2006年7月22日(土)「しんぶん赤旗」
「しんぶん赤旗」あす2万号―創刊78年
未来をひらく 歴史をきざむ
「しんぶん赤旗」は二十三日、二万号を迎えます。一九二八年二月一日の創刊から七十八年。歴史の節目、節目で果たしてきた役割を、商業紙との対比で紹介します。
創刊
真実伝える新聞が誕生
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「全国の革命的労働者諸君! 日本共産党の中央機関紙『赤旗』が、ここに生れた」(「創刊の辞」)
一九二八年二月一日、「赤旗」が誕生しました。「創刊の辞」は続けます。「わが『赤旗』は、諸君自身の機関紙である。諸君のあらゆる革命的闘争は、最も敏速に最も尖鋭にこの機関紙に反映させねばならぬ」
当時の日本社会は天皇が絶対的な権力を持ち、国民は無権利状態に置かれ、自由も民主主義もない時代でした。
天皇制や資本主義制度を批判することは犯罪とされ、弾圧を受けました。
党がそれまで発行していた合法の「無産者新聞」は、検閲のため、大事なところは「×××」と伏せ字を使わなければなりませんでした。党の主張をストレートに国民に伝えるため、あえて非合法での発行に踏み切りました。
「赤旗」の創刊によって、党ははじめて国民の前に公然と姿を現したのです。
「君主制の撤廃」「言論、出版、集会、結社の自由」「戦争反対」「植民地の独立」…。創刊号から党の主張を堂々と掲げて真実を伝えつづける「赤旗」の誕生は、人びとに大きな感激をもたらしました。
一方、「朝日」「毎日」「読売」などの大手紙は明治初期、政府から手厚い庇護(ひご)を受けてスタートします。
「毎日」(当時は「東京日日」)は創刊早々、政府の御用新聞、つまり政府の機関紙としての役を買って出ます。初代主筆の岸田吟香(ぎんこう)の「新聞は国家の耳目なり」(『毎日新聞百年史』)という言葉は、その立場を象徴しています。
戦前
侵略戦争反対貫き通す
一九三一年九月十八日、中国奉天郊外の柳条湖で満州鉄道の線路が爆破される事件が起きました。現地におかれた日本軍=関東軍は「爆破は中国軍隊の行為」として、中国への侵略を始めました。政府はこの事件を「満州事変」と呼びました。実は関東軍自体による爆破でした。
大手各紙は「奉軍満鉄線を爆破 日支両軍戦端を開く 我鉄道守備隊応戦す」(「朝日」九月十九日付)、「支那軍満鉄を爆破し奉天の日支両軍激戦中」(「毎日」号外)と関東軍の主張をそのまま報道、自らいっせいに戦争の旗振り役をつとめ、日本を十五年戦争へと導いていきます。
これに対して「赤旗」は、「ブルジョア新聞雑誌は口を揃へて今度の戦争の『原因』を支那兵の『横暴』『日本を馬鹿にした態度』等々に見出してゐる。そして満鉄の一部の破壊を以て『事変の原因』と決めてゐる。然し乍らそれは全然虚偽である。真の原因は日本帝国主義者が当面してゐる危機を切抜ける為に新しい領土略奪の為の戦争を準備してゐたところにある」(十月五日付)と伝えています。この事件の本質を、準備された侵略戦争とずばり見抜いていたのです。
「赤旗」は、戦争の何カ月も前から日本が侵略戦争に乗り出そうとしていることを暴露・警告し続けます。一九三五年二月二十日、相次ぐ弾圧により百八十七号をもって発行不能に陥るまで、戦争反対、植民地独立の立場を貫きました。
憲法制定
国民主権盛り込ませる
戦後、一九四五年十月二十日に再刊した「赤旗」は、日本の出発点ともいえる憲法制定の過程で大きな役割を果たしました。
政府や各党は「天皇主権」の考えを引きずり、「国民主権」があいまいな憲法草案しか出すことができませんでした。そんな中、共産党だけが徹底した「国民主権」を主張。平和的・民主的日本を実現していくたたかいをリードしました。
「赤旗」は、一九四五年十一月二十二日付の再刊第三号で早くも「新憲法の骨子」を発表。「主権は人民にある」「民主議会は主権を管理する」という原則を明らかにします。
