2006年9月25日(月)「しんぶん赤旗」
日本の戦争―領土拡張主義の歴史
不破哲三さんに聞く
第5回 「共栄圏」と悲惨な戦場
「共栄圏」の現実は?
アジア解放ではなく、資源獲得の話題ばかり
|
――南方侵略について、アジア解放の戦争というのが、“靖国派”の言い分ですが…。
不破 この言い分のでたらめさも、政府・軍部の公式記録を見ると、よくわかります。
前回、太平洋戦争への足取りの話をしたとき、その一歩一歩を決めた四つの御前会議について紹介しましたね。その前後に政府・軍部のいろいろな会議がありますが、どの会議の記録を見ても、東南アジア地域の人民の話は何ひとつ出ないのです。出てくるのは、そこに何があるか、どこを占領したらどんな物資が手に入るか、資源の話ばかりです。コメは仏印とタイ、石油は蘭印、ニッケルはセレベスとニューカレドニア、ゴムはタイと仏印と蘭印、錫(すず)はタイと仏印、銅はフィリピンなどなどです。
――前の世界再分割で日本支配の縄張りを問題にするとき、「生存圏」という言葉を使ったのも、同じ意味なんですね。
そこに住む人の権利を無視
不破 「生存圏」とは、これだけの地域を支配すれば、日本が戦争を続けるのに必要な物資はすべて手に入る、という勝手な理屈で、そこに住んでいる人びとの生活の権利などはまったく問題外の話です。「大東亜新秩序」とか「大東亜共栄圏」とかも、これを宣伝的に言い換えただけの言葉です。
実は、ドイツとの三国軍事同盟締結の時にも、日本が「大東亜」の盟主になったら、この地域の資源を大いに提供できると、資源面での値打ちをしきりに売り込んだものでした。それは、「皇国の生存圏」の範囲を決めた連絡会議の例の決定のなかにも、「南洋を含む東亜所在資源および物資の取得」についてできるかぎり独伊に便宜を供与する、「日満支三国の農林水産物」や「支那、仏印、蘭印等の特殊鉱産物および『ゴム』等」の供給に協力するなど、この種の売り込み文句はくりかえし登場しています(「日独伊枢軸強化に関する件」四〇年九月十六日、大本営政府連絡会議決定 『主要文書』)。
日本の軍事占領が各地に残したもの
不破 いよいよ戦争になって、日本軍が東南アジアに進撃し、その全域を軍事占領下におさめると、「大東亜新秩序」の現実は、たちまち明らかになってきました。
私たちは一九九九年に、日本共産党の最初の代表団として、マレーシアとシンガポールを訪問しましたが、シンガポールの街の中心部(ラッフルズ広場)に、「血債の塔(けっさいのとう)」という追悼の碑が建っているのです。正式の名称は「日本占領時期死難人民紀念碑」(日本の占領下で殺された人びとを追悼する碑)です。塔の台の四つの面には、英語、中国語、マレー語、タミール語の四つの言葉で、次の碑文が刻まれていました。
「一九四二年二月十五日から四五年八月十八日まで日本軍がシンガポールを占領した。わが市民で罪がないのに殺されたものの数は数えきれない。二十余年たってようやく遺骨を納棺してここに丁重に埋葬し、また高い石碑を建て心が痛むほどの悲しみを永遠に記録にとどめる」。
街中の中国系男子を一挙に虐殺
不破 いちばんひどい虐殺がおこなわれたのは、日本軍がシンガポールを占領して三日後の一九四二(昭和十七)年二月十八日でした。その日に、日本軍は、十八歳から五十歳までの街中の中国系の男子を呼び集め、全員を一挙に虐殺しました。中国系住民の大量抹殺作戦は、この日を手始めに二月から三月にかけて続き、全体の犠牲者の数はいまだにはっきりとは分からないとのことでした。中国系の住民(華僑)は、日本軍に抵抗する恐れがあるということから、この無差別の虐殺となったのです。
戦争が終わって後、一九六一(昭和三十六)年にその地域で宅地造成の工事などがおこなわれたさい、虐殺された大量の遺体が発掘され、あらためて全貌(ぜんぼう)が明らかになり、一九六七年にこの塔が建てられました。だから碑文に「二十余年たってようやく」と書かれたわけです。
