2006年4月7日(金)「しんぶん赤旗」

女性国会議員第1号・95歳

松島(旧姓・柄沢)とし子さん

女性参政権行使から60年

人々に希望の灯をともす

党とともに歩んで


 まつしま としこ 1911年、札幌生まれ。46年の総選挙で、当選した日本共産党の5人の議員のうちの一人。北海道1区(定数14)から立候補し、44165票を得て、12位で当選。49年、再当選。遊説中のケガで議員を引退し、党中央委員会婦人部勤務。現在、 亡夫・松島治重氏(日本共産党名誉幹部会委員)の郷里・富山県に在住


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左は堀口清子さん(元富山市議)。「この人も中国からの引き揚げ者で苦労したのよ」と松島さん

 一九四六年四月十日は、戦後最初の総選挙で日本の女性が初めて主権者としての一票を行使した日です。その選挙で、当選した女性三十九人のうちの一人が日本共産党の松島(旧姓・柄沢)とし子さん。女性議員第一号です。九十五歳になる現在は、富山市内の老人保健施設に入所され、地域の人々に支えられ元気に暮らしています。(須藤 紀江)


──立候補されたときは、戦争が終わった直後で、国民生活が本当に大変なときでしたね。

みんなで国民が主人公の国をと

 松島 私の北海道の選挙区は炭鉱の多いところですが、そこをずうっと演説してまわったんです。終戦になると、資本家は生産をサボタージュして、労働者は失業していく。これからどうなっていくのかわからないと不安で、みんなしょんぼりと下を向いているんです。でも、「ポツダム宣言で日本が民主化されることになりました。労働者も人間として人格が認められ、資本家に勝手に首を切られたりしなくなる。そんな法律もできました。みんなで国民が主人公の国をつくりましょう」と訴えると、こうべがだんだん上がってきて、帰るころには目に見えて元気が出てくる。党は人々に希望の灯をともして歩いたんです。労働組合も燎原(りょうげん)の火のように増えていきましたよ。

──当選されたときはどんな思いでしたか。

 松島 私自身も戦災者でしたから、友人にもらった上着とモンペで初登院しました。北海道はいくらか食料はあったけれど、東京はまったくの焼け野原でしょ。親を戦災で失った飢えた子どもたちがたばこを拾ったり、靴磨きをしたり…。あかにまみれた子どもたちが雨露をしのいで地下鉄構内に寝ていたり…。そういうことを一日も早くなくさなければならないという思いでいっぱいでしたね。

──本会議での演説を妨害されたこともあるそうですね。

 松島 兵士の残留問題をとりあげたときです。侵略戦争に国民をたくさん動員しておいて、えらい人だけは飛行機で帰ってきて、兵士は南の島なんかにたくさん取り残されている。食料もなくて大変だろうから、政府が連合国に働きかけて一日も早く祖国へ帰れるようにしてほしい、ってね。そうしたら、「“侵略戦争”と言ったのがいけない」といって、私をひきずりおろそうと自民党の議員(当時の会派は「北海政治」)が演壇に駆け上がってきたんです。その後の報道でわかったことですが、外地の戦死者の七割が飢え死にだったそうです。本当に痛ましいことです。


戦争に道開く改憲やめさせたい

──今年は、女性参政権行使から六十年ですね。

まだひどい女性差別なくしたい

 松島 もう六十年になるんですね。女性大臣なんかは出てきましたが、職場でも、農村でも、婦人の働きに対して適切な評価がされていないことに、憤慨しています。実力があっても、男性ほどは報酬が上がっていかない。この問題は忘れないで、いつも強調してとりくんでください。

──戦前はどんな活動をされましたか。党との出合いは?

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戦前の弾圧で倒れた同志の墓参り。治重さんと

 松島 戦前は札幌高等女学校卒業後、道庁勤務をへて、全協(日本労働組合全国協議会)の運動に参加しました。大衆の困っていることを取り上げて運動していると、他の政党は全然取り上げてくれず、日本共産党だけがまじめにとりくんでくれたので、自然と党に近づいていきましたね。

 今も昔も、日本共産党以外の政党は財界からお金をもらって政治をしていますね。そういう党のやることは大衆の生活に基づいた政策ではないんです。そこに国民の生活が苦しい原因がある。党はそれとたたかっているんです。そういう党に入ってずっと活動してこれたことを本当によかったと思っているんですよ。

 あと、これだけは許せないと思っているのは、憲法や教育基本法を改悪しようとする動きです。戦争への道を開くことになりますから、絶対、反対! なんとしてもやめさせたいですね。


取材を終えて

 「耳がすっかり遠くなってしまって…」(堀口清子さん・元日本共産党富山市議)ということなので、紙に質問を書いてのインタビューになりました。でも、どの質問にも、張りのある声でしっかりと答えていただきました。ときおりアハハハハという大らかな笑い声もまじえながら──。

 十二年前に亡くなった夫・治重さんの思い出を尋ねると、「よく、労働者のところに泊まりこんで話を聞いていました。その声を党活動に生かすことをいつも心がけていましたね」。隣に座る堀口さんが「いつもいっしょで二人は仲良しだったよねー」と耳元で大きな声で語りかけると、瞳がきらっと輝いて笑みがこぼれました。

 別れ際、松島さんは「女たちのために、しっかりとがんばってくださいね」と、記者の手をぎゅっと握ってくれました。


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