2006年1月5日(木)「しんぶん赤旗」
マスメディア時評
「木鐸」はどこにいった
かつて新聞は「社会の木鐸(ぼくたく)」と呼ばれていました。「木鐸」とは、昔の中国で法令などを市民に触れ歩くさい鳴らした大きな鈴で、新聞が社会に向かって警鐘をならし、その行く手を示すという意味です。新聞が社会を指導するなどとはおこがましいという批判はありますが、事実を伝え権力の暴走を監視するという、ジャーナリズムのあり方にかかわる言葉ではあります。
こんな古い言葉をあえて持ち出したのも、新年の各新聞、とくに全国紙の社説からは、現状への鋭い告発も、国民の立場に立ってどう打開するかの方向性も、積極的に読み取れるものはほとんどないからです。
■市場原理主義へ批判の目も
たとえば「朝日」の一日付社説は、小泉首相の靖国神社参拝がもたらした中国、韓国との摩擦や、「勝ち組」「負け組」と呼ばれる国民の間での二極分化を取り上げてはいます。しかし「武士道をどう生かす」というタイトルで論じているのは弱者への「仁」や「思いやり」などといったお説教で、首相が靖国参拝を続けるのは「武士道の振る舞いではあるまい」といったえん曲な批判にとどまっています。
「毎日」一日付社説も小泉改革について、「どれひとつ確実な結果がでたものはない」などと批判してみせます。しかしその立場は、小泉首相がすすめてきた郵政、年金、財政など国民に痛みを押しつける「改革」をいずれも支持したうえ、結論は小泉首相が「自分自身で成し遂げるのが政治家として首相として筋」ということです。これでは結局小泉改革を後押ししているだけということになってしまいます。
新年の社説では、「読売」や「日経」がそろって「人口減少時代」の到来を取り上げています。少子化問題の深刻さを反映したものではありますが、子どもを安心して産み育てることができない少子化の根本原因にメスを入れる点では不十分です。人口減少社会では「消費税問題を避けていては、なんの解決にもならない」(「読売」)と増税を推進するようでは、国民が納得できる打開の方向を示しているとはとてもいえません。
このなかで「読売」社説が、「市場原理主義への歯止めも必要だ」とサブタイトルを立て、企業のゆきすぎた行動に批判を向けているのは注目されます。
■政府の政策を露骨に賛美へ
見過ごせないのは、日本のマスメディアで現状への告発や権力への監視がますます後退しているなかで、「産経」など右派のジャーナリズムを先頭に、政府の政策をあおりたてる論調がいよいよ露骨になっていることです。
外交問題では一日付一面に「年頭の主張」をかかげた「産経」が、小泉首相が中国の批判に耳を貸そうとしないことを「『モノを言う』外交の一端をようやく見せた」と賛美するとともに、「アジア外交を進める上でも、根幹にあるのは日米同盟」と主張しているのが目を引きます。
昨年十一月の日米首脳会談後の記者会見で、「日米関係がよければアジアの各国とも良好な関係が築ける」と露骨な日米関係一辺倒の立場を表明してみせたのは小泉首相です。この主張がどんなに間違っていたかは、その後のアジア外交で小泉首相が中国や韓国からきびしく批判されただけでなく、当のアメリカからも懸念が表明されたことでも明らかです。
にもかかわらず中国に対抗するため日米同盟の強化をと主張するこれらの右派ジャーナリズムは、社会の「木鐸」どころか、鳴り物入りで国民をまちがった方向に導く最悪の音頭取りとでもいうべき存在です。
全体としてジャーナリズムのあるべき姿とはほど遠い新年の各紙の紙面のなかで注目されたのは共同通信の配信でいくつかの地方紙に載った、評論家・加藤周一氏と国際政治学者・藤原帰一氏の対談です。
加藤氏は「一九三〇年代末を思い出す」とのべ、「小さな変化が徐々に起きている」間に「精神総動員やブレーンウオッシング(洗脳)が有効に働いているという状況だった」と、今日との共通性を警告します。藤原氏は日米開戦前夜の大政翼賛体制と対比しながら、「今は『戦争なき近衛新体制』のよう」だと受け止めます――。
こうした現状への鋭い警告を紙面に貫いてこそ、新聞とりわけ全国紙も「木鐸」の名に値するといえるのではないでしょうか。戦後六十一年を迎えた新しい年に、マスメディアもその役割が問われています。(宮坂一男)