2005年8月12日(金)「しんぶん赤旗」

戦後60年

記者がさぐる 戦争の真実

アジアの独立

日本が解放したのか?


地図

 靖国神社の遊就館。「大東亜戦争 終戦」の展示は、インドネシアの独立に貢献した日本人が同国政府から表彰されたことを紹介しています。「日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が敗れても消えることはなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した」と書かれています。独立は日本のおかげだといわんばかり。しかし実態は「解放」とは程遠いものでした。

 「アジアを解放した」と宣伝する人たちは、よくインドネシアを例にします。日本占領前にすでに独立が決まっていたフィリピンについては「解放した」と言わないのとは対照的です。

 日本占領下のインドネシアを長年研究してきた慶応義塾大学の倉沢愛子教授は、一部の個人の行為や占領支配の一側面だけを取り上げ日本の戦争がアジアを「解放」したとする歴史観に警鐘を鳴らしてきました。倉沢教授は、「個人が善意でやったことはいっぱいあるでしょう。しかしそれと国家の意思はぜんぜん違います。そこを区別しなくてはなりません」と指摘します。

 敗戦後、現地に元日本兵士が残ったことは事実でした。B・C級戦犯として追及されることを恐れた人、現地に家族をつくり日本に帰れなかった人がその大部分。敗戦後の一部の人たちの行為をもって、あたかも日本が「解放」したとするのは無理があります。

 インドネシアの人は「解放」史観をどう見ているのか。倉沢教授に聞いてみました。「さすがにあきれています。それをいわれては困る、と。インドネシアの教科書はそのような見方をはっきりと否定しています」


■インドネシアの教科書は

 ●『社会科・インドネシア国史2・小学校五年生用』一九九七年=世界の歴史教科書・明石書店から

 日本がはじめ、インドネシアの民衆にたいして親切でやさしい態度をとっていたのは確かである。しかし、時がたつにつれ、日本のインドネシア民衆に対する態度は、変わっていった。日本の行動は残酷なものになっていった。

 一般に植民者の態度はどこも同じである。つまり、残虐で、搾取的で、非情である。私たち民族の運命は、トラの口からのがれ、ワニの口に入るということわざにたとえることができる。これは、どういう意味だろうか。それが意味するところは、日本がやってきたことにより、オランダ植民地時代に受けた犠牲はなくなるどころか、むしろ、事態は悪化したということである。

(中略)

 日一日とインドネシア民衆の犠牲は、悲惨なものになっていった。民衆が命令に従わないと、日本は重い刑を下した。当時、私たち民族の運命は、実に苦しいものであった。食べ物は、すべて枯渇していた。飢えた腹を満たすために、民衆はおよそ人間が食べる物とはいえないような、タピオカの皮やバナナの皮などを口にせざるをえなくなった。


■美名の裏  “独立運動は避けよ”

■「トラの口から  ワニの口に」

 インドネシア占領の日本の本音はどこにあったのでしょうか。

 「東亜の安定を確保し、以って世界の平和に寄与する」(宣戦の詔書、一九四一年十二月)などとの美辞麗句ではじめたアジア太平洋戦争。

 開戦の直前の一九四一年十一月二十日、大本営政府連絡会議が策定した「南方占領地行政実施要綱」という決定があります。冒頭の「方針」には、「占領地に対しては差し当り軍政を実施し治安の恢復(かいふく)、重要国防資源の急速獲得及作戦軍の自活確保に資す」とあります。これに基づき、占領支配が行われたのでした。

 民族の独立についてはどうでしょうか。「独立運動は過早に誘発せしむることを避くるものとす」とし、占領先の民族の独立を促進する気など伺えません。

■敗色濃くなり

 一九四三年二月のガダルカナル島からの撤退以来、敗色が明らかになった日本はフィリピン、ビルマに「独立」を約束します。それもかいらい政府を通じて戦争動員するためでした。しかし、現在のマレーシアとインドネシアにはみせかけの「独立」さえ許しませんでした。

 「『マライ』『スマトラ』『ジャワ』『ボルネオ』『セレベス』は帝国領土と決定し、重要資源の供給地として極力これが開発ならびに民心把握に努む」(「大東亜政略指導大綱」)と、日本領土に編入したのでした。

 「解放」するどころか、占領地に第一級の官僚や文化人を送り込み、政治・経済統制、宣伝活動を行ったのが日本の軍政でした。飛行場や鉄道建設のために現地の人々を労働力として徴発しました。

