずの日本でも、天皇と家来という関係は変わりないとする。そして、「臣民」の助けで天皇が統治権を行うのが、戦後の体制であるべきだという主張をしたのです。

 社会大衆党が名前を変えて生まれた日本社会党も、二月に「新憲法要綱」を出しました。だいぶ悩んだようで、主権のところでこう書いてありました。「主権は国家(天皇を含む国民協同体)に在り」、「統治権は之を分割し、主要部を議会に、一部を天皇に帰属せしめ、天皇制を存置す」。つまり、主権というものを、国民と天皇の間に、どっちが大きいか少ないかはあるにしても、ともかく分割して持とうではないか、これが、社会党の憲法改正案でした。

 つまり、日本共産党以外は、どの政党も国民主権ということを憲法の原則としてうたうつもりがなかった。日本でそれを主張する勇気がなかった。これが、戦後の実態だったわけであります。

 四六年には四月に普通選挙による議会選挙がおこなわれ、六月にこの選挙にもとづく帝国議会が憲法制定議会として開かれて、政府はそこに新憲法草案を提出しました。これは、今の憲法の原型になったものでありますが、政府が最初に提出した憲法草案には「国民主権」という言葉がまったくなかったのです。完全に主権在民の立場が欠落した憲法案でした。

 その憲法案に対して、日本共産党が先に発表した「新憲法の骨子」を、憲法案として具体化して提起したのが、今度の選挙で彼らが問題にした「日本共産党憲法草案」であります。この草案には、「第二条 日本人民共和国の主権は人民にある」ということを明記しました。政党ではこれがただひとつ、国民主権の立場に立った憲法案として発表された、ここに非常に大事な点があります。

 世界の民主主義の理解では、主権在民は当たり前のことです。主権在民のない民主主義はない。しかし、その主張を、戦後の激動の時期にかかげることができたのは、戦争中から命がけで国民主権の立場を主張した日本共産党しかなかった。まさに、戦前の歴史がここに生きたのであります。

 こうして、結局、憲法制定議会ではこの問題は最後に修正され、国民主権の今の規定が取り入れられて今日の憲法になったわけであります。日本共産党が憲法制定の過程においても、民主政治の先駆けとしての役割を果たしたことは、私たちの誇りとするところであります。(拍手

 そして、私たちの先輩たちは、戦争の問題でも民主主義の抑圧という点でも、その体制的な根っこが絶対主義的な天皇制にあったことを明確に認識していましたから、この国民主権の憲法を提案するにあたって、天皇制の存続に反対し、共和制を主張するという立場に立ったのは当然のことでありました。

日本人民共和国「憲法草案」をめぐって

 では、わが党のその憲法提案に対して、反共派はいま何を攻撃しているのか。

 一つは、人民共和国の「人民」が悪い、こういう攻撃であります。しかし、はっきりいって、「人民」というのは、戦争中の「臣民」に対置した当時の当たり前の言葉でありました。当時の新聞の論説でさえ、「人民戦線の結成を急げ」とかいうことが大きく書かれたぐらいであります。そして、戦後の民主主義の議論のなかでは、リンカーンの「人民による、人民のための、人民の政治」、これが、民主主義の精神をあらわす一番の合言葉として盛んにいわれたものであります。「人民」は、英語でいえばピープルでありますから、「人民」という言葉を当時は当たり前に使っていたわけで、これをわが党の憲法案が使うことになんの不思議もありませんでした。

 もう一つ攻撃の中心点になっているのは、わが党の憲法草案のなかに、この国の「共和政体の破棄」は「憲法改正の対象となりえない」(第百条)、こういう規定があることについてです。これは、この日本が国民主権の政治体制を国民の意思によって決めたら、そこからの逆戻り――昔のような国民に権利のない専制政治への逆戻りは許されない、このことを憲法草案の条文として明記したものでした。

(資料)
憲法改正の限界について

 反共派は、「日本共産党憲法草案」の次の条項(傍線は引用者)を、反民主主義の条項だとして、攻撃の対象とした。

 「第百条 日本人民共和国の共和政体の破棄および特権的身分制度の復活は憲法改正の対象となりえない

 この攻撃には、なんの道理もない。「共和政体の破棄」を憲法改正の対象としないことは、次に見るように、民主主義の憲法論の常識である。

イ、諸外国の例

フランスの場合。

    フランス共和国憲法 第14章 改正
    第89条 …共和政体はこれを改正の対象とすることはできない。

イタリアの場合。

    イタリア共和国憲法 第2部 第6章 第2節 憲法の改正 憲法的法律
    第139条 共和政体は憲法改正の対象となることはできない。

ロ、日本国憲法について憲法学者の解釈

「そこでまず、この憲法の基本原理として絶対に改正を許されないと思われるものをあげてゆこう。

(a)第一には、国民主権主義である。それをうたっているのは前文第一段及び本文第一条である。これはいわゆる憲法制定権力が国民にあることを宣言しているものであり、憲法制定権力の所在を変えることが憲法の同一性を失わせることは当然である。前文第一段が、国民主権主義を宣言したのちに、『これは人類普遍の原則であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。』とのべているのは、まさにこの意味にほかならない。そしてこの最後の言葉は単なる経過的な意味だけではなく、今後において、国民主権主義に反する一切の憲法改正を排除する意味をも当然に含んでいる。したがって国民主権主義を変更することは、まさに憲法の明文によって否定されているのである。…

(b)第二は、いわゆる恒久平和主義(ないし国際協調主義)である。…

(c)第三には、基本的人権の尊重である。

(d)以上のべた国民主権主義、恒久平和主義、基本的人権尊重主義が、この憲法を貫く三つの基本原則であり、これを侵すことが許されないこと、すなわちこれらの点に憲法改正の限界があることについては、多くの学説がほぼ一致しているといえよう」(『註解日本国憲法』下 1427〜1429ページ)

 それを、これは共産党独裁の体制をいったんつくったらもうそこからの逆戻りを許さないんだ、まさに独裁政治の証拠だ、こういう攻撃を反共派が盛んにやってきたのですが、こじつけもここまでくると、お笑いであります。

 この憲法草案は戦争が終わった翌年に、日本で新しい民主主義の憲法をつくる、その時にわが党の提案として出したものですから、そこには社会主義の「社」の字もなければ、共産主義の「共」の字もありません。まさに、民主主義の体制のことであります。「共和政体」というのは、国民主権の政治体制のことです。世界でいえば、アメリカも共和政体、フランスも共和政体であります。そして、共和政体をとった国が、将来、「憲法改正」という名目で専制政治に逆戻りすることを許さない、という立場をとるのは、いわば民主主義の憲法論の常識なのです。

