2007年7月18日
日本共産党中央委員会名誉役員で元中央委員会議長の宮本顕治(みやもと・けんじ)氏は、十八日午後二時三十三分、老衰のため東京都渋谷区の代々木病院で死去しました。九十八歳。
喪主は長男の太郎氏。葬儀は宮本家の密葬とし、党としての葬儀は参院選後にとりおこないます。
一九〇八年(明治四十一年)山口県熊毛郡光井村(現在の光市)生まれ。愛媛県の松山高校を経て東京大学経済学部に入学。二九年二十歳のとき、雑誌『改造』の懸賞論文に応募した文芸評論「『敗北』の文学――芥川龍之介氏の文学について」が一等に入賞しました。
三一年五月入党。三二年作家の中条百合子と結婚。三三年に二十四歳の若さで党の中央委員になりました。同年十二月、党に潜入していたスパイの手引きによって特高警察に検挙されます。
特高警察は日本共産党の名誉を失墜させるため、さまざまな事件を仕立て上げ、デマ宣伝を繰り広げました。これにたいし、宮本氏は、獄中という困難な条件下で、日本共産党の名誉を将来にわたり守り抜くために全力をあげ、法廷では事実を解き明かして、デマ宣伝を打ち破りました。戦時下の暗黒裁判は、宮本氏にたいし、治安維持法違反を主とした無期懲役の判決を下しましたが、戦後、この判決は取り消されました。
宮本氏は戦後すぐ党再建活動に参加、日本共産党をきわめて困難な状況に陥れたいわゆる「五〇年問題」では、その解決の先頭に立ちました。これはソ連のスターリンが革命直後の中国共産党の毛沢東指導部と組んで中国方式の武装闘争路線を日本共産党におしつけようとして企てた干渉作戦でした。
この干渉のなかで党は分裂し、分裂した一方の側=徳田・野坂分派はスターリンの直接指導のもと北京に拠点をおいて、軍事方針とよばれる極左冒険主義の方針を日本に持ち込みます。徳田・野坂の分裂的行動に反対すると同時に、彼らが持ち込んだ武装闘争方針に真っ向から反対するたたかいの先頭に立ったのが宮本氏でした。
党はこのたたかいを通して統一を回復、党綱領と自主独立の確固とした路線を確立しました。宮本氏は五八年の第七回党大会で書記長に選ばれます。六一年の第八回党大会まで継続審議となった綱領問題の討議を発展させるための小委員会責任者として、粘り強い論議を組織しました。
第八回党大会で採択された綱領は、当面の革命について、世界の発達した資本主義国の共産党の間でいわば常識とされていた社会主義革命論をとらず、民主主義革命の立場を打ち出しました。綱領はまた、武装闘争方針や強力革命の路線をしりぞけ、日本の社会と政治のどんな変革も、「国会で安定した過半数」を得て実現することをめざす、という立場を明らかにしました。
六〇年代には、ソ連共産党と中国共産党の毛沢東派から、それぞれ日本共産党を自分たちの支配下におこうとする覇権主義的干渉を受けました。これにたいし、日本共産党は、宮本氏を先頭に大論争をおこなって、これらの干渉をはねのけました。
国際活動では、六六年、宮本氏を団長とする党代表団がベトナム、中国、北朝鮮三国を訪問。折からのアメリカのベトナム侵略に反対する国際統一行動と統一戦線を強化するために力を尽くしました。六八年には、宮本氏を団長とする北朝鮮訪問団が金日成と会談し、当時国際的に問題となっていた北朝鮮から南への武力介入計画の中止を求め、同意をかちとりました。
米ソの核戦争の危険性が増大した八四年には、宮本氏を団長とする党代表団がソ連共産党代表団と会談し、不一致点はわきにおいて、核戦争阻止、核兵器全面禁止・廃絶にかんする「共同声明」を発表しました。この共同声明が契機となって、八五年二月、「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」が発表されるなど、核兵器全面禁止・廃絶の主張が、世界の反核平和運動の大きな流れとなりました。
