2005年6月3日(金)「しんぶん赤旗」
衆院予算委
志位委員長の質問
日本共産党の志位和夫委員長が、二日の衆院予算委員会でおこなった小泉純一郎首相への質問の大要を紹介します。
「戦争は正しかった」―靖国の戦争観 ご存じか
首相 「そのような発言は知っている」
志位和夫委員長 小泉首相に、靖国神社参拝の問題について、質問いたします。
今年は、戦後六十年の節目の年であります。それなのに、中国、韓国をはじめ、アジアの国々と日本との関係がこれまでになく悪化していることには、たいへん心が痛みます。
その最大の原因が、日本側の問題でいえば、過去の戦争や植民地支配にたいする日本政府の姿勢、とくに首相の靖国神社への参拝問題にあることは、明りょうだと思います。
靖国神社とは、いったいどういう神社なのか。これは、靖国神社の中心的な刊行物で、宮司が特別の「挨拶(あいさつ)」を書いている『靖国神社 遊就館図録』という本であります。「遊就館」というのは、靖国神社がその境内に設置している日本の戦争史の展示館でありますが、この本の冒頭で靖国神社の宮司は、日本の過去の戦争について、こうのべております。
「近代国家成立の為、我国の自存自衛の為、さらに世界史的に視(み)れば、皮膚の色とは関係のない自由で平等な世界を達成するため、避け得なかった戦ひ」
このようにのべています。
あの戦争を、「自存自衛」のための戦争、「自由で平等な世界」、すなわち「アジア解放」のための戦争としております。ここには、むきだしの形での「日本の戦争は正しかった」とする歴史観、戦争観がのべられております。
そこで、首相にうかがいますが、首相は靖国神社が、こういう歴史観、戦争観をもった神社だという事実をご存じでしょうか。ご存じかどうか、端的にお答えください。
小泉純一郎首相 靖国神社がそのような考えを持って、そのような発言をされているということは承知しておりますが、私は靖国神社という存在については、これは明治維新以来、心ならずも戦場に出なければならなかった方々、そうした命を失った方々を多くまつられている神社だと承知しております。
首相のいう「侵略への反省」と両立するのか
首相 「神社の考え、政府と違う」
志位 そういう神社だということを知っているという答弁でした。知ったうえでの行動だということになりますと、たいへん重大な意味を持ってまいります。
そこで問題になってくるのは、「日本の戦争は正しかった」とする靖国神社の戦争観と、首相が四月のジャカルタで行われたアジア・アフリカ会議でのべた政府の立場とが、はたして両立しうるのかという問題であります。
首相はジャカルタでのスピーチで、一九九五年のいわゆる「村山談話」をふまえて、過去の戦争への「反省とお詫(わ)び」を、つぎのような言葉でのべました。
「わが国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切なる反省と心からのお詫びの気持ちを常に心に刻みます」
こうおっしゃいましたね。そこで首相に問いたい。
あの戦争を、「自存自衛」のための戦争、「自由で平等な世界」――すなわち「アジア解放」のための戦争、「日本の戦争は正しかった」という、この靖国神社の戦争観は、首相がみずからの言葉でおのべになった、「侵略への反省」という日本政府の立場とは、決して両立しえないものであることは明らかだと思いますが、この認識を総理にうかがいたいと思います。
首相 靖国神社には靖国神社の考え方があるでしょう。これは政府と同じものではございません。
志位 私は認識が両立しうるかどうか、これについてききました。はっきり答えていただきたい。靖国神社は、「日本の戦争が正しかった」という戦争観を持っている神社です。日本政府の公式の態度は「侵略への反省」です。この両方が両立しえないということはあまりにも明らかです。両立できるかできないか。この認識を私はきいたので、はっきりお答えください。両立できるのか、できないのか。
首相 私ははっきり申し上げているつもりなんですが、靖国神社の考えは靖国神社としてあるでしょう。しかしながら、政府の発言というのは、いま私のアジア・アフリカ会議での演説文も引用されましたように、戦争に対する痛切な反省をしているということをのべているわけであります。なおかつ、靖国神社には多くの戦没者の霊がまつられているわけであります。そして、私は靖国神社に参拝するときは、そのような多くの戦没者にたいする追悼の念をもって参拝している。同時に、二度と悲惨な戦争をくりかえしてはいけない、そういう気持ちで参拝しているわけであります。
「日米開戦の責任は米国に」が靖国の主張
首相「参拝を靖国の考え支持ととらないで」
志位 私は両立するかどうかをききました。首相は、「違う」ということは答えました。しかし、両立するかどうかということについてのはっきりとしたご答弁はありませんでした。
しかし私は、それではすまない問題だと思います。靖国神社が、政府の立場、「侵略への反省」という立場を、根底から否定する歴史観、戦争観をもっているという問題は、その神社に首相が参拝することが適切かどうかの根本にかかわる問題です。ですから、事実にもとづく真剣な吟味と検討が必要だということを強調したいと思うのです。
もう一問うかがいます。靖国神社は「日本の戦争は正しかった」という戦争観にたって、日本がたたかった反ファッショ連合国の側に戦争の責任をおしつけるという主張をおこなっております。その攻撃の矛先は、アジア諸国だけでなく、アメリカにもむけられております。
さきほどのこの『靖国神社 遊就館図録』をみますと、太平洋戦争の開戦の事情についてこのようにのべております。「大東亜戦争 避けられぬ戦い」という表題で、つぎのような叙述があります。
