2005年11月24日(木)「しんぶん赤旗」

ニュルンベルク裁判から60年

ドイツで記念集会

平和など国際法に指針


 ナチスの戦争犯罪を裁くため一九四五年に開始されたニュルンベルク国際軍事裁判から六十年を記念して、ドイツ南部ニュルンベルク市で十九、二十の両日、「ニュルンベルク裁判の遺産―ニュルンベルクからハーグへ」記念集会が開かれました。当時の検察側、弁護側、記者などの証言者、ハーグの国際刑事裁判所(ICC)関係者も参加。現在のICC設立へとつながるニュルンベルク裁判の発展が語られました。集会は同市が主催しました。(ニュルンベルク=片岡正明)


 集会が催されたのは、六十年前に裁判が開かれた地方裁判所第六百法廷。現在も地方裁判所として使われている三階の建物の最上階にあり、当時の姿をとどめています。

 ニュルンベルクは、ナチスが一九三三年から三八年まで連続して党大会を開き、ナチスの本拠となった場所。ユダヤ人とドイツ人の結婚を禁止しユダヤ人の市民権を奪った法律がニュルンベルク人種法と名づけられるなど、ナチスゆかりの土地です。連合軍はナチス・ドイツの犯罪を、あえてここで裁きました。

■事実を目の前に

 当時、米国のロバート・ジャクソン主席検事の補佐官を務めたホイットニー・ハリス氏(93)は、ルドルフ・ヘス・アウシュビッツ収容所所長の尋問の様子を「まるで商売をやっている店員のような顔で質問に答えた。何人を殺したのかと問われると二百五十万人だとこともなげにいった」と証言。ユダヤ人虐殺がいかに安易に行われていたかを強調しました。

 通信社の記者として法廷の様子を伝えたズザンネ・パチェンスキさん(82)は、「ナチスの指導者たちは戦争に負けるまで、まるで神様のようにふるまったが、普通の人たちだった。どうしてドイツ人はこの人たちに従ったのか」と発言。「裁判でナチス時代に何が行われたのか。どうして、こんなひどいことが可能になったのかという事実を、ドイツ人の目の前に明らかにしたことはとても重要だった」と語りました。

■戦争始めたのは

 ナチスの文書を翻訳し裁判で証拠としたアルノ・ハンブルガーさん(82)は、ユダヤ人として迫害され肉親を失いパレスチナに逃れた経験を証言。「被告人たちは『命令に従っただけだ』と言って自分たちがしたことに責任をとろうとしなかった。普通のドイツ人もユダヤ人に何が行われていたかを戦時中から知っていた」と強調しました。

 ICCの裁判官のハンスペーター・カウル氏は、「ドイツでもドレスデン空襲などの大きな被害があるが、戦争の原因と結果を取り違えてはいけない。侵略攻撃戦争を始めたのはナチス・ドイツだ」と指摘。また「ICCは平和に対する罪、人道に対する罪というニュルンベルク裁判の遺産を受け継いで発展している」と述べました。

 ドイツ連邦政府からもアルフレッド・ハルテンバッハ法相秘書官が出席。「ニュルンベルク裁判は東京裁判(極東裁判)の手本となり、ユーゴスラビア国際法廷、ICCへと発展した。国際法上にニュルンベルク原則がうちたてられた」と強調しました。

■ナチスの戦争犯罪裁く

 ▼ニュルンベルク裁判 ニュルンベルク裁判は、第二次世界大戦でのナチス・ドイツの戦争責任を追及するために連合国の合意で設置された国際軍事法廷。戦争を遂行した国家、軍、ナチ党、経済界の指導者二十四人を重大戦争犯罪人とし、一九四五年十月十八日にベルリンで開廷。その後十一月二十日にドイツ南部のニュルンベルクに場所を移し、四六年十月一日に判決が下されました。強制収容所で残虐行為を働いたナチ親衛隊、政治犯を弾圧した秘密警察ゲシュタポも組織として訴追の対象となりました。二百四十人の証人が証言。宣誓供述書など三十万を超える証拠を審理しました。ヒトラー(総統)、ゲッベルス(宣伝相)、ヒムラー(内相)は自殺したため不起訴。ゲーリング(空軍相)、リッべントロープ(外相)ら十二人に死刑、ヘス(ナチ党副総裁)ら三人に終身刑などの判決が下されました。

 


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