2005年7月7日(木)「しんぶん赤旗」
日中全面戦争のきっかけ
盧溝橋(ろこうきょう)事件から68年
歴史の真実はどこに──
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七日は、日本の全面的な中国侵略戦争の契機となった盧溝橋(ろこうきょう)事件(一九三七年)から六十八年の日です。小泉純一郎首相が参拝に固執する靖国神社は、この事件から日中全面戦争にいたったことについて、“中国が悪い”と、責任をなすりつける主張をしています。歴史の真実は、どこにあるのでしょうか。
盧溝橋事件とは、日本軍が北京近郊にある盧溝橋付近で夜間軍事演習をし、このとき中国軍から発砲があったとして、攻撃した事件です。これを口実に日本は、「支那事変」と称して、大軍を派遣し、中国への全面的な侵略をはじめました。
靖国神社は、盧溝橋事件から日中が全面戦争となった「背景」について、「日中和平を拒否する中国側の意志があった」とし、全面戦争にいたったのも「日本軍を疲弊させる道を選んだ蒋介石(国民党指導者)」に責任があると描いています(『靖国神社 遊就館図録』)。まるで、日本は平和を望んでいるのに、中国が戦争をしかけ、中国全土に戦場を広げたかのような描き方です。
■発端 日本軍が軍事挑発
しかし事件がおきたのは、日本の国内でも日中の国境地帯でもなく、北京の近郊、いわば中国の中心部です。そこで日本軍は通告なしで夜間軍事演習を強行していたのです。
日本政府が外国軍撤退を要求しているのに、東京近郊で当の外国軍が夜間に軍事演習をしたらどうでしょうか――立場を置きかえると、どんな事態かはっきりします。
当時、なぜ日本軍が北京近郊に駐留していたのでしょうか。
日本は義和団事件(一九〇〇年)に関する「最終議定書」(〇一年)で中国への“駐兵権”をもっていました。この権利をたてに駐留したのが、のちに盧溝橋事件をおこした「支那駐屯軍」でした。
義和団事件は、各国からの中国侵略に抗議した民衆の運動に対し、日本などの八カ国が連合軍を派遣し、鎮圧をはかった戦争のことです。中国への侵略そのものでした。
鎮圧後、各国が中国に駐兵権を認めさせた条約が「最終議定書」でした。しかし駐兵目的は、公使館を守る(第七条)、北京・海浜間の「自由交通を維持」(第九条)に限定されていました。この権利を侵略拡大の足場にした国は、日本以外にありませんでした。
■背景 1年前に兵力増強
日本は、盧溝橋事件の前年の三六年に、「支那駐屯軍」の兵力を約千八百人から約五千八百人へ三倍に増強しました。
これに対し、中国は強く抗議しました。それでも日本は、増強部隊を盧溝橋にも近い北京近郊の豊台に駐屯させました。ここは北京の守備の要で、すでに中国軍が配備されていました。互いの兵営の距離はわずか三百メートルでした。
それが、いかに挑発的なことであったかは、事件当時、陸軍参謀本部第一部長だった石原莞爾(三一年に始まった「満州事変」を起こした中心人物の一人)が「豊台に兵を置くことになりましたが、之が遂に本事変(「支那事変」)の直接動機になつたと思ひます」(「石原莞爾中将回想応答録」参謀本部作成)と証言していることからも明らかです。
その豊台に駐屯した部隊が、同じく北京の守りの要であった盧溝橋で、中国側に通告しないまま、夜間軍事演習を実施。その最中に事件が起きたのです。
すでに日本軍は、三一年に謀略的に仕組んだ鉄道爆破事件(柳条湖(りゅうじょうこ)事件)をきっかけに軍事行動を展開(「満州事変」)。中国東北部に、かいらい政権の「満州国」を建国していました。
侵略をすでに開始していた日本軍が、今度は北京近郊に駐留し、軍事演習をおこなう――。一貫しているのは、中国を挑発する侵略的な日本軍の姿勢でした。
■事後 次々と戦線を拡大
しかも日本政府は、この事件を口実に、全面侵略に乗り出しました。
実は、七月十一日に現地では日中両軍間で停戦協定が結ばれ、これで事件は解決するはずでした。