 たとえば、今でもフランスやイタリアの憲法には、“共和政体の破棄はできない”ということが、ちゃんと条項に規定されています。日本の憲法ではそういう条項はありませんが、多くの憲法学者の一致した見解を述べている『註解日本国憲法』という本には、“日本の憲法の諸原則のなかで憲法改正でも変えてならないものは何か”という論を立てて、“変えてはならない”第一のものに、国民主権主義をあげています。それぐらい当たり前の議論であります。

 その当たり前の議論にこじつけの攻撃をして、わが党が国民主権の一貫した主張者であったことを、逆に非難の材料にする、これも本当にデタラメな攻撃でした。

 なお、この憲法草案について、今でも日本共産党は、こういう憲法を目指しているのかという質問をする人がいます。今年の二月に、日本記者クラブで話をしましたときに、そういう質問がでました。私は、“これは、戦争が終わった翌年の一九四六年、日本で新しい憲法をつくろうというときに、当時の党が提案したものであって、そういう歴史的な文章だ、われわれの今後の行動はそれを基準にするものでもないし、それに拘束されるものでもありません”とお答えしましたが、これがわれわれの態度であります。


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党の戦後の歴史から――「50年問題」と「軍事方針」

 戦後の歴史を少し先に進みましょう。今度の選挙で、しきりに反共派が問題にした次の問題は、一九五〇年の党の分裂の時期に、“火炎びん事件”など、いわゆる「軍事方針」という問題が起きた、この問題をめぐっての攻撃でした。次にその話に進みたいと思います。

ことの本質は、ソ連・中国の干渉にあった

 もう五十年前の話ですから、当時の記憶のない方がたくさんおいでになることは当然であります。この問題の本質は、実は、ソ連、中国の干渉の問題でした。ソ連、中国が共同して日本共産党を自分たちの支配下において武装闘争の方針を持ち込もうとした、こういう干渉問題でした。それとのたたかいを通じて、今日の党があり、今日の党綱領がある。ここにこの問題のもっとも重要な点があります。

 戦後はじめて合法的な党として再建された日本共産党は、普通選挙が実施されるという情勢のもと、敗戦の翌年一九四六年二月の第五回党大会で、「平和的かつ民主主義的な方法で」社会の変革をめざすという方針を決めました。憲法制定後の四七年の総選挙では、百万票、三・七%の得票で四議席でしたが、二年たった四九年一月の総選挙では、二百九十八万、九・七%の得票で三十五の議席を獲得しました。

 こういうときに、五〇年一月、コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)というところから突然の批判があったのです。コミンフォルムというのは、当時、ソ連の共産党が中心になって、ヨーロッパにつくっていた組織で、別にアジアの党や日本共産党がその管轄下におかれているわけではないのですけれど、そこからいきなり日本共産党批判が発表された。アメリカの占領下で、平和革命を考えるのは間違っている、こういう批判でした。

 私は当時大学生で、一細胞員、いまでいう党支部の一員でしたが、この批判には、私の当時の気持ちにはかなり合ったものがありました。というのは、当時、どんな運動もアメリカの占領軍によって弾圧される、いろいろな悪い政治の根源が、アメリカの占領政策にあるということがわかっているのだが、それにたいしての批判や闘争はまったく問題にしない、もっぱら、占領政策の実行役になっている日本の政府・吉田内閣にたいする闘争と批判だけが問題になる、そうした現状に非常に疑問を持っていましたから、これは自分たちの悩みに答えるものだと思い、“公正な講和条約を結んで、占領軍の撤退をかちとることがまず先決だ”という忠告だと理解をしました。

 しかし、「批判」の本質は、実は別のところ、武装闘争の押しつけにあったのです。

 これは、ソ連、中国という二つの大国による“襲撃”ともいうべき干渉でした。当時まだソ連の実態はいまのように明らかになっていませんでしたし、中国はアジアで大きな革命を起こして成功したばかりで、両国とも、世界でも日本でも進歩派の信頼をかなり集めていました。そういうなかで、この二つの国の党が連合して、この干渉をやってきたということは、わが党にきわめて深刻な打撃を与えました。

 そのなかで党が分裂し、多くの党員は、分裂のどの側に属した人も、ことの真相がわからないまま、本当に痛苦の数年を過ごさざるをえなかったというのが実態でした。

ソ連・中国じこみの武装闘争方針を日本に持ちこんだのは、徳田、野坂分派がつくった「北京機関」だった

 私たちはこの時期のことを「五〇年問題」と呼んでいますが、「五〇年問題」を基本的に解決してそこから抜け出す過程で、だいたい何が起こったかというあらすじは、明らかになりました。しかし、このときの干渉の全貌(ぜんぼう)がつかめるようになったのは、実は、ソ連共産党が崩壊してからであります。

 ソ連共産党が崩壊してから、彼らが持っていた秘密文書が、いろいろと流れ出る事件がありました。日本のマスコミの一部がモスクワへ行ってそれを買い込んできて、それを材料にしてわが党を批判する、こういうことがありましたので、私たちはモスクワに代表を派遣し、わが党に関係する秘密文書を入手できる限り入手してきました。そうしたら、マスコミで問題になったことだけではなく、集めた文書のなかには、戦後のソ連の、あるいは中国と共同しての干渉の全体にかかわる内部資料が本当に豊かに含まれていたのです。それを読んで、初めて、あのとき何が起こったかの全体的な真相がわかりました。

 私は、そういう材料をもとにして、今から七年前の一九九三年に、『干渉と内通の記録』という文章を「赤旗」に連載しました。このとき使った材料は、ほとんどがソ連の秘密文書によるものであります。つい最近のことですが、旧ソ連の研究をやっている研究者のなかで「いまロシアに行っても、散逸してしまってもうあんな文献は全然見つからない」「日本共産党はあのときに集められるだけ集めて、よくもあれだけの歴史の分析をやったものだ」と感心していた人がいるとうかがいました。私自身も、先日、アメリカのある学者に会ったときに「そういう研究をやっているのは日本だけではないか」ということが話題になりました。それだけの意味のある研究であったと振り返っています。

 『干渉と内通の記録』を書いた後も、新たにいろいろなものを読んで、当時の干渉の国際的な背景をさらに詳しく知ることができました。その新しい知識も合わせて見ますと、五〇年に始まった干渉というのは、実は、ソ連と中国の間で四九年の段階から相談されていたことだということがわかりました。