 日本の過酷な占領政策がもとでインドネシアに定着した日本語があります。「ロームシャ(労務者)」「ヘイホ(兵補)」です。

 ロームシャの数は、約四百万人ともいわれ、ビルマ・インド侵攻作戦のための泰緬鉄道(タイ・ミャンマー間)建設にも連行しています。遠方で強制労働させられたロームシャの数は、約三十万人と推定されています。

 ヘイホは、日本軍の補助兵力として動員され、前線に送られた人々のこと。「慰安婦」にされた女性たちもいました。

 農村では働き手が連れて行かれ、生産能力が低下する事態も生まれました。米の強制供出で農村では貧困がまん延し、住民の間の怒りや不満は、反日蜂起となって現れました。

■日本式の教育

 日本とマイナス二時間の時差があるインドネシアに日本時間を導入。イスラム教徒に天皇の住む皇居を拝むこと(宮城遥拝=ようはい)を強要してもいます。学校教育は、日本式のカリキュラムで行い、日本語を教えました。経済統制の機構として「組合」が、住民統制の手段として「隣組」が、「青年団」「警防団」がつくられました。これらの組織は日本語のまま呼ばれました。日本の大政翼賛会と同じような組織として「ジャワ奉公会」が組織されました。

 日本占領前のインドネシアは、オランダの植民地でした。日本の狙いは欧米の植民地支配者を追い出して、新しい植民地支配者として取って代わることでした。現在のインドネシアの歴史教科書では、オランダの圧政が日本に代わられたことを「トラの口からのがれ、ワニの口に入る」とのことわざを使って教えられています。

 戦況の悪化と経済的困窮が深刻になり、人々の心はますます離れていくなか、協力をつなぎとめようと日本が独立要求を無視できなくなったのも事実でした。そこで用意したのが、「独立準備調査会」(四五年三月)、さらに「独立準備委員会」(同年八月)を発足させました。もはやだれの目にも日本の敗戦が明確になってからのことです。「解放」史観の人たちは、ここを都合よく宣伝しますが、八月十五日の日本の敗戦、すなわちポツダム宣言の受諾で、インドネシアは連合国のもとに引き渡されることになり、日本がおぜん立てした「独立」は結局、実現しなかったのでした。

■独立戦争戦う

 しかも、インドネシアにはオランダ統治時代からの独立に向けての民族運動がありました。インドネシアの人たちは、日本の敗戦から二日後に自力で独立を宣言。その後、戻ってきたオランダとの独立戦争をたたかい、完全な独立を勝ち取ったのでした。

 日本の国家的意図や占領の実態を見ると、決して「解放した」などとは言えません。だからこそ靖国派は、一部の日本人の行為を「解放」と結びつけてわざわざ宣伝するのかもしれません。(鎌塚由美)


 ●シリーズ「戦後60年 記者がさぐる 戦争の真実」は今回で終わります。これまでの掲載日は「『満州事変』 『排日のせい』なのか?」(一日付)、「南京大虐殺 偕行社の『お詫び』」(四日付)、「太平洋戦争 『米国の強要』だったか」(十日付)です。


■元「慰安婦」の証言

 日本の軍政下、インドネシアで「慰安婦」にされた女性たちもいました。日本軍の性奴隷制を裁いた二〇〇〇年の女性国際戦犯法廷でもインドネシアの女性たちが証言しています。

▼マルディエムさん

 「私は痛かったし、惨めな気持ちでした。彼らは私を人間としてではなく、モノか道具のように扱いました。彼らは『慰安婦』を動物のように乱暴に扱ったのです」

▼スハナさん

 「私が最もいやだったのは話すのもはばかられるようなことです。足を開くことです。彼らは私の足を開いたままにさせました。屈辱的でした。暴力から身を守ろうとすると、彼らは怒りました。『おまえ、こっちへ来い』。私はけられ平手打ちを受けました。私の顔ははれてしまいました。私の体はぼろぼろにされました。恥ずかしいことです。私は子どもを産むことも結婚することもできませんでした。私の子宮は摘出されてしまったからです」

表

もどる
日本共産党ホーム「しんぶん赤旗」ご利用にあたって
(c)日本共産党中央委員会
151-8586 東京都渋谷区千駄ヶ谷4-26-7 TEL 03-3403-6111  FAX 03-5474-8358 Mail info@jcp.or.jp