2006年1月1日(日)「しんぶん赤旗」

53年ぶりのほおずり

印パ・カシミール地方

平和をかみしめる


写真

(写真)抱き合うバノさん(右)とナジーラさん

 バノ・メガムさん(71)の故郷は車でほんの一時間の距離です。ただそこには、行く手を阻む「停戦ライン」という見えない大きな壁がありました。ここは、インドとパキスタンが領有権を主張し合い、戦火も交えたカシミール地方です。問題はまだ解決されていませんが、両国が進める和平政策により、一九五二年以来、五十三年ぶりに故郷の村(パキスタン側)に里帰りすることができました。彼女はいま、平和の尊さをかみしめています。(パキスタン側カシミール・ムザファラバード=豊田栄光、写真も)

■誰だかわからなかった

■姉妹も同然

 バノさんが滞在中のテントに、幼なじみのナジーラ・ベガムさん(65)が、やって来ました。

 「また来たよ」

 バノさんの横に座ると二人は抱き合い、ほおを寄せ合いました。過ぎ去った五十三年の月日を取り戻すには何度でも会いたい。そんな思いが切々と伝わってきます。

 バノさんが故郷チャコティ村に帰って来たのは昨年十二月一日。この日は二十一日。何度会っても胸がつまるようです。「疲れても、疲れても、疲れても、それでも話がしたい」。ナジーラさんの目には、うっすらと涙が浮かんでいます。

 二人は少女時代、姉妹も同然でした。

 「ナジーラとは家が近所でね、ヤギにえさを与えるために、二人でよく山に入ったんだよ」

 「山でよくご飯をいっしょに食べたね。でも、さすがに五十三年ぶりに会ったときは、誰だか分からなかったけど」

■最後の言葉

 四七年、インドはヒンズー教徒中心、パキスタンはイスラム教徒中心の国として、イギリスから独立しました。

 しかし、四八年、カシミール地方の帰属をめぐり両国は戦争に突入しました。四九年、両国が当時、実効支配していた地域にあわせ、停戦ラインが引かれました。

 バノさんは五〇年、戦争難民としてパキスタン側で暮らしていた男性と結婚しました。五二年、難民の帰還が認められたため、夫とともに停戦ライン近くのインド側・チャクラ村に移住しました。そこに夫の土地があったからです。

 「歩いて五時間で着いた」。当時のバノさんにとっては、隣村に引っ越す程度の感覚でした。

 「でもね、出発の朝、父親が神妙な顔つきで『神のご加護がありますように』と言ったんだよ。いま思えば、もう会えないと悟っていたようだ」

 これが最後の別れでした。父親は三十年前に死亡していました。

■二つの祖国

 バノさんは移住後、“二つの祖国”のはざまで苦しみます。インドとパキスタンは六五年と七一年、カシミール地方の帰属をめぐり、戦争に訴えたのです。

 インド軍が放つ砲弾を見るたび、バノさんの心はかき乱されました。

 「この弾に当たって、家族や友だちが死んだかもしれない…」。耐えられない苦痛でした。

 パキスタン軍の砲弾から子どもを抱きかかえ逃げるたびに思いました。

 「祖国がなぜ私と子どもの命を奪おうとするのか…」。悲しくてたまりませんでした。

■地震で意気消沈したが

■曲折を経て

 いくつかの曲折を経てインドとパキスタンは和平へと向かいます。二〇〇三年十一月の停戦後は、離散家族の再会を容易にするバスの運行の検討が始まりました。

 そして昨年四月、停戦ラインをまたいでカシミール地方の中心都市スリナガル(インド側)と、ムザファラバード(パキスタン側)を結ぶ直通バスが実現しました。和平の進展を象徴することから「平和のバス」と呼ばれています。

 パスポート不要、許可書だけで停戦ライン越えの往来が可能となりました。それまでは、パスポートと査証を取り、スリナガル→ニューデリー→ラホール→ムザファラバードと、丸一日がかりの旅でした。直通バスなら三―四時間です。

■最後の機会

 バスは、パキスタン地震発生二日前の昨年十月六日までに十四回運行されました。パキスタン側から三百五十七人、インド側から三百十六人が越境しました。地震後も四回運行しています。

 乗車するには、政府に申請してから半年ほど待つ必要があります。バノさんは息子のモハマドさん(48)とともに、昨年六月二十一日に申請しました。

 そして地震―。自宅は倒壊し、営んでいた雑貨屋の店舗もがれきと化しました。そんな中で許可は下りました。

 「こんな大変なときに行けるのか」。モハマドさんは悩みました。バノさんの父親の死は、平和のバスの乗客がもたらす情報で確認済みでした。母親は若くして病死。バノさんの肉親は四人の兄だけです。しかし、その生死は不明でした。

 「母はもう七十歳を超えた。里帰りはこれが最後のチャンス。地震で意気消沈している母をなんとか励ましたい」。息子としての決断でした。

■足が震えた

 「停戦ラインの橋を歩いたときは少し足が震えたよ。でも本当にうれしかった」とバノさんは笑います。

 停戦ライン上の橋は崩壊。現在は歩行者用の簡易橋だけが設置され、バスは橋の両側で乗り継ぐ形となっています。

 故郷のチャコティ村は停戦ラインから一キロ。「こんなに近いのに五十三年もかかった。もっと早く来れていれば…」。バノさんは悔しかったのです。父親の墓参りに行ったとき、四人の兄たちの死も知らされました。最後の一人は十年前に亡くなっていました。

 「でもね、おいに初めて会えたんだよ。兄たちの面影があるんだ」

 おいの一人バシールさん(52)は地震で妻と娘を亡くしました。

 「おばさんといとこが同時に現れたんだ。なんだか勇気づけられた」

 もう一人のおい、シャフィークさん(42)も「暗い話が多いときに、明るい話題は何よりもうれしい」といいます。

■戻ってくる

 再びバノさんと幼なじみナジーラさんの会話です。

 「ナジーラも戦争のときは何度も塹壕(ざんごう)に逃げ込んだのかい」

 「もうだめ、って思ったことは一度あった」

 「いまの平和が永遠に続いてほしいね」

 バノさんはインドの国語ヒンディー語も、パキスタンの国語ウルドゥー語もうまく話せません。カシミール語だけが自由にしゃべれます。それで生きてこれたのは、「分断されてもカシミールはカシミールだったからだ」と考えています。そのカシミール語で、五十三年ぶりの故郷について話してもらいました。

 「チャコティ村は昔とはまったく変わっていたよ。人も山も木々も道もみんな。でもね、地震で家が壊れ、村人が財産を失くしたところはインド側の村とまったく同じ。協力してまた一から築けばいい。生きていればいいことはあるんだから。この私みたいに」

 バノさんと息子のモハマドさんは十二月二十九日、平和のバスに乗ってインド側の村に帰っていきました。「また戻ってくる」との思いを抱きつつ。


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