ところが、日本政府は同日、「華北派兵に関する声明」を発表。中国に対し「平和的交渉に応ずるの誠意なく」と決めつけ、「北支(中国北部)治安の維持が帝国及満州国にとり緊急の事」として、派兵決定を内外に発表したのでした。
靖国神社の「日中和平を拒否する中国側の意志」などという議論は、当時の政府の侵略合理化論そのままなのです。
この決定を受けて、七月下旬には、朝鮮に駐屯していた朝鮮軍や「満州国」に駐屯していた関東軍が次々に侵攻し、北京・天津地方を占領。八月には、上海方面にも戦線を拡大しました。
十二月には南京を攻略し、このとき日本軍は一般住民や捕虜を大量虐殺した「南京事件」をおこしました。
■中国支配を狙い全面侵略を計画
中国への全面侵略も、中国側が日本軍を「疲弊」させるために引きずり込んだからではありません。もともとの目的が、そのことを示しています。
天皇出席のもとでの御前会議の決定「支那事変処理根本方針」(三八年一月十一日)は、▽「満州国」の承認▽中国北・中部などへの日本軍駐留▽日本と「満州」、中国の経済一体化――などを要求していました。
中国を日本の支配下におくことが、当初からの目的だったのです。
ところが、この要求を中国が受け入れないからといって、日本が四五年にポツダム宣言を受諾するまで、侵略を拡大し続けました。
一方、中国が「戦争の長期化」をも覚悟して徹底抗戦する態度を堅持したことは、民族の存亡をかけた英雄的な行動でした。
防衛庁のシンクタンク・防衛研修所(現在の防衛研究所)が、自衛隊の教育・研究のために出した戦史でさえ、日中戦争について「依然として武力を背景とした対支政策を生んだ体質に、反省を加えることが必要であろう」(『戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)』)と指摘せざるをえません。
歴史の真実に目を向け、反省することなしに、日中が真の友好関係を築くことはできません。
小泉首相は「靖国神社と政府の立場は違う」と言い訳をします。違うのであれば、参拝の中止を決断すべきです。
■関連年表
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■反戦貫いた日本共産党
日本共産党は、当時の天皇制政府による過酷な弾圧のなか、日本の中国侵略に対し、一貫して反対を掲げて、たたかいました。
1931年の中国東北部への侵略を開始した翌日に、「一切の占領地から、即時軍隊を撤退せよ!」と声明を発表しました。
盧溝橋事件の当時、党中央は弾圧で獄中にありましたが、屈することなく、反戦の旗を掲げ続けました。
日本共産党員や個々の共産主義者のグループは、事件翌日に、東京、大阪、北海道などで反戦ビラをまき、戦争反対を訴えました。軍隊のなかでも反戦活動をおこないました。
■日本は「斬取きりとり強盗」/民政党(当時)議員戦時中にも指摘
日中戦争が「侵略」であるという歴史認識は、戦後の創作ではありません。侵略戦争反対を貫いた日本共産党のほかにも、日本の侵略を批判する人たちはいました。たとえば、「反軍演説」で知られる斎藤隆夫衆院議員(民政党)は、一九四四年二月に次のように記しています。
「日本の大陸発展を以(もっ)て帝国生存に絶対必要なる条件なりと言はんも、自国の生存の為には他国を侵略することは可なりとする理屈は立たない。若(も)し之を正義とするならば斬取(きりとり)強盗は悉(ことごと)く正義である」(「大東亜戦争の原因と目的」)
日本軍の行為を「斬取強盗」となぞらえ、次のように「侵略」と言いきっています。
「誰が何と言はうが今回の戦争は日本の軍部が其(そ)の原因を作りたるものである。即(すなわ)ち軍部多年の方針である所の支那侵略が其の根本原因であることは今更議論するの余地はない」(同前)
引用文のなかでは、原文の旧漢字を新漢字に、カタカナをひらがなに直しています。 |