 中国共産党が革命に成功して、新しい中国を建国するのは一九四九年十月です。その三カ月前に、当時はまったく秘密にされていましたが、中国の党の代表である劉少奇がソ連を秘密裏に訪問して、スターリンと革命成功後のことについてかなり突っ込んだ相談をやっています(四九年七月)。その相談の席の一つで、スターリンから提案があり、“今後アジアの植民地・半植民地の運動にかんしては、中国が担当者になって中国の革命運動の経験を大いに広めてもらおうじゃないか”という打ち合わせがやられたということが、あとでわかりました。その年の十一月に北京で世界労連がアジア・大洋州の労働組合の会議を開くのですが、劉少奇がそこへ出ていって、“アジアの植民地・半植民地の運動は、中国と同じように人民解放軍による武装闘争をやらなければならない”という演説(いわゆる「劉少奇テーゼ」)をいきなりやって驚かせるわけですけれども、これも、スターリンとの相談にもとづくものでした。このときの演説では、植民地・半植民地のなかに、アメリカの占領下にあるということで、日本も数えられていたのです。

 コミンフォルムの日本共産党「批判」というのは、この線にもとづくものでした。この「批判」の文面には武装闘争の「武」の字も書いていなかったが、実際には、それを目指しての干渉作戦の始まりでした。その作戦の最高の指揮者はスターリンでした。

 当時、日本共産党の代表者は、徳田球一書記長でした。しかし、外国からのこの「批判」は、代表である書記長に向けられないで、政治局員だった野坂参三に名指しで集中しました(政治局とは、現在の常任幹部会にほぼ相当するもの)。これは当時なぞとされていたのですが、このなぞも四十三年後に、私たちが手に入れたモスクワの秘密文書によって解けました。

 野坂参三という人は、戦前海外で活動していて、最後は中国共産党の根拠地であった延安でずっと活動していました。そこから戦後日本に帰ったということになっているのですけれども、実は、日本に帰る途中にスターリンから呼び出されて、秘密裏にモスクワに行き、そこでソ連の情報機関につながる秘密の工作者になることを約束して日本に帰ってくるのです。ソ連の秘密文書を読みますと、日本への帰国後もずっとソ連大使館などと特別の連絡をとりながらやっている状況が出てきます。その秘密の工作者だった野坂に、新しい方針はこうなんだということをきわめて端的なかたちで伝える、こういう役割をもった「批判」だったということも、読みとれるわけであります。 ですから、そのあとの過程を見てみますと、そういう「批判」があった三カ月後には徳田球一書記長と野坂参三らは、党の中央委員会や政治局のなかでも自分たちの仲間だけを秘密裏に固めて事実上の分派をつくる。そして、そこから北京に使者を送って特別な連絡体制をつくる、そういうことを始めます。非合法の体制づくりも始めます。その中心になったのは、批判されたはずの野坂参三でした。そして、(一九五〇年)六月にアメリカ占領軍が、日本共産党の幹部全体の公職追放という弾圧をくわえてきたときに、その機会を利用して、党の中央委員会や政治局をいっさい無視して、自分たちだけで非合法体制にうつりました。そして、徳田と野坂は北京に亡命し、そこで「北京機関」という名前の、一種の指導機関を勝手につくります。そこから、ソ連・中国じこみの武装闘争方針を日本に持ち込んだのです。

 この「北京機関」というのは、文字通りソ連の出先機関でした。その後スターリンのもとで、モスクワで「北京機関」代表も加わって会議をやるとか、そこで「軍事方針」という名前の武装闘争方針の文書をつくるとか、そういうことをさんざんやったのです。

今日の党の路線は干渉を打ち破るたたかいの中で築かれた

 私たちは、党を分裂させたこの人びとをいま、「徳田・野坂分派」と呼んでいます。五〇年以後の時期の「軍事方針」というものは、この分派が党を分裂させ、党の決定にそむいて日本に持ち込んできたものであります。しかもこの方針は、スターリンの指揮のもと、ソ連・中国の干渉者たちがつくりあげて、「北京機関」を通じて持ち込んだものでした。

 ですから、日本共産党の大会とも中央委員会とも何の関係もありませんでした。日本共産党の正規の機関が武装闘争や暴力革命などの方針を決めたことは一度もないのであります。

 この時期に党の分裂に反対した人びとは、徳田・野坂らの分派的な行動に反対すると同時に、彼らが持ち込んだ武装闘争の方針に対しても真っ向から反対しました。その先頭に立ったのが、政治局員だった宮本顕治さんであります。

 結局、ソ連・中国の後押しにもかかわらず、この路線は完全な失敗に終わりました。ソ連・中国の干渉派も、その代弁者となった野坂らも、ことの収束を図らざるを得なくなりました。それが、一九五五年のいわゆる「六全協」だったわけであります。この会議は「五〇年問題」の異常な時期からの転換をおこなったものとして注目されましたが、実はその内容は、干渉派のなし崩しの方向転換にすぎず、決議の案文自体もモスクワで用意されたものでした。

 干渉による党の分裂という異常な事態に決着をつけ、そこから抜け出す本当の転換はその後に起こったのであります。

 一九五八年の第七回党大会に進む過程で、この時期の本当の問題点が明らかになりました。

 第一は、徳田・野坂らが日本共産党を分裂させたことの誤りであります。

 第二は、ソ連・中国などの干渉の誤りとそれに追随したことの誤りであります。

 第三は、そして、その線で武装闘争路線を日本に持ち込んだことの誤りであります。

 この三つの点の確認を大前提として、一九五八年には第七回党大会が開かれ、一九六一年には第八回党大会が開かれ、この二つの大会で今日の党の路線を確立したのであります。

 これが、ごくあらましでありますが、「五〇年問題」の歴史であります。

 反共派が“火炎びん闘争”などといっていま問題にしているのは、この時期の徳田・野坂分派の行動であります。つまり、ソ連・中国のいいなりになって党を分裂させ、北京に拠点を構えた徳田・野坂分派が党大会の決定にそむいてやったことであります。

