2005年8月10日(水)「しんぶん赤旗」
戦後60年 記者がさぐる戦争の真実
「米国の強要」だったか
「火事場泥棒式」天皇も語った
米の提案を“天の助け”と
太平洋戦争
小泉純一郎首相が参拝する靖国神社は、太平洋戦争について、米国が日本を追い詰めて「開戦を強要」した「避けられぬ戦い」だったと宣伝しています(『靖国神社 遊就館図録』)。米国に「開戦を強要され」、やむにやまれず戦争をしたという「自存自衛」論の核心です。実際の経過は、どうだったのでしょうか。当時、戦争を計画・遂行した当事者の文書などをもとに考えてみました。
東京都港区にある外務省外交史料館。三階の会議室で職員が、所蔵している紺色のファイルを開いてみせました。
馬来(マレー)、ボルネオ、ビルマ、濠州(オーストラリア)、新西蘭(ニュージーランド)、印度(インド)…。
左下に「外務省」と書かれた縦書き十一行の用紙。タイプ印字の文字で、アジア太平洋の諸国の地名が並んでいます。
「日独伊枢軸強化に関する件」という文書の一節。一九四〇年九月の大本営政府連絡会議の決定です。
これらの諸国について文書は「皇国の大東亜新秩序建設の為の生存圏として考慮すへき範囲」としています。「生存圏」とは、日本が自分の「生存」のために必要だと勝手に決めて支配下におくと決めた地域のことです。
靖国神社が、米国による「開戦強要」の手段として、やり玉にあげているのが「ABCD包囲網」ですが、この「包囲網」が完成したのは、一九四一年八月の米国による石油の禁輸措置。そのほぼ一年前にはすでに、日本はアジア・太平洋地域の制覇を政府の公式の方針としていたのです。
「日独伊枢軸強化に関する件」文書は、当時の日本がドイツ、イタリアと三国軍事同盟を結ぶにあたって決定したものです。
なぜ、軍事同盟の締結前に、「生存圏」を打ち出したのでしょうか。
■泥沼の打開に
ナチス・ドイツは、三九年にポーランドに侵攻。第二次世界大戦が始まり、四〇年六月にフランスが降伏しました。
日本は当時、中国への全面侵略戦争が泥沼に陥っていました。日本は、ドイツの欧州での戦争を、日中戦争打開の好機ととらえました。ドイツとの戦争で弱っているイギリス、フランス、オランダがもつアジア太平洋の植民地を、武力行使してでも支配下におこうとしたのです。
フランス降伏の翌月、日本は、アジアに対する武力行使方針を決定します(「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」大本営政府連絡会議)。
明治大学の山田朗教授(史学)は解説します。
「ドイツの勢いに目を奪われた当時の日本は、イギリスもドイツに負けるとみていました。そのドイツと組んで世界戦争に参戦することで、世界秩序を一変させ、日中戦争の打開をはかろうとしたのです。イギリス、フランスなどのアジアの植民地を『生存圏』としたのは、その世界戦争のための資源を獲得するためでした」
同年九月、日独伊三国軍事同盟を結ぶのとほぼ同時に、フランス領北部インドシナに進駐。四一年七月の御前会議では、さらなる「南方進出」方針を打ち出し、そのためには「対英米戦を辞せず」と決定(「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」)。今度はフランス領南部インドシナへの侵略を開始しました。
「南方進出」方針を承認した昭和天皇でさえ、この手法について「相手方の弱りたるに乗じ要求を為(な)すが如(ごと)き所謂(いわゆる)火事場泥棒式」と語っています(『木戸幸一日記』)。
こうした日本の侵略に対し、米国がとったのが石油の禁輸措置でした。
太平洋戦争前後の日米折衝にも関与した森島守人元ニューヨーク総領事は戦後、次のように回想しています。
「アメリカの対日措置は、…日本の侵略的、挑戦的行為に対する回答と見るべきものであった」(『真珠湾・リスボン・東京』)
「米国による制裁」で日本が戦争に追いこまれたのではなく、まず日本の侵略があり、それに制裁が加えられたのです。
■撤兵拒否して