その後も議会での奮闘や政府が出した草案の問題点を国民に知らせ、民主主義の実現に向け論陣を張った結果、戦前から一貫して主張してきた「主権在民」の原則が憲法前文に追加されたのです。
60年安保
米従属の本質突く報道
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一九六〇年一月十九日、平和を願う世界と日本の反対世論を押し切り、日米両国政府は日米新安保条約を調印しました。
一九五一年にサンフランシスコ平和条約と同時に結ばれた日米安保条約は、アメリカが必要なら日本のどこにでも基地を置き、使用目的は無制限という従属的・売国的なものだったため、それを「改善する」口実で、条約改定の動きが強まります。
改定交渉が始まると、いち早く「条約は従属と戦争への道」と見抜いて報道してきた「赤旗」は、調印の日の一面トップで「世界の大勢と国民の反対を無視」「戦争と屈従の軍事同盟」と書きました。
実際に調印された新条約は、引き続き米軍に基地を提供し(第六条)、あらたに日本に軍事力の増強(第三条)と日米共同作戦(第五条)の義務を負わせ、さらに経済面での協力まで義務付ける(第二条)というものだったのです。
「赤旗」は、「新安保条約の問題点」「前進する安保反対署名」と連続キャンペーンを繰り広げ、「『赤旗』なしに安保はたたかえない」と言われるほど運動をリードしました。
全国では二千を超える共闘組織がつくられ、運動が広がっていきます。初めは十万ほどだったデモ隊も、六〇年五月の国会強行採決後、人が人を呼んでさらに膨らみ、六百万の運動体に発展しました。
一方、商業紙は安保条約の対米従属の屈辱的な内容についてはほとんど言及しませんでした。五九年四月から十月までの七カ月間に書かれた二百本の論説の中に「はっきりと“改定反対”の論調を打ち出したものは、ついに一紙もなかった」(『新聞協会報』一九五九年十一月九日)。
「赤旗」と世論に押されたマスコミは、やっと強行採決の暴挙を非難し、岸首相の退陣と国会解散を唱え始めます。
しかし、六月十五日、全学連の一部の過激派が国会に突入し、乱闘で女子大生が死亡する事件が発生すると、「朝日」「毎日」「読売」「産経」「日経」「東京」「東タイ」は連名で「七社共同宣言」を発表。「暴力を排し議会主義を守れ」と国民に広がった安保反対闘争を「暴力」視し、政府を助ける役に回ったのです。
安保闘争は、条約批准の阻止こそできなかったものの、岸内閣を退陣に追い込み、アメリカ従属の問題点をはっきりさせることになりました。
ベトナム戦争
現地で米の侵略を取材
第二次世界大戦後、植民地だった国々は、次々と独立していきます。
ベトナムでも、フランスに代わって支配していた日本の敗戦が決まると、人びとは決起し、一九四五年九月二日、ホーチミンはベトナム民主共和国の樹立を宣言しました。
しかし、ソ連と対立し戦後の世界支配を狙っていたアメリカは一九五五年、ベトナム南部にかいらい政権をつくり、ベトナム民族の独立を阻み続けました。
六〇年、南ベトナムの人たちは南ベトナム解放民族戦線を結成してアメリカに対抗し始めました。
六四年八月、アメリカは、米第七艦隊の駆逐艦にベトナム哨戒魚雷艇が発砲したという事件(トンキン湾事件)をでっち上げ、北ベトナム攻撃を開始しました。商業紙はいっせいに「“北ベトナムの攻撃”を確認」(「朝日」八月三日付・夕刊)とアメリカ側に立った報道を展開します。
「赤旗」(八月四日付)は一面トップで「米、北ベトナムを公然と武力攻撃 侵略断じて許さない」と、事態の本質をずばり突きました。
七〇年十一月、米上下院は、大統領にあらゆる軍事的措置を認めた「トンキン湾決議」を失効にし、事件の根拠のなさが明らかになりました。
