2005年10月20日(木)「しんぶん赤旗」
マスメディア時評
権力の監視役の自覚忘れてはいないか
十五日から二十一日まで、戦後六十年の新聞週間です。日本新聞協会は第五十八回新聞週間のスローガンを、「『なぜ』『どうして』もっと知りたい新聞で」と発表し、十八、十九両日には恒例の新聞大会を神戸市で開きました。
■与党の選挙に手を貸して
それぞれの全国紙や地方紙も、新聞週間にあたっての社説や特集を掲載しています。全国紙の社説をいちべつしても、「ネット社会のただ中で」(「朝日」)、「課題は『記者倫理』『匿名社会』」(「読売」)、「『なぜ』にしつこく迫りたい」(「毎日」)――といった具合です。
インターネットの普及にせよ、個人情報保護法の問題にせよ、それはそれで大問題です。しかしこれらの社説や特集の内容にいま一つ読者を納得させるものがないのは、戦後の原点を踏まえて新聞が果たすべき役割に正面から向き合う、骨太の議論が乏しいからではないでしょうか。
新聞大会のあいさつで箱島信一会長は、「愚直に、ジャーナリズムの本道を行く」といいました。その言葉と実際の新聞の姿は両立するのか。
先の総選挙での報道・論評でも、新聞とくに全国紙はこぞって郵政民営化に賛成し、民営化法案成立を理由にした小泉首相の衆院解散・総選挙を支持しました。それどころか、「刺客」などといった自民党の選挙戦術を集中的に報道し、与党の「大勝」に「追い風」を吹かせました。
新聞をはじめジャーナリズムのもっとも大切な役割は、「ウオッチ・ドッグ」ともいわれる権力の監視です。その新聞がそろいもそろって政府の政策を支持し、与党の選挙に手を貸して権力の監視役としての役割を果たせるのか。それともその役割を投げ捨てたのか。新聞をはじめジャーナリズムに関係するものがいま考えなければならないのは、このことではないでしょうか。
■戦後60年の原点照らせば
戦後六十年のこの年、新聞のあるべき姿を考えることは、過去に照らせばとりわけ重要です。
戦前から戦中にかけ、日本の新聞は天皇制政府と軍部がすすめた侵略戦争を賛美し、その推進に努めました。二度と侵略のためのペンは持たない――これこそ新聞にとって戦後の原点ではなかったのか。なぜその原点にも照らして、六十年後の現実を正面から問わないのか。
いま新聞をはじめマスメディアにとって大問題は、改憲や海外派兵など文字通り戦後史を大転換させる事態が足早にすすむなかで、それにどう立ち向かうかのはずです。
「改憲派」最右翼の「産経」はこの新聞週間にあたって全国紙の社説を検証し、ここ一両年で注目したいのは「護憲派が姿を消した」ことだと断言しました。“護憲派”を標榜(ひょうぼう)してきた「朝日」や「毎日」はこれに答えることもしないのか。
古い新聞人からの「満州事変前夜に似てきた」との嘆きさえ裏書きするような新聞とくに全国紙の現状です。
そのなかにあって、今度の新聞週間にあたっても地方紙は健全さを発揮しています。
たとえば沖縄の「琉球新報」は、「戦後の新聞は、戦争に加担した歴史を反省し、民主主義の『砦』となることを誓って再出発した」とふりかえり、激動の時代に読者の期待に応える決意を語っています。「東京」の社説のタイトルは、ずばり「重み増す『権力監視』」。「政治を見つめ社会を見渡して事実を伝え、歴史を振り返りながら警告もまじえ判断材料や選択肢を国民に提供する」――そこにジャーナリズムの存在意義があるという主張には説得力があります。
新聞が「なぜ」「どうして」という読者の関心にほんとうに応えようとするなら、歴史の教訓とみずからの役割をあらためて直視すべきではないでしょうか。(宮坂一男)