 今日の日本共産党がこの分派の後継ぎであるかのようにいいたてるのは、歴史を無視したまったくのいいがかりにすぎません。

 反対に、日本共産党の今日の路線は、この干渉を打ち破るたたかいの中で築かれたものであります。(拍手

自主独立の立場と党綱領の路線

 では次に、この二つの党大会でわが党がどのような路線を確立したのか、どのような方針を確立したのか、その問題に進みたいと思います。

自主独立の立場とは――外国の干渉を許さない、どんな外国の経験もモデルにしない

 一つの大事な点は、自主独立という立場であります。

 「五〇年問題」という本当に手痛い経験を通じて、そこからわが党はこの立場――自主独立の立場を確立しました。

 それは、
  どんな大国やその党であれ、外国からの干渉は許さないということ、
  どんな外国の運動や体制もお手本、モデルにしない。日本の条件に合った方式、進め方をつくりだしていくということ、
 これが基本でした。

 これは、当時の世界の共産党の中では、もっとも先進的な立場でした。そして、それが、口先だけのもの、言葉の上だけのものではなく、本物であったということは、その後のソ連の干渉との闘争、中国の干渉との闘争、こういうたたかいで十二分に試されたと思います。この自主独立というのが第一の点であります。

党綱領のいくつかの特徴点

 次は、第八回党大会で採択した綱領の内容であります。ここでは、そのいくつかの特徴点だけをお話しします。

 第一の点は、日本の社会と政治のどんな変革も議会の安定多数を得て実現することをめざす、つまり平和的、合法的な方法によって政府をつくることをめざす、このことであります。これは、干渉者が過去に押しつけてきたような武装闘争方針や暴力革命の路線をしりぞけるということを、党の綱領の上できっぱりと表明したものでありました。

 国民の多数、選挙で多数の支持を得て前進する――われわれはこの方針を「多数者革命」とよんでいますけれども、国民主権の旗を貫いてきた日本共産党としては、まさに当然の立場でした。

 第二の点は、当面の変革の内容について、民主主義革命論の立場をとったことであります。日本は高度に発達した資本主義国でありますが、資本主義から社会主義に進むということは今の課題ではない、「資本主義の枠内での民主的改革」が日本社会の当面の中心課題だということを見定めた方針でありました。

 とくにその内容として、日米軍事同盟を中心にしたアメリカへの従属関係をなくすこと、大企業の横暴な支配を打ち破ること、この二つの内容を大事な要(かなめ)として規定しました。日本の政治を変え、社会を変えるというとき、日米安保条約にもとづくアメリカへの追随・従属の問題、それから大企業の横暴な支配の問題、ここに最大の焦点があるということは、この綱領決定以来約四十年間にわたるわれわれの活動のなかで、またその間の日本の情勢の進展のなかで、十分に証明されたことであります。

 実は当時、世界の多くの国々、特に日本と同じような進んだ資本主義の段階にあった国々の共産党は、圧倒的多数が社会主義革命論をとっていました。そのなかで、日本共産党が社会主義革命論をしりぞけて、民主主義革命論――資本主義の枠内での改革・変革という方針を決めたことは、こういう問題でも、日本共産党の独自の立場を示したものとして、注目されました。

 第三の点は、この綱領が、社会は段階的に発展するものだという立場を貫いていることであります。共産党でありながら、社会主義革命をすぐの問題にしないで、まず「資本主義の枠内での民主的改革」をめざすということ自体が、段階的発展の考え方を示していますが、私たちは、綱領のなかで、さらに民主主義の問題にも、いろいろな段階があるという立場を明らかにしました。

 たとえば、綱領には政府の問題についての規定があります。民主的な改革を全面的に本格的にやりとげる政府が目標だが、それにいたる過程にもいろいろな段階の政府がありうるということが、綱領のことばでのべられています。これは、一口に民主主義革命といっても、その民主主義そのもののなかに、国民の間で問題が成熟する度合いに応じて、いろいろな時期、いろいろな問題提起がありうるということを示したものであります。

 改革の内容についても、たとえば綱領では、日本の民主主義を徹底する立場から、将来、君主制を廃止するという問題を、大きな目標にしています。しかし、当面の改革の内容を定めた行動綱領では、この問題をとりあげていません。同じ民主主義の問題でも、君主制の廃止が問題になるのは、もっと進んだ時期の問題。国民世論の間でこの問題が成熟するといいますか、これを解決することがそういう意味で日程にのぼってきた時に問題になるという位置付けで、当面の行動綱領からは省いているわけです。

 そういう点で、民主主義の問題でも、あるいは民主主義と社会主義との関係の問題でも、社会は国民多数の世論の成熟に伴って段階的に発展するという考え方を貫いていることは、この綱領の特徴です。

 第四の点としてあげておきたいのは、綱領が社会発展の全過程で、統一戦線と連合政権ということを、一貫した方針にしているという点です。いまの民主主義の段階では、もちろん統一戦線の方針を明記しています。しかし、将来、社会主義の改革が問題になるときにも、綱領では目標が一致するすべての党派、勢力と共同するという立場を明記しています。つまり、その時々、当面する改革の中身で一致する政党、団体、個人が共闘すること、そしてその共闘が国民多数の支持を得た場合には、そういう勢力による連合政権をめざすこと、これは日本の政治を変え、社会を変える大方針として、綱領が一貫した特徴としているところであります。

 当時は、革新政党といわれた社会党などは、綱領の文献で「社会党単独政権をめざす」ということを明記していました。しかし、私たちは、最初から、単独政権ということは問題にしませんでした。社会というのは、いろいろな考えの人々から成り立っているのですから、社会のさまざまな流れを代表するいろいろな政党がありうる。それぞれの時期に、改革の中身では一致しても、いろいろな政党がありうる。そういう政党・団体の協力・共同で、一歩一歩前進していく。これがわれわれの基本的立場であります。

 こういう内容の綱領路線を確立したからこそ、さまざまな時期に、状況にあった弾力的な対応ができる、そういう力を私たちの党の活動に、また政策に与えている。そこに綱領の大事な点があることをくみとっていただきたいと思います。

二つの大国の干渉との闘争

 この綱領を決め、自主独立の態度を決めたあと、日本共産党は六〇年代に新たな試練に見舞われました。それは、形は変わりましたが、再びソ連、中国という二つの大国の干渉にぶつかったということであります。

 六一年の党大会で新しい路線を決めたときには、党はまだ小さいものでした。党の内部の討論で、「五〇年問題」の過去の誤りを克服したといっても、いったん断ち切られた国民と党との間のつながりは、なかなか回復しませんでした。

 五九年に参議院選挙がありましたが、そのときの得票は全国区で五十五万票、一・九%でした。それから六〇年十一月、安保闘争のあとに総選挙がありましたが、そのときの得票は百十六万票、二・九%でした。議席でいうと、党の綱領を決めた第八回大会の時点では、衆議院三議席、参議院三議席、合計六議席というのが、われわれの議会勢力でした。