私たちは、代表団として、この塔に献花をしましたが、このような虐殺は、東南アジアの各地でおこなわれました。
「帝国領土と決定し」……
|
不破 「アジア解放」とは無縁な日本の侵略主義は、日本の政府文書にも、明確に記録されています。ここに、四三(昭和十八)年五月三十一日の御前会議の決定「大東亜政略指導大綱」(『主要文書』)という文書があります。東南アジアの地域ごとに、どういう政治体制にするかを決めた文書です。「大東亜」というのは、諸民族の「共存共栄」が最大のうたい文句だったわけですが、現実にその支配体制を決めることになると、そんなきれいごとを言ってはいられません。日本の領土的野望が、むきだしの形で出てくるのです。
領土拡張主義の本音を記録
不破 東南アジア諸国のうち、戦争前から独立国だったタイと、フィリピンやビルマについては、形だけは独立国らしい体裁を整えることを、日本は考えていました。しかし、フィリピンの場合を見ても、日本は、一応「独立」を認めた上で「同盟条約」なるものを結びましたが(四三年十月)、この条約には「大東亜戦争完遂」のための日本との政治・経済・軍事上の「緊密なる協力」が義務づけられていましたし(第二条)、さらに「フィリピン国は日本国のなすべき軍事行動のためいっさいの便宜を供与」するという付帯条項までついていましたから、日本の軍事支配の実態は「独立」後も少しも変わりませんでした。
しかし、いまあげた御前会議決定の核心は、そのさきの部分――「その他の占領地域に対する方策」という部分にありました。次の条項を見てください。
「『マライ』『スマトラ』『ジャワ』『ボルネオ』『セレベス』は帝国領土と決定し、重要資源の供給地として極力これが開発並びに民心把握につとむ」。
これらの地域は、ゴムや石油、錫など重要資源の産地として、日本がもともとねらっていたところです。そういう地域は、平気で「帝国領土」と決めてしまう。これが、領土的野心のむきだしの現れでなくてなんでしょうか。
さらに、続く文章では、「ニューギニア」をはじめ、その他各地はそれに準じて方策を決める、という条項が続きます。
ここには、「大東亜共栄圏」なるものの領土拡張主義の本音が、日本の支配者たちのまぎれもない言葉で、記録されています。
『餓死した英霊たち』を読んで
戦没者の半分以上が餓死者
――日本の政府・軍部の文書をずっと見てきましたが、日本の戦争の侵略的な本質――領土拡張主義の歴史がまぎれもない形で、そこに記録されているのですね。
不破 私は、この記録に示された歴史の事実に正面からきちんと向き合うことは、日本の戦争について語るすべての人の最低の義務だと思います。それに目をふさいで、「日本の戦争の真の姿」を明らかにするなどというのは、あまりにも無責任で、あまりにもおこがましいことですから。
そこでは、戦争を計画し指導し遂行した人たちが、領土拡張こそ「皇国の正義なり」という調子で自分たちの侵略主義を謳歌(おうか)しています。この事実をふまえるなら、「国が違えば戦争の見方が違って当たり前」といった暴論は口に出せないはずです。
日本の戦争をふりかえるにあたって、私が最後に言いたいのは、動員されて戦場に出た日本の多くの兵士・軍人が、どういう戦争のなかでその生命を失ったのか、という問題です。
世界にはいろいろな戦争がありましたが、戦争に出ていった軍隊がこれほど悲惨な目にあった戦争というのは、私は世界にほかに例がない、と思います。軍人・軍属あわせて二百三十万人の戦没者が出ていますが、この半数以上が餓死者なのです。
この問題について、自分自身も戦場体験をもつ歴史研究者の藤原彰さんが『餓死した英霊たち』(二〇〇一年 青木書店)という著書を残しています。
藤原さんは、多くの餓死者を出した戦線や戦場を一つ一つ研究しながら、なぜこんな戦争になったのかを詳しく明らかにしています。私は、ここで取り上げられた戦場の悲惨な様子について、あらましは知っていましたが、藤原さんが綿密にまとめたその全貌に接して、あらためて大きな衝撃を感ぜざるをえませんでした。