ベトナム北部への爆撃が激化する中、党と「赤旗」は一貫してアメリカの侵略戦争を批判し続けます。商業紙は依然アメリカ寄りの報道を続け、自民党政府のアメリカ加担にも批判の立場を取りませんでした。
当時、国内の日刊紙で長期間にわたり北ベトナムに記者を駐在させていたのは「赤旗」だけでした。「『赤旗』だけが正確な報道、解説や論評が可能でした。ベトナム情勢は『赤旗』を読まないとわからないと言われたものです」。元「赤旗」ハノイ駐在記者の木谷八士さん(72)は当時をこう振り返ります。
七二年、ニクソン米大統領はソ連と中国を相次いで訪問します。“中国もソ連もアメリカと友好的”とベトナムをけん制するねらいでした。訪中・訪ソの写真入りのビラをまいてベトナムに屈服を迫りました。そんな中、現地NHKラジオのトップニュースが流れます。「日本共産党常任幹部会がニクソン訪中・訪ソを批判する声明を発表したって言うんですよ。この『声明』はベトナム国民にはかり知れない励ましを与えました。誇りに思いましたね」(木谷さん)
「赤旗」はベトナム反戦・支援運動も精力的に報道しました。
“月給の一日分をカンパしよう”という日本の労働者の運動、アメリカ国内にも広がる反戦デモ、ベトナムに送られる戦車を止めた神奈川県のたたかい…。
一九七五年四月、ベトナム全土を解放。ケネディ、ジョンソン、ニクソンの三代の大統領のもとで最高時五十四万の兵力を投入したベトナム戦争はベトナム人民の勝利に終わりました。
格差・負担増・改憲の動き
小泉悪政とたたかう
小泉政治が始まって五年。構造改革の名のもとで、「格差社会」がいよいよ深刻な問題となっています。
アメリカいいなりによる米軍基地再編と「戦争をする国づくり」、大企業・大資産家優遇、成果主義賃金の導入による働く人の生活と健康破壊…。憲法や教育基本法の改悪にも執念を燃やしています。
「こんな政治が続いたら殺されてしまう」「これ以上、自民党・小泉政治を続けさせてはならない」という国民の声が全国に広がっています。
「赤旗」は国民の命と暮らし、平和を守るために努力し続けてきました。
米軍基地再編・強化反対の報道を続けているのは「赤旗」だけです。全国で五千を超える組織が生まれ運動を広げている「九条の会」に至っては、一部地方紙をのぞいて商業紙は小さな扱い。系統的に取り上げているのは「赤旗」しかありません。
教育基本法改悪問題では、志位和夫委員長を先頭にした国会論戦とともに大キャンペーンを展開。今国会での成立を阻止することができました。成果主義賃金の実態を告発するシリーズ「職場」は困難のなかで働く多くの人びとを勇気づけています。
「たたかいの中に『赤旗』あり」。「赤旗」は二万号を迎え、真実を伝える真のジャーナリズムとしてますます輝きを放っています。
自主独立の立場で堂々と
「赤旗」は、これまでどんな大国の横暴にも堂々と意見を主張し真実を報道してきました。自主独立の立場で国際連帯をすすめる、日本共産党が発行する新聞ならではです。
日本共産党は、当時のソ連から干渉を受け党が分裂した「五〇年問題」という苦い経験を持っています。この問題をきちんと総括して統一を勝ちとり、“日本の運動は日本自身が考えて決める”という自主独立の立場を決めた歴史があります。
その後も、ソ連・フルシチョフ政権や中国・毛沢東政権からの激しい内政干渉に、き然と立ち向かい打ち破ってきました。
現在、イラク戦争などアメリカが世界ですすめる無法に対しても、反対の立場で論陣を張っています。世界情勢をアメリカの「窓」からしか報道できない商業紙とは対照的です。
先日の北朝鮮のミサイル発射事件をめぐっても、国際ルールを無視した暴挙を批判し、「日朝平壌宣言」の立場で六カ国協議の席に戻るよう主張しました。その主張は国連決議にも反映されています。
タブー打破 世論動かす
