2006年2月24日(金)「しんぶん赤旗」
「ピープルズ・パワー」
独裁打倒から20年
フィリピン
アジアの平和に貢献
貧困と汚職に不満
二十五日は、フィリピンの「ピープルズ・パワー(人民の力)」によってマルコス独裁政権が倒れて二十年になり、同国のメディアではさまざまな特集が組まれています。この機会に、同国の歴史や現状を紹介します。(宮崎清明)
二十二日付のフィリピン各紙は、一九七二年に戒厳令を布告し十四年間も米国に支えられていたマルコス軍事独裁政権を崩壊させた政変の経過を詳しく伝えるとともに、次のように報じました。
「フィリピン人の精神の強さと自由のためにたたかい続ける価値を思い起こし、再燃させよう」(英字紙マニラ・ブレティン社説)、「ピープルズ・パワーは、独裁を終わらせた。しかし、貧困や汚職は続いている」(インクワイアラー紙)
民主化は定着
一九八七年に制定された新憲法のもとで大統領の直接選挙は三回おこなわれ、上下両院と地方自治体の首長、議会の選挙も三年ごとに実施されてきました。
一九九八年の大統領選挙では、「貧者のための政治」を訴えたエストラーダ氏が大統領に当選。しかし、違法賭博疑惑などで弾劾裁判にかけられ、二〇〇一年一月、同政権は「第二のピープルズ・パワー」によって崩壊しました。
このあとアロヨ氏が副大統領から昇格しました。
アロヨ大統領は二〇〇三年三月、米国のイラク攻撃を支持、部隊を派遣しました。しかし翌年七月、イラクでフィリピン人運転手が武装勢力に拉致されたのを機に、国民の撤兵要求が広がり、部隊を撤退させました。また、かつては領有権をめぐり緊張関係にあった南シナ海で、中国やベトナムとの石油の共同開発を進めています。
同時に、二〇〇五年六月、アロヨ大統領の夫と長男の賭博献金疑惑が発覚。また二〇〇四年五月の大統領選挙で自身が開票作業に圧力をかけた疑惑が噴出、閣僚など七人が辞任しました。この問題では、真相究明はいまだ進まず、これまでの「ピープルズ・パワー」の一翼をになってきた労働組合や市民団体、政党から退陣を求められています。
フィリピン憲法は、「国策としての戦争の放棄」や「非核政策の遂行」をうたっています。
「ピープルズ・パワー」は、一九九〇年代初め、かつて米国のベトナム侵略戦争の足場となった米軍基地を撤去させる運動を生み出しました。
その後、フィリピンはタイとともに非同盟諸国会議の正式加盟国となり、東アジアでの「平和の共同体」創出への取り組みのなかで一定の役割を果たしています。
他国へも波及
「ピープルズ・パワー」は、韓国、タイ、インドネシアにも波及し、アジアでの民主化を促進しました。韓国では一九八七年、十六年ぶりに大統領直接選挙が行われ、タイでは一九九二年、前年のクーデターで軍政を敷いたスチンダ陸軍司令官が首相に就任しましたが大衆行動によって辞任、民政に移行しました。
インドネシアでも、一九九八年、三十一年に及んだスハルト独裁体制が国民の運動によって打倒され、二〇〇四年、直接選挙による大統領が誕生しています。
フィリピンの「ピープルズ・パワー」 一九八六年二月、マルコスは、八三年八月のベニグノ・アキノ元上院議員暗殺事件で高揚した退陣要求をかわすため、くりあげ大統領選挙を実施しました。マルコスと野党統一候補コラソン・アキノ夫人の双方が勝利を宣言し、緊張が続きました。マニラの国軍基地にたてこもった当時のエンリレ国防相とラモス国軍参謀次長が二月二十二日、マルコスに対し退陣を要求。一方、カトリック教会が、マルコス反対、二人への支持を表明、ラジオで国民に決起をよびかけました。基地前のエドサ大通りはアキノ支持の民衆で埋まり、マルコス一家は大統領宮殿から米軍ヘリコプターでハワイへ脱出、政権が崩壊、二十五日にアキノ政権が発足しました。