七〇年幹部会委員長、八二年中央委員会議長に選出されます。九七年の二十一回大会で議長を引退、名誉議長に。二〇〇〇年の二十二回大会から名誉役員に。宮本氏は、六十九歳のときに、参議院議員に初当選。以来、一九八九年まで二期十二年務め、国会の場でも日本の民主的改革をめざすたたかいの先頭に立ちました。
二十一回党大会の閉会あいさつで不破哲三委員長(当時)は、次のようにその足跡をたたえています。
「宮本前議長が党の中央委員会に参加したのは戦前の一九三三年、それいらい、六十四年間、ほぼ三分の二世紀という長期にわたって、党の指導の先頭にたって活動してきました」
「民主主義と平和の日本をめざす戦前の不屈の闘争に始まり、日本共産党をきわめて困難な状況におとしいれたいわゆる『五〇年問題』の解決、党綱領と自主独立路線の確立、諸外国の覇権主義との断固とした闘争、核兵器廃絶をめざす国際的な活動、日本の民主的な改革をめざすたたかいなど、宮本前議長がわが党とその事業のなかで果たしてきた役割と貢献は、歴史の事実として党史に明確に記録されている」
日本共産党の志位和夫委員長は十八日、中越沖地震の現地調査に訪れた新潟県柏崎市で、宮本顕治元議長の死去について記者団に問われ、次のようにのべました。
◇
老衰でなくなったという報を、さきほど受けました。たいへん大きな人で、大きな仕事をされた政治家だったと思います。私にとっても深い尊敬の対象でした。大きな感謝とともに、心からの哀悼の気持ちをのべたいと思います。
とくに宮本さんは、戦前獄中にあって、十二年間、反戦平和の旗を降ろさないでがんばりぬいた、これが戦後の平和につながったと思います。
それから、相手がソ連、中国・毛沢東派であっても大国の干渉に屈しない自主独立の立場を打ち立てたと、この業績も大きいと思っております。
それから、いまの綱領の原型にあたる綱領路線を確定し、まず資本主義の枠内で、アメリカいいなり、大企業中心の政治から国民中心の政治に切り替えるという、いまの綱領路線の土台をつくる上でも大事な仕事をされた方だと思います。あとを引き継いでしっかりがんばっていかなければいけないと決意しています。
(「日本の政治にとっても大きな出来事だったと」との問いに)
私はそう思っています。日本の戦前、戦後の政治のうえで宮本さんは、本当に一貫して平和と国民の利益のために生涯をささげた政治家であり、革命家だったと思っております。私も多くのものを学びました。ぜひ、こんどの選挙で立派な成績を出してそれにこたえたいと思っております。
私が日本共産党の本部で仕事をはじめたのが一九六四年、宮本さんが引退したのが一九九七年でしたから、役職上の関係はいろいろでしたが、党の中央委員会で三十数年にわたって政治活動をともにしてきたことになります。
そのなかで学んだこと、影響をうけたことは数多くありますが、まず第一にあげられるのは、どんな相手のどんな無法にも屈しない自主独立の態度とそれをつらぬく強固な意志です。ソ連崩壊をふくめどんな諸事件にもゆるがないわが党の理論と路線も、この立場があってこそ、成立し発展してきたものです。
宮本さんの若い時代、戦前の獄中と法廷での苦難の闘争のことは、私の入党のころからよく語られていた話でしたが、あの闘争が、権力側の謀略を打ち破って日本共産党の政治的名誉と道義的権威を擁護する今日的な意義をもってきたことも、最近ひとしお強く感じ、若い人たちに語ってきたことでした。
今日の日本共産党の基盤をきずいてきた偉大な先輩として、その業績を発展的に受け継ぎながら、私も、日本の進歩と世界の平和のための活動に可能なかぎり力をつくすつもりでいます。
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