 そのまだ小さな力だった日本共産党に、六〇年代に再度の干渉が加えられてきたのです。

二つの大国の党が両側から同時攻撃――世界に他に例がなかった

 今度は五〇年代の干渉とは違って、ソ連、中国がお互い論争の関係にありましたから、それぞれ別個に干渉をくわだててきたわけであります。干渉の攻撃がはじまったのは、ソ連は一九六四年から、中国は一九六六年からでした。そのやり方は共通のものでした。

 党内にソ連派を組織する、中国派を組織する。そして内部から主導権を奪って、日本共産党を自分たちの支配下に置こうというやり方でした。そしてまた、日本共産党を日本の政界で孤立化させるために、他の政党との関係を利用する、こういう攻撃の手口もソ連、中国共通してとられました。

 こういう形で二つの大国の党から同時に干渉の攻撃を受けた党は、世界にはほかにはありませんでした。これは、日本共産党が自主独立の党であることの証明でもありましたが、証明だといって喜んではいられない、なかなか大変苛烈(かれつ)な事態でした。

 しかし、私たちはこれを完全に打ち破りました。二つの大国主義にたいする闘争とこの勝利は、私は、二十世紀の歴史に書き込まれるにふさわしいものだと思っています。(拍手

攻撃の旗印――ソ連は「応援団」化の要求、中国は暴力革命論のおしつけだった

 攻撃の旗印はそれぞれ違っていました。ソ連共産党の攻撃は、ソ連の対外政策を無条件に支持せよ、その応援団になれというものでした。そして、わが党を攻撃しただけではなく、原水禁運動など日本の平和運動をソ連の応援団に変えようとして、あらゆる策謀をめぐらせました。私たちは平和諸団体とも協力して、この干渉策動を完全に打ち破りました。

 中国共産党は、毛沢東たちが国内で「文化大革命」を起こしているのと並行して、日本への干渉攻撃をおこないました。内容はいろいろありましたが、その中心になったのは、再び暴力革命路線の押しつけでした。「鉄砲から政権が生まれる」――ここに中国革命の世界的な教訓があるとして、レーニンの『国家と革命』などをふりかざしての攻撃がおこなわれました。

 私たちは、これにたいして、レーニンを不変の真理、いつでもどこでも通用する絶対の真理扱いすることに反対し、マルクス以来の科学的社会主義の理論と運動のなかには、民主的議会制度をかちとる闘争、そしてまたそのもとで「議会の多数をえて革命にすすむ」という方針が一貫して流れていることを明らかにし、この無法な攻撃を理論的にも打ち破りました。

 最近、私が発表しているレーニンの研究は、それから三十数年たった段階で、当時の研究をより発展的に展開したものだと思って読んでいただければありがたいと思います。

 そして、いまあらためて痛感するのですが、中国からの当時の干渉は、ただ日本共産党への攻撃にとどまるものではありませんでした。いわゆる「過激派」を礼賛し、彼らが暴力行動をやると、新聞や北京放送でこれを賛美、激励する。さらに具体的に「すべての過激派大同団結せよ」というよびかけを発する。そこまでやったわけで、日本の内政にたいする外国からの目に余る干渉でした。

 しかし当時、日本共産党以外に、これを批判した政党は一つもありませんでした。反対に、「文化大革命」を礼賛し、だれが中国との関係の窓口になるかを争い合うというのが、社会党から自民党、公明党まで含めた日本の政界の圧倒的な流れになっていました。わが党に、いま根拠もなしに、「暴力革命論」をなすりつけようとしている反共派は、えりを正してこの歴史を振り返るべきではありませんか。(拍手

干渉問題の政治的決着はついた

 この二つの大国主義の干渉との闘争は、政治的にも明確な決着がつきました。

 ソ連とは、干渉の開始以来十五年たった一九七九年にソ連側が誤りを認めたので、それを基本として関係を正常化しました。ソ連はいろいろな国に干渉をやりましたが、干渉の誤りを公式に認めて関係を正常化したというのは、資本主義国の共産党との間では、これが最初にして最後のことでした。

 しかし、ソ連の大国主義、覇権主義とのたたかいは、アフガニスタン問題など、その後も続き、九一年のソ連共産党とソ連の崩壊に至りました。私たちはソ連共産党解体の時に、「歴史の進歩を妨げてきた巨悪が崩壊したものとして、これを歓迎する」という声明を発表しました(拍手)。これは、私たちの多年にわたるソ連大国主義との闘争の文字通りの実感を示したものでした。

 中国共産党とは、干渉が始まってから三十二年後の一九九八年に、中国の現在の指導部と関係を正常化しました。それに臨んだ中国側の態度には、私は、かつてのソ連に見られない誠実さがあったということを、ここで指摘しておきたいと思います。

 いまの中国の指導部は、大多数が「文化大革命」の時代に迫害されていた人たちであります。ですから、日本への干渉には直接の責任はありません。そしてまた、干渉の事実も具体的にはあまりよく知っていません。しかし、中国側は、私たちの指摘に応じて過去の歴史もよく調べ、毛沢東時代に明確な干渉の誤りがあったことを率直に認め、それを総括して是正することを明らかにし、しかも、われわれと合意したその内容を、テレビ、新聞などを通じて天下に公表し、今後の活動の教訓にするという態度まで示しました。

 一九七九年のソ連との関係正常化は、これとはまったく様子がちがっていました。誤りを認めたものの、認めたことをソ連の国民にはできるだけ知らせたくない、という調子が一貫していました。そして日本共産党には誤りを認めたが、その口の下で、もうすぐアフガニスタンへの侵略戦争を起こすという態度でしたから、本当にソ連の大国主義の病は救いがたいということを、われわれは関係正常化の後も痛感したものでありました。

 しかし、中国共産党との間では、それとはちがう誠実さを、私は感じました。

 中国共産党との関係正常化についての合意のその部分を紹介しておきます。

 「中国側は、六〇年代の国際環境と中国の『文化大革命』などの影響を受け、両党関係において、党間関係の四原則、とくに内部問題相互不干渉の原則にあいいれないやり方をとった(「内部問題相互不干渉の原則にあいいれないやり方」というのは、「干渉の誤りを犯した」ということです)ことについて真剣な総括(経験を総括して反省すること)と是正(誤りをただすこと)をおこなった。日本側は中国側の誠意ある態度を肯定的に評価した」