「ガダルカナル」とはいかなる戦争だったか
不破 悲劇的な戦闘の最初になったのは、四二(昭和十七)年八月から四三(昭和十八)年二月にかけてのガダルカナル作戦です。ガダルカナルというのは、太平洋の南西部に連なるソロモン諸島のいちばん南の方にある島ですが、日本軍は、ここに約三万一千人の兵力を送り込み、約二万一千人の生命を失いました。その二万一千人のうち、戦死者は五千―六千人、残りの一万五千人は餓死者でした。なぜ、こんな結果になったのか。
補給を考えずに大軍を送り込む
不破 ガダルカナル島ははじめ、日本軍が基地をつくりかけていました。そこへ米軍が上陸して占領されてしまった。“それ奪回せよ”ということで部隊を送るのですが、制空権を奪われていますから、輸送船が使えないのです。やむをえず駆逐艦に分乗して行きますが、駆逐艦では兵員を運ぶのがやっとです。上陸した部隊は、重火器は持たず、食糧も七日分しか持たされなかった。それで銃剣だけで突撃して、たちまち全滅してしまいます。これがことの始まりでした。そのあとも、同じような上陸作戦をくりかえして、失敗は続きます。
大本営は奪回作戦に固執し、送り込む兵力はどんどん大きくなるが、食糧や武器の補給の困難さは増すばかりです。作戦は長引き、上陸した部隊に飢餓地獄が広がりますが、大本営は作戦中止、部隊撤退の決断がつかず、やっとその決断を下した時には、投入兵力の半分、一万五千人が餓死したという戦争でした。
この部隊の司令官だった百武中将がその責任をとって自決しようとした時、それを押しとどめた今村均大将の言葉が残っています。
「ガ島での敗戦は、飢餓の自滅だ。飢えはあなたの責任ではない。補給を考えずに、戦略戦術だけを研究し、すでに制空権を失いかけている時機に、祖国からこんなに離れ、敵地に近い小島に、三万もの大軍を送りこんだ、軍中央がおかした過失だ」。
まさに敗戦の原因を的確についた言葉でしたが、日本軍の中央部は、そこから何も学ばず、同じ悲劇が太平洋戦争中無数にくりかえされました。
「飢餓」戦線は全域に広がっていた
――恐ろしい話ですね。ガダルカナルの教訓は、生かされなかったのですね。
不破 ガダルカナルの悲劇は、戦争中の日本では、いっさい国民にはかくされたままでした。戦争指導者たちは、その後も、同じやり方で、多くの戦線を指導し続けたのです。この表を見てください。この大戦(一九三一―四五年)の陸海軍の戦没者を、地域別にまとめた数字です。この数字は厚生省援護局のもので、藤原さんの著書からとりましたが、見やすくするために、いくつかの地域をまとめたところもあり、その上で、戦没者数の多い地域だけをその順でならべてみました。
フィリピン
四九万八六〇〇人
中国本土
四五万五七〇〇人
中部太平洋(小笠原諸島を含む)
二六万二四〇〇人
南西太平洋(ソロモン、ビスマルク諸島、東ニューギニア)
二四万六三〇〇人
ビルマ
一六万四五〇〇人
日本本土
一〇万三九〇〇人
蘭領東インド(西ニューギニアを含む)
九万〇六〇〇人
沖縄
八万九四〇〇人
地上戦が戦われた沖縄と、全土の空襲、さらに広島・長崎の原爆で多数の犠牲者をだした日本本土を別とすれば、これらの地域はすべて多くの餓死者を出した戦場なのです。戦争の時間的な順序を追って、見てみましょう。
南西太平洋。ここには、四二―四三年以後、十六万を超える大軍を投入して標高が四千メートルの大山脈を縦断してニューギニアの首都を手に入れようとした無謀なポートモレスビー攻略作戦、合わせて十六万の陸海軍部隊を孤島に置き去りにしたソロモン、ラバウル作戦など、補給無視の悲劇的な作戦があいついで強行されました。