日本のマスコミ界には「これだけは絶対書けない、書かない」という“タブー”があります。“菊タブー”、“鶴タブー”(創価学会のマークが黒い鶴丸であることからこう呼ばれた)、“角タブー”、“「解同」タブー”…。タブーのない「赤旗」は、真実を堂々と書き、タブーを打ち破る報道で世論を動かしてきました。
出版妨害をスクープ
一九六九年、公明党・創価学会による藤原弘達著『創価学会を斬る』の出版妨害事件が表面化します。
十二月十三日夜、NHK総選挙特集番組で、共産党の松本善明氏が公明党の出席者に事実関係をただすと、公明党側は即座に否定しました。
「赤旗」は著者の藤原弘達氏にインタビューし、妨害の事実を明らかにしました。
藤原氏によると――。
ある秋の日の早朝、藤原氏のもとへ自民党の田中角栄幹事長から「出版をやめてくれないか」と電話がかかってきました。公明党の竹入義勝委員長からの要請だと言うのです。
その後、料亭に二回呼ばれ、田中氏から「初版分は全部買い取る。損はさせない」と強い説得を受けます。二回目の時は、階下に竹入委員長が来ていた様子で、話がついたら三人で宴会までやるおぜん立てのようだったといいます。
藤原氏は断ります。すると、書店には並べてもらえない、広告も軒並み断られる…。
「赤旗」は十二月十七日の一面にこのスクープを掲載しました。
「公明党 言論・出版に悪質な圧力 田中(自民)幹事長を仲介に」
これを契機に国会でも大問題として取り上げられ、共産党をはじめ、社会党、民社党も追及しました。不破哲三議員(当時)は、七〇年二月二十七日の衆院予算委員会で、佐藤首相を追及します。こうして公明党・創価学会は“反省”を表明せざるを得なくなりました。
“首相の犯罪”を追及
「庶民宰相」ともてはやされ、一九七二年に首相の座に就いた田中角栄氏もまた、マスコミ界のタブーの対象でした。
角タブーは首相就任のはるか以前から始まっています。
戦後復興期――政治と企業の癒着が骨太く横たわっていた時代。長く続く自民党政治の後継者争いの中で、「数は正義なり」と“金の力”と“支配する力”を駆使してのし上がってきた典型的な人物が角栄でした。
「オレは各社全部の内部を知っている。記事を中止させるのも簡単だ」(「赤旗」七二年十月十日付)
この言葉に象徴されるように、「土地転がし」で手に入れた都心の一等地を大新聞社やテレビ局の社屋建設用地に払い下げてやり、記者にはプレゼント攻勢で“貸し”をつくる…。マスコミも思いのままに動かしてきました。本来“政敵”のはずの社会党や公明党までもが角栄と関係を築いていったのです。
角タブーを打ち破る口火を切ったのは角栄による信濃川河川敷買い占め事件を暴いた「赤旗」日曜版六六年十月二十三日号でした。架空の会社を作って開発が予定されている土地を買い占めていたことを突き止め、国会議員と連携して角栄を追及。翌月、角栄は「まさか共産党にやられるとは」とせりふを残し、幹事長を更迭されました。
「飛ぶ鳥落とす勢いの政治家が相手ですから絶対間違えちゃいけないし、そりゃあ緊張したしこわかった」
この事件を皮切りにスクープを連発した関口孝夫さん(前編集局長)は、当時の心境をそう語ります。
愛人邸建築疑惑(「赤旗」七二年十一月八日付)では、「赤旗」一面報道と松本善明氏の国会質問のWパンチで、絶頂にあった角栄人気は失墜します。
「『赤旗』だけが“金”も“脅し”も効かなかったんです」と関口さん。
一般のマスコミが角タブーに触れ始めたのは、角栄が落ち目になった七四年、ようやく月刊雑誌が書いてから。七六年、ロッキード事件をとどめに角栄は政界の表舞台から姿を消しました。
「解同」の暴力恐れず
「先生が殺される」「助けて」――。生徒たちは必死で警察に訴えました。
一九七四年十一月二十二日、兵庫県但馬(たじま)地方で起きた八鹿(ようか)高校事件。それは重軽傷者五十八人、うち数人が危篤に陥るという、教育史上例のない事件でした。