 この合意が日本共産党と中国共産党の、その後の二年間にわたる友好・交流の関係の固い基礎となっているわけであります。

 いま見てきたこの闘争というのは、自主独立の立場の点でも、議会の多数をえて政治の変革をすすめるという大方針の点でも、日本共産党の路線が、口先だけのものではない本物であることを、いわば党の生死をかけた闘争で実証した歴史となりました。

日本共産党をヨーロッパから見ると

 とくに自主独立の立場についていいますと、ソ連共産党の崩壊の前後に、ヨーロッパの共産党の幹部が、私たちにいろいろな感想を寄せてくれました。

 たとえば、スイスのある党の幹部は“日本共産党にたいするソ連の干渉をはねのけて、相手に誤りを認めさせて公正な決着をつけたあなた方の党のたたかいは、われわれにとってほんとうに驚きだった。いちおう党間の関係の基準はうたわれているのだが、実際にはソ連が絶対的で、ソ連指導部の意向には逆らえないというのが不文律だった。これが現状だった。フランス共産党はいうまでもないが、イタリア共産党も、ソ連と意見の違いがあっても、折り合い方をきちんと心得ていた”と語りました。つまり、自主独立という言葉はヨーロッパにもあったが、ヨーロッパのそれと、日本共産党のそれはまったく違っていた、という感想です。

 ベルギーの党の幹部はこういっていました。“われわれはソ連が誤りを犯した時には、慎重にそれを指摘してものはいった。しかし、当時は妥当だと思えたことも、いまからみると、非常にみみっちいことでしかなかった。率直にいって、当時は、あなた方の党を大胆不敵な党、「アンファン・テリブル」(異端児)とみていた。ヨーロッパ流の物差しをいくら引き伸ばしても、あなた方のようなソ連との対決の仕方はでてこなかった。しかし、その大胆不敵さが歴史の進歩に合致していたことが証明された”。

 こういう党だからこそ、私たちは、ソ連共産党の解体に際して、先のような歓迎の声明を発表することができたのであります。そしてまた、世界的には共産党の運動が困難な時期を迎えたとされる九〇年代に、党の歴史の上でも特筆すべき大きな前進を、全体として記録することができたのであります。(拍手


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今日の到達点

 自主独立の立場を確立し、党の綱領を決めてから、約四十年になりますが、この四十年間に、日本共産党のたたかいがどこまできたか、そのことを次にみてみたいと思います。

 総選挙で後退はしましたが、現在、日本の情勢とわが党の活動の到達点は、日本の将来にとってきわめて重大な転換点にあると思います。いくつかの角度からみてみましょう。

自民党政治の危機とゆきづまりはここまで来ている

 第一に、長期にわたって日本を支配してきた自民党政治が、ゆきづまりと危機に落ち込んでいることであります。

 二つの面をあげましょう。自民党の得票率は、私どもが綱領を定めた時期には、総選挙で五八%(一九六〇年)という水準でした。それが六〇年代後半から、四〇%台に落ちました。しかし、九〇年の総選挙では、まだ四六%でした。それが、九三年に三七%、九六年は比例代表選挙で三三%、今年の総選挙では比例代表で二八%、そこまで低下しました。九〇年代の十年間で四六%から二八%に後退したわけです。

 だからこそ、自民党は、単独政権がもはや不可能になっているのです。連立政権を組まざるをえない。しかし、その連立政権があらたな深刻な矛盾を生む。選挙制度をゆがめることで議席の多数を維持することができても、政治的な安定はきわめて困難な情勢に入りつつある。これが、得票の面から見た自民党政治のゆきづまりの現状であります。

 政治の内容ではどうか。さきほど筆坂さんからくわしい説明がありましたが、大企業中心主義が財政の大破たん、社会保障の大破たんを生み出し、自民党政治の枠のなかで、国民が納得できる活路を生み出すことは、いよいよ困難になってきています。

 外交面でも、軍事同盟中心という日本外交が、アジアでも世界でも孤立を深めつつあることは、きわめて明白であります。いまのサミットでも、これに先立つ形で先日外相の会談がおこなわれましたが、日本の目の前でおこなわれた朝鮮半島の南北首脳会談について、集まった各国外相が口をそろえてその意義を高く評価するのにたいして、日本の外相だけが渋い評価をし、まだ危険性が消えない、消えないといっていたと報道されました。そこには、日本政府の軍事同盟中心外交の孤立化が、絵にかいたような感じで現れています。

 得票面、つまり国民とのつながりの面と、政治の中身の面、この両面から、自民党政治のゆきづまりが新しい段階を迎えていることは、きわめて大事な点であります。

「日本改革」の提案は、綱領の今日的な具体化

 第二は、それにたいして、わが党が綱領の方針を「日本改革」の提案にまで具体化してきたことが大事であります。

 相手側の大企業中心主義の矛盾――予算の面で現れた矛盾、あるいは経済ルールの面で現れた矛盾などの深刻化をとらえて、私どもはこれを「日本改革」の提案に具体化しました。それは、ゆきづまった自民党政治に代わって、二十一世紀の日本の進路を開く国民的な対案となりうるものであります。

 私どもはこの道をさらに進み、その具体化を進めて、自民党政治に代わる新しい政治を切り開く役割を、この面でも大いに果たしてゆきたいと思います。(拍手

集中的な反共攻撃も、日本共産党の位置と役割の重大さを示している

 第三は、今度の選挙で大問題になった反共攻撃そのものが、日本共産党の現在の政治のなかでの位置と役割の重大さを示しているという点であります。

 「国民が主人公」の立場で一貫している日本共産党の存在と活動が、自分の政治のゆきづまりにおびえている相手側にとって、いよいよがまんのならないものになっている。そのことが、あの謀略的集中的な攻撃に現れているといえます。

 しかも、そこには明らかに彼らの衰えも示されます。七〇年代のわが党の躍進を食い止めるために、彼らは、七〇年代の中ごろから、大反共攻撃をやってきました。しかし、それは、どれも政党としての正面からの挑戦でした。自民党は「自由社会」キャンペーンをおこないました。公明党は憲法論争をしかけてきました。民社党も、宮本さんの戦前の治安維持法等事件をとりあげるという卑劣なものでありましたが、やり方は党の委員長が国会の代表質問でとりあげるという政党としての攻撃でした。