ビルマ。補給無視の暴挙できわだっているのは、四四年、ビルマ方面軍がくわだてたインパール作戦です。十万の大軍に、補給・兵站(へいたん)の用意もせず、密林・山脈・大河を越えて遠くインドへの侵攻を命じたこの作戦は、最初からなんの成算もない暴走でした。映画「きけ、わだつみの声」は、その作戦の悲惨な結果を描いていますが、退却の道々には日本兵の死体が果てしなく残されました。
中部太平洋。四三―四四年に米軍の島づたいの進攻作戦を正面から受けた島々――マキン、タラワ、クェゼリン、サイパン、グアム、テニアンなどでは、日本軍の「玉砕」があいつぎました。太平洋のその他の無数の島々には、なお十数万の日本軍部隊が配備されていたのです。これらの部隊は、本土からの補給は断たれ、現地には食糧確保の条件もなく、戦争の終結まで飢餓地獄に追い込まれざるをえませんでした。
フィリピン。四四年十月、米軍のレイテ島上陸に始まったフィリピン戦は、日本軍にとって最悪の戦場となりました。とくに陸海八万四千の兵力を投入したレイテ島では、転進二千二百余人、生還(捕虜)二千五百余人だけで、死者は七万九千人をこえ、その多くが飢餓によるものだったとされています。その惨状は、大岡昇平さんが『レイテ戦記』で克明に記録しています。同じ運命は他の島々に配備された日本軍をも襲いました。フィリピン戦での日本軍の戦没者約五十万人について、厚生省引揚援護局の公式報告も、「作戦全期間を通じ病餓死に依る損耗は戦死、戦傷死に依る損耗を上廻った」(「比島方面作戦経過の概要」一九五七年)と述べています。
中国戦線。補給や兵站の条件がよいはずの中国戦線でも、最後の二年間には、「戦病死」の数が戦死、戦傷死の数をはるかに上回るという状態が広がりました。この「戦病死」のなかに、栄養失調死が多くふくまれていることは、よく知られた事実となっています。藤原さんは、ここでも、四十五万の戦没者の過半数が「戦病死」、それも栄養失調やそのための体力消耗など「広い意味での餓死」だったと推測しています。
ガダルカナルでの悲惨な経験もむなしく、同じ悲劇が最後まではるかに大きな規模でくりかえされたのです。
|
なにがこの悲惨を生んだか
――なにが、こういうひどい戦争を生んだのですか。
不破 藤原さんは、著書のなかでその問題にも分析をくわえ、机の上の作戦(戦闘行為)をすべてに優先させる「補給無視の作戦計画」、実態調査もせずに現地自活主義を方針とした「兵站軽視の作戦指導」、無謀な戦略をふりまわした「作戦参謀の独善横暴」をあげ、これらの「作戦第一主義」の根底には、兵の生死など意に介しない“人間性の欠如”があった、と指摘しています。
私も、そのとおりだと思います。
作家の水上勉さん(故人)との交友のなかで、戦争体験を聞いたことがあります。彼は、本土で輜重輸卒(しちょうゆそつ)、つまり軍馬の世話をしていたのですが、上官から「お前らは、一銭五厘(召集令状に張られた一銭五厘の切手のこと)で集められた。しかし、馬はそうじゃない。金がかかっているんだ。天皇陛下の馬だ。それを傷つけたら重営倉(軍隊の厳罰)だぞ」と始終怒鳴られ、なぐられたとのことでした。「一銭五厘」という言葉は、どこの軍隊でも聞かれたと言いますが、日本の軍隊にしみ通っていた人命軽視の精神を端的に象徴する言葉でした。
内にたいしても無法・残虐
不破 日本軍は、中国人など攻め込んだ国の人びとに無法・残虐な行為をやってたいへんな惨害をアジア各国にもたらしましたが、その軍隊は、内にたいしても無法・残虐でした。飢え死に必至のところへ平気で大軍を送り込む、武器も食糧ももたせず、精神主義でがんばれと死地にかりたてる、しかも「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」を至上命令の一つとし捕虜になることを禁ずる。米軍正面攻撃の通路となった島々で、いわゆる「玉砕」が連続したのは、その結果でした。