靖国神社が主張する、もう一つの「強要」論は、米国が、四一年四月からの日米交渉で、「苛酷(かこく)かつ高圧的な内容」の「ハル・ノート」を突きつけてきたというものです。
ハル・ノートとは、ハル米国務長官が同年十一月二十六日に日本側に示した提案のことです。
米国は、ハル・ノート直前の八月、英国とともに「大西洋憲章」を発表し、戦後に世界が立脚すべき基本原則を明らかにしました。そのなかで、領土不拡大や、国民が希望しない領土の変更を求めないことなどを強調していました。
この原則は、ハル・ノートにも反映されていました。「主権の不可侵原則」など四項目の「根本諸原則」をうたい、中国からの日本軍撤収など十項目を求めていました。
当時の日本が受け入れられないとしたのは、まさにこの点でした。
交渉の大詰めの段階でも、日本が「妥協」案として示した中身は、中国の要所に日本軍を残すか、撤兵問題自体を日米交渉の議題にはしないというものでした。
対英米戦の開戦を決定した四一年十二月一日の御前会議。東郷茂徳外相は、ハル・ノート拒否の理由について、米国があげた根本諸原則をあげ「(米国が)之が適用を強要せむとし」たと強調。東条英機首相は、中国からの撤収要求について「帝国の一方的譲歩を強要」したと非難しました。
こうした主張を正当化する靖国神社の主張は、当時の世界がすでに到達していた平和の原則に対し、いかに挑戦的であるかを示すだけです。
開戦を急いでいた日本の軍部は、逆にハル・ノートを喜びました。
ハル・ノートが示された翌日。大本営陸軍部戦争指導班の「機密戦争日誌」は「之にて帝国の開戦決意は踏切り容易となれり」「之れ天佑(てんゆう=天のたすけ)とも云ふべし」と記しています。
山田教授は指摘します。「米側はハル・ノートを最後通牒(つうちょう)のつもりで送ったわけではありません。日本が戦争したいがために、勝手に最後通牒だとして開戦したのです」
■「自衛」と無縁
太平洋戦争開戦時に、天皇が出した「宣戦の詔書」は、開戦の大義を「自存自衛の為」と説明します。
「自存自衛」とは、「自衛」の一種のようですが、実際はまったく異なりました。
象徴的に示しているのが、「南方占領地行政実施要領」(四一年十一月二十日、大本営政府連絡会議)。日本が開戦前につくったアジア占領計画です。
「方針」として、「占領地に対しては差し当り軍政を実施し…重要国防資源の急速獲得」を掲げています。
山田教授はいいます。
「『自衛』といっても、当時、日本の国土に攻め込まれるというわけではありません。『自存自衛』とは、重要国防資源を獲得し、日本が参戦した世界戦争を継続する態勢を守るという意味でしかありませんでした」
当事者による文書や説明から浮かび上がるのは、太平洋戦争が、侵略を目的として実行された戦争だということです。この戦争を「米国の強要」と正当化することは、歴史の偽造以外にありません。
(田中一郎)
◇ ◇
引用文のなかでは、原文の旧漢字を新漢字に、カタカナをひらがなに直しています。
▼「ABCD包囲網」 アメリカ(A)、イギリス(B)、中国(C)、オランダ(D)による経済制裁を指しています。戦前の日本の政府・軍部は、この四カ国が、経済封鎖をして、日本を経済的に追い詰めてきたとし、太平洋戦争は、それを打ち破るための「やむにやまれぬ戦争」だったと合理化していました。
▼大本営政府連絡会議 大本営と政府の意見を統一・調整する機関。大本営とは、天皇に直属する陸海軍の最高司令部のことです。
御前会議 天皇出席のもとで、政府側と大本営側の代表などが参加し、国策を決定した会議。昭和天皇のもとでは、十五回開かれました。
■太平洋戦争関連年表
1937年7月 盧溝橋事件。日中全面戦争へ
39年9月 ドイツがポーランド侵攻。第2次世界大戦始まる
40年6月 フランスが降伏
9月 仏領北部インドシナに進駐
日独伊3国軍事同盟を結ぶ
41年7月 仏領南部インドシナに進駐
11月 対英米戦の開始時期を「12月初頭」と決定
アジア占領計画「南方占領地行政実施要領」を決定
日本海軍の機動部隊が真珠湾攻撃目指し、ハワイに向け出航
米側がハル・ノート示す
12月 真珠湾攻撃(太平洋戦争始まる)
45年8月 ポツダム宣言受諾