 しかし、今回の反共攻撃は、怪文書、謀略ビラによる暗やみの攻撃が特徴であります。執行部隊が公明党・創価学会であったことは、一部マスコミもずっと後追いして検証していますが、しかし、自民党も公明党も創価学会も、「知らぬ存ぜぬ」を決め込んでいます。つまり、昼間のお日様のもとではやれない攻撃だということを、みずから認めているわけです。

 これは、みなさん、七〇年代の反共攻撃にくらべて、大変な衰えぶりではありませんか。(拍手

 しかし、政権の危機が深いだけに、攻撃は手段を選ばぬものになっており、これを全面的に打ち破る闘争は、これからの日本の政治を切り開くためにもきわめて重要であります。

21世紀への転換に攻勢的に取り組む力量をもった党に

 第四に、日本共産党の発展が二十一世紀への情勢打開のカギだということであります。謀略攻撃で押し返されましたが、今度の選挙で得たわれわれの支持が、得票率の点で七〇年代の躍進の時期の峰を越えるものであったことは、冒頭にご紹介しました。二十一世紀には、ここから出発して、政治的にも組織的にも理論的にも、この転換の時期を攻勢的に打開できる力量をもった日本共産党をつくる、このことが、いま決定的に重要になっています。ここにいまの情勢の簡潔に見た到達点があるということを申しあげたいのであります。

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世界と日本の未来像――社会主義の展望

 最後に社会主義の問題についてのべたいと思います。

資本主義は永久不滅のものではない

 反共派の綱領攻撃の中心点の一つは、社会主義の問題にありました。「日本共産党が資本主義の枠内での改革といっているのは薄化粧だ、本音は社会主義だ」、こういう種類の攻撃であります。

 これは、いわば日本と世界の未来をどう見るかにかかわる話であります。

 私たちが、いま必要な改革に真剣に力をつくしながら、日本と世界の将来像について資本主義の枠にとらわれない、より壮大な理想を掲げる、これは世界と人類、日本社会の進歩を大きく展望する政党としては、当たり前の立場ではありませんか。(拍手

 私は、私たちがその展望を持っていることを非難の対象にしようとしている人びとにたいして反問したいのであります。“あなたがたは資本主義を永久に不滅だと考えているのか”“またそう考える者でないと、いまの日本で政治の改革を唱える資格はないと考えているのか”。(笑い)

 だいたい、社会のしくみというものは永久不変のものではありません。この日本列島でも、最近の発掘によって、数十万年前から人間が生活していたことは明らかになってきましたが、最初から資本主義が続いたわけではありません(笑い)。原始共産社会と呼ばれる階級の差別も対立もない社会から、日本型の奴隷制社会にかわる。それがまた武家を中心にした封建制の社会にかわり、変革の時期はその封建制の時代にもいろいろありました。そして明治以後資本主義の日本にかわる。社会の交代を何回も経験してきたのが、日本の歴史であります。

 資本主義の時代というのは、数十万年にわたるこの列島での人間の歴史のなかで、まだ百数十年の短い時期のことであります。私たちは、利潤中心主義というこの体制がいつまでも続くとは考えておりません。それを乗り越え、資本主義時代に築かれた文化と経済の全成果のうえに、人間が中心となる新しい社会を築こうというのが、社会主義の理想であります。(拍手

 私たちは、この未来像について、細かい、精密な青写真を描くつもりはありません。それは、日本の国民が歴史的な歩みのなかで解決してゆく問題だからであります。

 党の綱領は社会主義についてのべていますけれども、それは私たちがいま持っているごくおおまかな見通しを示しているだけであります。しかし、その中にも、社会主義論の大事な点がいくつかあります。

ソ連社会は、社会主義とは無縁な人間抑圧の体制だった

 第一は、ソ連型の経済・政治体制、社会体制にたいする徹底した告発、これは、社会主義とは縁のない社会だったという認識であります。(拍手

 党の綱領は、「ソ連およびそれに従属してきた東ヨーロッパ諸国の支配体制の崩壊は、科学的社会主義の失敗ではなく、それから離反した覇権主義と官僚主義・専制主義の破産である。これらの国ぐにでは、革命の出発点においては、社会主義をめざすという目標がかかげられたが、指導部が誤った道をすすんだ結果、社会の実態として、社会主義社会には到達しえないまま、その解体を迎えた。ソ連覇権主義という歴史的な巨悪の解体は、大局的な視野でみれば、世界の革命運動の健全な発展への新しい可能性をひらいたものである」、こういう告発と認識をしめしています。

 それからまた、綱領のこの改定をおこなった第二十回党大会(一九九四年)で、それについて報告したとき、私は、こうのべました。

 「社会主義とは人間の解放を最大の理念とし、人民が主人公となる社会をめざす事業であります。人民が工業でも農業でも経済の管理からしめだされ、抑圧される存在となった社会、それを数百万という規模の囚人労働がささえている社会が、社会主義社会でないことはもちろん、それへの移行の過程にある過渡期の社会などでもありえないことは、まったく明白ではありませんか」(拍手

 スターリン以後のソ連の体制にたいするわれわれのこういう認識は、ソ連が解体してからにわかに生まれたものではありません。これは、三十年にわたるソ連の大国主義、覇権主義との闘争を通じて、私たちが到達した結論であります。

 私自身の実感をいいましても、まず最初、ソ連が六〇年代にあの乱暴な干渉をおこなってきたとき、困難ななかで活動している資本主義国の党にたいして、政権を握っている社会主義国の党が乱暴な干渉をおこなってそれを押しつぶそうとする、そんなものがいったい社会主義国の党であろうか、そういう根本的な疑問を持ちました。

 私たちは、そのことを、彼らにたいする手紙にもはっきり書きました。あなたがたがやっていることは社会主義ではない、と。

 しかし、その後も、わが党にたいする干渉が続くだけではなく、チェコスロバキアやアフガニスタンへの侵略が重ねられました。そういうことが平気で繰り返される体制が社会主義であるはずがない。私たちは、そういう問題にぶつかる一歩ごとに、ソ連の体制にたいする認識を深めました。

 私自身についていいますと、いまから十八年前、一九八二年に「スターリンと大国主義」という文章を「赤旗」に連載して、のちに新書にまとめましたが、そのなかで、彼らが社会主義のモデルだと主張している「ソ連型社会主義」というのは、社会主義の典型でないことはもちろん、社会主義のロシア的な道でもない、「スターリンとその後継者たちがおかしてきた多くの誤りや科学的社会主義の諸原則からの逸脱」を、体全体に刻みつけた異常な体制だと告発しました。