八鹿高校の教職員六十人が集団下校中、「解同」(部落解放同盟)の暴力集団数百人に襲われ、体育館に監禁されて十三時間に及ぶ残虐な集団暴行を受けたのです。
「解同」は七〇年代半ば、各地で無法な暴力行為を繰り広げていきます。「部落民以外はすべて差別者」と、意見の違う者を暴力や糾弾によって屈服させます。自治体を思いのままにあやつり、同和対策予算を食い物にして利権をのみ込んでいきました。マスコミは報復を恐れ、報道することがありませんでした。
NHKは八鹿高校事件を丸三日無視、「朝日」(全国版)は一週間黙殺しました。
これに対して「赤旗」は、事件翌日には第一報を流しました。
日本共産党は「無法に対してたたかおう」と、命がけで地元に応援団を送り、「赤旗」はその活動を連日伝え続け但馬を夜明けに導きました。のちにこの事件は「解同」の有罪が確定しています。
59年 日曜版の誕生
党と読者のきずなを広げる
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「読者に『おもしろく、ためになり』『未来に希望をもち、日々の生活に勇気をもてる』ような内容をめざす」(第七回党大会三中総後の五八年十二月の幹部会)
一九五九年三月一日、「赤旗」日曜版が誕生しました。
創刊号は八ページ建てで三万部を発行。一面に女優のブリジット・バルドーが登場するなど、写真を大胆に使った多彩な紙面は大きな反響を呼びました。
日曜版の創刊は、党と読者のきずなを強め飛躍的に広げる上でも、機関紙活動を党の財政活動の基盤とする上でも、画期的な意義を持つことになりました。
弾圧下の印刷所
平均寿命3カ月
創刊時ガリ版印刷で出発した「赤旗」は、一九三二年四月から活版印刷になります。当時の「赤旗」印刷所の平均寿命は三カ月。警察に見つかってはつぶされ、そのたびに新しい印刷所を開拓していきました。
そんな中、一年二カ月も印刷を続けられたところがありました。東京・池袋の交番のまん前の小さな印刷工場です。「おやじさん」は、印刷しているのが「赤旗」だと気付きながらも、最後まで何も言わずに協力してくれました。
工場を選ぶ時は、発見されないよう組み版、紙型、鉛版、印刷と別々の工場に分離して発注し、一カ所での作業時間を短くしました。
連絡は喫茶店。ひそひそ話すと怪しまれるので、自然な会話に聞こえるよう悩んだ末、洋服屋になりすましました。原稿が注文伝票、割り付けが寸法書き、組み版が裁断、校正が仮縫い、印刷が本縫い、用紙が生地、新聞が背広…という具合です。
「革命」などよく使う文字の鋳型は、本数も必要な上に損傷も早く、まとめ買いすると目立つので、「皮革」と「生命」をそれぞれ別の活字屋から買いました。
刷り上がった「赤旗」は、靴の中敷きの下や赤ん坊の腹巻きに忍ばせたりデパートの包装紙に包んだりして手から手へ渡されていきました。
最高時は七千部。ぼろぼろにすり切れるまで何人もが回し読みし、数万部の威力を発揮しました。(林田茂雄『わが若き日の生きがい 「赤旗」地下印刷局員の物語』による)
赤旗の紙面の変遷
*戦前*
手書きの謄写版刷り時代…号を重ねるごとに印刷技術もアップ。大衆化を目指して取り入れた挿し絵や三色刷りの技術、加えて付録や号外の発行…と、めざましい発展には特高もびっくり。(『「赤旗」の六十年』から)
*戦後*
日曜版…「大衆の中へ」と創刊(59年3月1日)
「です・ます」調の採用…「親しみやすい紙面へ」新聞史上初(65年1月1日)
テレビ・ラジオ欄…最終面掲載開始。赤旗が一番乗り(66年3月1日)
スポーツ面…「一紙で間に合う紙面に」と新設(68年11月1日)
点字「赤旗」…創刊(75年1月20日)
活字の大きさ…他紙に先がけ20%大きくなった(85年3月23日)
日曜版タブロイド化…「手軽に読める日曜版」へ(97年4月1日)
カラー化…茶摘みの写真のきれいな緑が話題をさらった…(00年5月1日=日曜版は5月4日号から=)