2005年11月24日(木)「しんぶん赤旗」
米軍再編 基地の街から
米軍被害の悪夢ふたたび
茨城・百里
米軍再編で米軍F15戦闘機の訓練移転候補地にあがっている航空自衛隊百里基地(茨城県小川町)。関係自治体は「これ以上の騒音は困る」と受け入れ反対の声をあげています。ひたちなか市にあった米軍水戸射爆場によって強いられた数々の悲しい記憶が、再びもちあがった訓練基地化への怒りと不安につながっています。(山本眞直)
米軍被害は県民のなかにつらい記憶として刻まれています。
ひたちなか市阿字ケ浦の海岸。一九七三年三月まで米軍水戸射爆場でした。
朝鮮戦争、ベトナム戦争に出撃する米軍機の爆撃・射撃訓練が激しさを増し、模擬爆弾投下や機銃射撃の誤爆事故が相次ぎました。
射爆場を抱えていた旧勝田市(現ひたちなか市)の統計などによれば、米軍機による事故は二百二十件で、米軍車両による交通事故も含め住民二十人が死亡しています。
ひたちなか市観光協会の有力者(74)が「忘れてほしくない」と厳しい口調で語った米軍被害はあまりに悲惨です。
五〇年七月二十日、海水浴後に小川で塩水を落としていた小学校四年生の黒沢嘉代子ちゃんの腹部を米軍機の機関砲が貫通。小川が流れた血で赤く染まりました。
「嘉代子ちゃんは知人の子どもで、すぐに私の家の縁側にかつぎこんだが、おなかが痛い、痛いと泣いていた。翌日、病院で死んだ」
その一年前には「親せきが米軍の流弾で死んだ。戦争でも死ななかった男が殺されたんだよ」。
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五七年八月二日、超低空飛行の米軍機が県道を自転車で通行中の母子を殺傷しました。
事件現場にかけつけた日本共産党北部地区委員会常任委員の辻井英雄さん(58)はいまもその時の光景が目に焼き付いている、と言います。
「小学生だった私は海水浴から家に帰る途中で、赤いふんどしのままおとなたちについていった。サツマイモ畑が飛行機の車輪でなぎたおされ、被害者の北条はるさんの体がばらばらにちらばり、警察か消防の人が長火ばしで肉片をひろっていた。息子さんは重傷ながら助かったが、イモの葉が血で赤くなっていた」
霞ケ浦の対岸美浦村では六〇年九月六日、米軍機が落とした燃料タンクの下敷きになり根本秀一ちゃん=当時(6っ)=が即死しました。遺族の一人が重い口を開きました。「思い出すのもつらい」
射爆場は住民の粘り強い運動で七三年に返還されましたが、百里基地は九〇年三月に米軍との共同使用になりました。
■町長、町議全員で反対伝える
十一月二十一日。さいたま市のさいたま新都心合同庁舎二号館七階にある東京防衛施設局に、百里基地の地元・小川町の伊能淑郎町長、町議十八人の全員の姿がありました。訓練移転反対を正式に伝えるためです。
百里基地の昨年の飛行回数は四万四千回を記録、過去十年間で最多です。居住地域の環境基準である70W値(うるささ指数)をこえて小川、鉾田での測定値は83Wから93Wというすさまじさで、自衛隊基地では全国ワースト1の爆音被害です。
小川町役場の幹部が言います。「米軍の訓練移転の問題は騒音だけではない。沖縄で起きている米軍の事故・事件がここでも起こらないという保証はなにもない」
■防衛庁長官の地元で
■首長も反対で足並み
地元茨城2区選出の額賀福志郎自民党衆院議員は内閣改造で防衛庁長官に就任しています。
行方市の額賀事務所関係者は「額賀にとっても再編問題は正念場。地元の事情もわかるがアメリカとの関係もあり、よく説明して我慢してもらうしかない。(首長の)皆さんは政治家、へたなことを口にしては政治生命にかかわることもある」とけん制します。
県と百里基地周辺自治体が推進する「民間共用空港」計画に賛同する小川町商工会青年部の小松崎孝幸部長(37)が語りました。「米軍機の訓練を百里に移転させることには反対。これ以上の騒音は民間空港にとってもマイナスだ」
百里基地周辺の鉾田市の鬼沢保平市長、行方市の坂本俊彦市長は反対で足並みをそろえ、連携した取り組みを表明しています。いずれの首長も総選挙では額賀氏を応援しました。