 そういうわれわれの批判的な認識の深まりが、ソ連解体後一挙に明るみに出た社会の内情についての材料の分析と結びついて、第二十回党大会でのあの結論――ソ連は社会主義でも、それへの過渡期でもなかった、抑圧型、人間抑圧型の体制だった、という結論になったのであります。

 ですから、私たちは、日本共産党がめざしている社会主義はソ連に近づくものだなどという攻撃にたいしては、このわれわれの立場を前面に押し出してこれをきびしく退けるものであります。(拍手

本来の社会主義は、資本主義時代の価値ある成果のすべてをうけつぐ

 第二は、われわれがめざす社会主義、本来の社会主義は、政治・経済・文化・社会の全体にわたって、資本主義時代の価値ある成果のすべてを受け継ぎ発展させるものだということであります。どんな分野でも、そこからの逆行は許されません。

 私たちが二十四年前、一九七六年の党大会で決定した「自由と民主主義の宣言」は、その精神でつくられたものであります。私たちはこれを、党の綱領に準ずる文書として扱っています。

 たとえば、私たちは日本の進歩の将来を展望した場合、いまの憲法ですえられた議会制民主主義の体制、政治的民主主義の体制が、その値打ちをしっかりと維持し、より充実・発展するべきものだと考えています。反共派は、共産党は独裁政治をめざすなどといいたてますが、われわれはそんなことはまったく許さないということが、「自由と民主主義の宣言」には明記されています。

 政党の問題では、この「宣言」はこう書いています。 「反対党をふくむ複数政党制をとり、すべての政党に活動の自由を保障し、選挙で国民多数の支持をえた政党または政党連合で政権を担当する。この議院内閣制(議会多数派で組閣)によって、政権交代制は当然維持される」

 私たちは、いまの日本の国民がかちとった議会制民主主義、政治的民主主義を、将来どんな社会の発展段階になろうがきちんと守り発展させることを、この宣言でそこまで明確に明記しているのであります。

 経済の問題でも、国民の権利の問題、人権の問題でも、あるいは民族の自由の問題でも同じであります。

 だから、そのことをふまえて党の綱領は、「日本国民がかちとってきた自由と民主主義の成果は歴史的に継承され、市民的・政治的自由、生存の自由、民族の自由という三つの分野でさらに充実し、発展する」、後戻りは許さないということを、社会主義をふくむ社会発展の展望のなかで明記しているのです。

利潤第一主義をのりこえる新しい社会の探究は必ず21世紀の世界的な課題となる

 第三は、では資本主義を乗り越えた新しい社会への体制的な特徴はどこにあるのかという問題であります。

 根本は、利潤第一主義を乗り越えることであります。人間による人間の搾取をなくすことであります。

 どんな問題でも、利潤が第一の原理、動機、目的になって経済が動く、政治が動く、そういう体制は未来永劫(えいごう)であってはなりません。これを乗り越える。そのためには、主な生産手段を社会全体の手に移すことが必要になる、その基盤の上にこそ、人間が主人公と呼びうる社会が築かれる、これがマルクスが資本主義社会の分析から引き出した結論でした。

 このことを「生産手段の社会化」とよびますが、それでは主な生産手段を社会が握るというやり方を、どういう形、どういう方式で実現するのか、その青写真はマルクスも描きませんでした。これは、それぞれの国でその必要を自覚するところまで進んだ国民が、そのみずからの英知、知恵と経験を結集してうみだすべきものであります。

 とくに今の世界には、社会主義の理想へ向かおうといって足を踏み出した国はありますが、発達した資本主義国でこれを探求する道に足を踏み出した国はまだ地球上にありません。それだけに、これは人類にとって“新しい挑戦”と呼ぶべきものであります。

 しかし、いま世界で深刻化している経済問題――大量失業、環境問題、南北問題、多国籍企業の問題、金融投機など、どの問題を取り上げても、これは、国境を越えた資本主義の利潤第一主義に根っこがある問題が大多数です。世界の歴史のなかで、資本主義そのものの是非が問われる情勢が一歩一歩進んでいることは、多くの方面から指摘されています。

 私たちは、二十一世紀には、世界的にも、利潤第一主義の克服が歴史的な課題になるときが必ずやって来ることを、確信しています。

 その世界の動きのなかでは、利潤第一主義の被害を最も鋭い形で受けているアジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの発展途上国はひとつの重要な役割を果たすでしょう。同時に、この動きのなかで、日本のような高度に発達した資本主義国での国民の運動、たたかいが大きな意義を持つことも間違いないところだと思います。そこには二十世紀にはなかった新しい特徴があります。

 私たち日本はいま、「資本主義の枠内での民主的改革」という課題に直面しています。その改革で前向きの成果を上げ、国民の利益を中心にして政治や経済を国民の意思で動かすという経験を積むならば、将来、日本と世界がさらに進んだ改革の必要に直面したときにも、その成果と経験を踏まえて、日本の国民がその知恵を前向きに発揮するだろうことは疑いないことだと思います。

「人間は自分の歴史を自分でつくる」――歴史をひらく決意と勇気、そしてロマンをもって

 いまはまだ二十一世紀の前夜であります。私たちが現実に掲げているのは、二十一世紀の早い時期に民主連合政府をつくり、資本主義の枠内での民主的な改革、具体的には「日本改革」を実行するという“控えめ”な目標であります。しかし、“控えめ”といっても、これ自体が腰をすえたたたかいを必要とする壮大な課題であります。

 この当面の課題に真剣にとりくむと同時に、未来に属する大きな展望、利潤第一主義を乗り越え、本当に人間が主人公だといえる理想社会の建設をめざす志を失わないところに、歴史の進歩の立場に立つ政党の本領があり、この党のたたかいのロマンがあります。

 私たちが日本共産党という党名に誇りを持つのも、それが戦前戦後の歴史を刻んだ名前であると同時に、理想社会を追求するこの運動の初心を代表する名前だというところに、その根拠があります。(拍手

 みなさん、「人間は自分の歴史を自分でつくる」、こういう言葉があります。二十一世紀の日本の新しい歴史は日本国民が自分でつくるものであります(拍手)。今日の情勢にふさわしい決意と勇気、そして理想を追求するロマンを持ってこの運動に加わり、新しい国づくりの事業が二十一世紀の早い時期にその勝利をかちとれるよう、お互いの知恵と力をつくそうではありませんか。(拍手

 これで講演を終わります。どうも長い間ご清聴ありがとうございました。

大きな拍手


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