「大不況下のアメリカ大統領に就任したルーズベルトは、昭和十五(一九四〇)年十一月三選されても復興しないアメリカ経済に苦慮していた。早くから大戦の勃発(ぼっぱつ)を予期していたルーズベルトは、昭和十四年には、米英連合の対独参戦を決断していたが、米国民の反戦意志に行き詰まっていた。米国の戦争準備『勝利の計画』と英国・中国への軍事援助を粛々と推進していたルーズベルトに残された道は、資源に乏しい日本を、禁輸で追い詰めて開戦を強要することであった」
こうのべられているんですね。
すなわち、ルーズベルト大統領が、不況から脱出できないことと、ドイツとの戦争計画が「米国民の反戦意志」に阻まれていたことに悩んで、その行き詰まりから脱出する活路を、日本に「開戦を強要する」ことに求めたとはっきりのべております。ここでは、日米開戦の責任が、アメリカ政府の側にあると、あからさま形で主張しているわけであります。
この主張というのは、当時、日米開戦、すなわち真珠湾攻撃にあたって、日本の軍国主義の戦争指導者たちがのべたこと、そのままではありませんか。
首相にうかがいたい。靖国神社は、“日米開戦の責任はアメリカにあり”という立場をとっている。この歴史観、戦争観も、日本政府はとうてい受け入れることができないものだと思いますが、総理の認識をうかがいたいと思います。
首相 歴史家のあいだでは、また歴史学者のあいだでは、さまざまな議論があると思います。しかし、私は、戦争を二度としてはいけないと、戦争にたいする痛切な反省の念というものを表明しております。そういう観点から、靖国神社がどう考えておられるか、それは別にして、私は、戦没者にたいする追悼の念をこめて参拝している人は多いんじゃないでしょうか。私は、靖国神社に参拝することが靖国神社の考えを支持しているんだと、とらないでいただきたいと思っております。
首相の参拝は、戦争の正当化に“お墨付き”与える
首相「戦争を正当化するつもりはない」「戦争の責任は日本にある」
志位 総理は「さまざまな議論がある」と日米開戦の経緯についておのべになりました。(日米開戦の)責任についての認識をきいたのに、答えなかった。しかし、この問題での歴史の審判は、はっきり下っていると思います。
靖国神社は、アメリカが、「日本を禁輸――経済制裁――で追い詰めて開戦を強要」したといいますけれども、当時、国際社会がおこなっていた石油などの「禁輸」の根本には、日本による中国侵略があったわけです。これをやめさせることが、アメリカの要求の中心でした。これを“けしからん”とする靖国神社の主張が、「侵略への反省」という政府の立場と相いれないことは明らかだと思います。
そこでつぎの問題ですけれども、総理は、「戦没者への追悼のため」ということをおっしゃいました。それで、私は、一般の国民のみなさんが参拝するのと、総理が日本国の責任者として参拝することは、まったく違った意味をもっていると思います。いま問われているのは、総理が(戦没者への)追悼の気持ちを表明する場として、靖国神社を選ぶことがふさわしいかという問題です。
靖国神社は、自らの「使命」は、「英霊の武勲の顕彰」だとのべております。これは戦争で亡くなった方々を追悼することではありません。あの戦争を正当化する立場にたって、その戦争での「武勲」、つまり戦争行為そのものをたたえるということです。だからこの神社には、A級戦犯はまつられていても、空襲や原爆、沖縄戦で亡くなった一般の国民はまつられていないのであります。
つまり、靖国神社とは、「日本の戦争は正しかった」という侵略戦争を正当化する歴史観、戦争観をもち、戦争行為をたたえることをその「使命」としている神社なのであります。総理が、日本政府の責任者である以上、そういう神社が、戦没者を追悼する場としてふさわしいか、これを真剣に検討すべきではないでしょうか。
総理がどんな「信念」をもっていようが、首相として、靖国神社に参拝することは、侵略戦争を正当化するこの神社の戦争観に、日本政府の公認というお墨付きをあたえることになるではないか。首相は、「適切な判断」をおこなうとおっしゃいました。「判断」すべき中心点は、まさにこの点にあると思います。このことを真剣に検討することを強く求めたいと思いますが、総理の答弁を求めます。
首相 私は、靖国神社を参拝することによって戦争を正当化するつもりはまったくありません。そこを誤解しないでください。戦争をした責任ということについては、学者のあいだでもいろいろ議論がありますが、日本は戦争を起こしたわけですから、戦争責任は日本にある。戦争を避けられたのではないかと、あくまでも戦争を避けるような努力をしなきゃならなかったと思っております。そして現在、あのような戦争に突入した。二度と戦争をしてはならない、そういう気持ちで靖国神社に参拝し、そして総理大臣であろうが、どのような個人であろうが、どのような思いを込めて参拝するか、それは自由じゃないでしょうか。私は、今までも何回も申し上げているように、二度と戦争を起こしてはいけない。同時に、心ならずも戦争に赴かなければならなかった多くの犠牲者、こういう方々の尊い犠牲のうえに現在の日本があるということを決して忘れてはならない、そういう気持ちから戦没者にたいする敬意と感謝をこめて参拝しているものであります。決して戦争を美化したり、正当化するものではありません。
参拝中止の決断を
志位 靖国神社があの戦争を正当化する役割をもっていることは、この討論で総理も否定されませんでした。やはりそこに参拝するという行為そのものが、その正当化にお墨付きをあたえることになることは明りょうであります。その中止を強く求めて、私の質問を終わります。