さらに、「人間性の欠如」は、大きな戦争指導にもつらぬかれました。百数十万と推定される餓死者は、戦争の最後の二年間に集中しています。日本の敗色が明らかになってきた時に、戦争指導者たちが戦争終結の決断をしていたら、インパール、フィリピンの飢餓戦線は現出しなかったし、南西あるいは中部太平洋の島々に置き去りにされた部隊も、多くの人びとが生命を失わずにすんだでしょう。さらに、日本国民は、沖縄戦も、全国の都市を焼き尽くした大空襲も、そして広島・長崎も経験することはなかったはずです。
ところが、戦争指導者たちは、その時に、日本国民の生命をまもることを考えないで、反対に「本土決戦」「一億玉砕」を叫んだのでした。これは、自分たちの野望のためには、全国民の生命を犠牲にしてもかまわないという、「人間性の欠落」を極限にまでふくれあがらせた合言葉でした。
“靖国派”は、自分の立場を合理化しようとする時、戦没者への追悼の問題をいつも持ち出します。しかし、戦没者への本当の追悼のためには、日本が経験してきた戦争の現実をはっきり見ることがなによりも重要です。
アジア諸国民にとっても、日本の兵士と国民にとっても悲惨な戦争であった現実を、それが日本の指導者たちの侵略主義、領土拡張主義によって引き起こされた不正義の戦争だったという真実とあわせて、しっかりとつかんでこそ、戦争に生命をささげた多くの人たちの死を無駄にしない、本当の意味での追悼が可能になるのだと、私は思います。
(聞き手・藤田健)
(おわり)
(この連載は、十三、十七、二十、二十四、二十五日付で掲載しました)
日本の戦争指導の仕組み
この連載では、外交・軍事の文書に関連して、御前会議、連絡会議など、日本の戦争の指導機構にかかわる用語が、ずいぶん出てきました。話の途中で説明したこともありますが、最後に、戦争指導のしくみについて、まとめた「用語解説」をしておきます。
統帥権の独立 戦前の日本では、戦争の軍事面は、統帥権といって天皇の大権に属し、政府の権限外におかれていました。この問題で天皇を補佐するのは、陸軍では参謀総長、海軍では軍令部総長でした。国防・用兵などの問題は、この二人がそれぞれ直接天皇に上奏してその承認を得て執行にあたりました。
日中戦争に突入したあと、三七(昭和十二)年十一月、「大本営」が設置されましたが、これは、統帥の側で、陸海軍の共同態勢をはかるために設けられたもので(実質は、陸軍部と海軍部に分かれたまま)、統帥と国政の統合調整には、別個の機構が必要でした。
大本営政府連絡会議 これは、戦争指導の最高機構として、三七年十一月、大本営の設置とあわせて、設置された会議です。法制的な裏付けがないため、決定事項は、それぞれが、その職責に応じて執行したものです。政府側は、事前事後、閣議決定の手続きをとりますから、統帥事項をのぞけば、閣議抜きの決定ということはありませんでした。
重要な決定は、天皇に上奏してその裁可を得ました。そのさいには、首相・参謀総長・軍令部総長そろっての場合が多かったとのことです。
この会議の常時の構成メンバーは、〔政府側〕首相、外相、陸相、海相、〔軍側〕参謀総長、軍令部総長の六人です。このほか、蔵相と企画院総裁が連続的に出席した時期もあり、関係閣僚の臨時出席もあるなど、時に応じての変動はありました。
この連絡会議は、四四(昭和十九)年八月、「最高戦争指導会議」と改称します。
連絡懇談会 大本営と政府との連携を日常より緊密にする意味で、陸軍の要請で、四〇(昭和十五)年十一月から、毎週木曜日に「大本営政府連絡懇談会」が開かれるようになりました。また、参加者を増やした情報交換の会合も、週一回開かれました。
御前会議 天皇の出席のもとに、その面前で特別に重要な国策を決定する会議です。出席者は、連絡会議の構成員に、枢密院議長と陸軍の参謀次長、海軍の軍令部次長がくわわりました。会議の最後におこなわれる枢密院議長と政府および統帥部との質疑応答は、事前の準備なしの即席の問答で、特別の意味をもちました(三国同盟の審議の模様は第三回で紹介しました)。