2006年10月22日(日)「しんぶん赤旗」
5万人を絶滅の場所へ運んだ
グルネワルト駅を訪ねて
ドイツ
ナチ収容所の名刻んだプレート
叫び 聞こえるよう…
どこか牧歌的なグルネワルド駅の正面 |
ドイツは自国がおこなった過去の戦争と、しっかり向き合ってきたことでよく知られています。ベルリン市内のあちこちにも、自らの過去を告発し、ふたたび悲惨な戦争を繰り返すまいという決意を語る記念館やモニュメントが、数多くあります。ベルリン市民の足として親しまれているSバーン(近郊電車)駅の一つ、グルネワルト駅。通勤通学客が乗り降りするこの駅にも、ナチスドイツのユダヤ人大虐殺を物語るモニュメントが残されていました。(大内田わこ 写真も)
その日、ベルリンは冷たい雨にぬれていました。持っていった夏服を重ね着してもまだ寒い、グルネワルト駅を訪ねたのはそんな日の午後でした。
まだ昼下がりなのにまるで夕方のよう。人の乗り降りも心なしか少なめです。
出口に向かって階段を下り地下道を右へ曲がるとすぐに「GLEIS 17」のプレートが目に入りました。プラットホーム17への入り口です。
矢印に沿って階段を上がると、両側をうっそうと茂る大樹におおわれたプラットホームに出ました。真ん中には赤くさびた線路。
雨にぬれたホームを端から端までゆっくりと歩いてみました。
すし詰め貨車で
ここからベルリン在住のほとんどすべてのユダヤ人がいや応なしに、ヨーロッパ各地の強制収容所へ送られたのだと思うと、胸が騒ぎました。
トイレもなく、水も食糧もほんのわずかしかないすし詰め状態の貨車で、時として自らの汚物にまみれながら、死の場所へと輸送された人たち。そのたった一つの理由はユダヤ人ということでした。
ホームを覆うように敷かれた鉄製のプレート。その端に、連続的に文字が刻まれています。
しゃがんで読んでみると「29・10・1942/100JUDEN/BERLIN―THERESIENSTADT」とあります。
一瞬考え、わかりました。一九四二年十月二十九日に、百人のユダヤ人が、ベルリンからチェコのテレジンシュタットへ送られたと、記録されているのです。
丹念に見ていくと、アウシュビッツやラーフェンスブリュックなどナチの強制収容所の名前とともに、リガやウーチなどのゲットーへの移送もあります。
最初の列車がこの駅を出たのは一九四一年十月十八日でした。千二百五十二人のユダヤ人がポーランドのウーチに送られています。
そして一九四五年二月までに百八十六本の列車が、五万人余の人々を、絶滅の場所へと運んだのです。
“独りぼっちに”
その恐怖の日から逃げ延びた、ベルリン生まれのユダヤ人女性、インゲ・ドイッチュクローンは戦後、こう証言しています。
:あの日のことは、まるで昨日のように、はっきり憶えてますが、警察の車が、ベルリンの市中を走りまわり(中略)工場といわず、住居といわず、至るところから、ユダヤ人を根こそぎ狩りだして、クルーという名の店に収容したのです。(中略)
あの人たちは、ここからほど遠くない、グルネワルト駅のプラットホームから、列車で出発しました。そして、その日こそ、私が突然…すっかり孤独になった、すっかり独りぼっちになったと、感じた日です。(クロード・ランズマン著『SHOAH(ショアー)』)
もともと貨物駅として開設されたグルネワルト駅が人員輸送に使われるようになったのは、一八七九年のことでした。当時はフンデケーレ駅と呼ばれ一八八四年に今の名前になりました。
そしてナチスの台頭とともに、ユダヤ人絶滅の“助手”としての悲惨な歴史を背負うことになったのです。
鉄道はナチのユダヤ人大量殺りくに不可欠の手段の一つでした。ヨーロッパ各地の絶滅収容所は、巧妙に主要な鉄道路線に沿って建てられ、アウシュビッツだけでも駅には四十四本の線路が入っていました。
ホロコーストの間中、輸送の貨車を調達し、列車の時刻を決め、機関車を走らせ、貨車を清掃しすべてを管理したのがドイツの国鉄でした。ドイツ国鉄ライヒスバーンは、第三帝国で最大の組織の一つでした。
彼らはユダヤ人をほとんど家畜同然の貨車で輸送したにもかかわらず、一般の乗客と同様の料金を取りました。十歳以下の子どもは半額、四歳以下は無料でした。
連合軍の爆撃で被害を受けるようになってからも、臨時の貨車を増発し、ますます不足していく貨車にますます多くのユダヤ人を詰め込んで、輸送列車は走り続けたのです。
グルネワルト駅の正面へ回ると、右手の、ちょうどプラットホームの裏側にあたる場所に、ここから輸送されたユダヤ人を記念する白いコンクリートブロックの碑がありました。
いくつもの人々のシルエットが連なるように刻み込まれたこの碑は、絶滅収容所への輸送が開始されて五十年後の一九九一年に、ポーランドのアーティスト、カロル・ブロニャトフスキによって建てられたものでした。
叫びが聞こえてくるようでした。