2005年5月9日(月)「しんぶん赤旗」
JR脱線事故
戻らぬ日常
棺に届いた採用電話
大前貴隆さんの母
「結婚資金ためていたのに」
107人の命を奪ったJR福知山線の脱線事故。遺族たちの時間は、4月25日のあの時間から止まったままです。
「衝撃すぎます。息子の死を受け入れられないのです」。兵庫県伊丹市の大前万喜さん(62)は、長男の貴隆(よしたか)さん(33)をなくしました。
共働きで家族を守ってきた気丈な母も「今度ばかりはこたえた」。腰が抜けたように気持ちが立ち上がれません。「テレビを見ていても、何をしていても意欲がわかない」
ぶつかる母子
万喜さんは、貴隆さんが誕生したとき、共働きで多忙でした。三歳までの赤ちゃんのころに大切な言葉かけができませんでした。貴隆さんは言葉の発達が遅れました。
医者の忠告で、始めた絵本の読み聞かせ。ゆっくりと言葉を発音させて会話する習慣をつくるために、母子はぶつかりあいました。
うまく表現できずにかんしゃくを起こす貴隆さんはいじめにもあいました。善悪を伝えるために「手も出ました」と万喜さん。「鬼ばばあ」。子どものころに貴隆さんから悪態をつかれました。そうして必死で取り戻した濃密な触れ合い。実を結んだのは、貴隆さんが小学五年生になってからでした。
「スムーズに言葉が言えたときが一番うれしかった」
成長した貴隆さんへの万喜さんの夢が突然に消えました。
「夕方になって何の連絡もないことに不安を覚え携帯にかけたけれども出ませんでした。最初のコールで出るのに…」。不安は募りました。
貴隆さんは、求職活動中でした。十三年勤めた運輸会社を一年前に辞めました。「まじめはいらない」と、二年間にわたってひどい嫌がらせにあい、ストレスから全身に湿疹(しっしん)が出るなどして退職しました。職業訓練施設でコンピューター技術を習得。二つの会社から内定を受け、そのうちの一社で働くつもりでいました。
この日普段利用しないJRの電車に乗ったのは、「自宅から就職予定の会社までの所要時間を確認するためだった」という万喜さん。「きちょうめんな子で、連絡がないまま外泊することは絶対にない」。貴隆さんは深夜になっても帰りませんでした。
父親の清人さん(63)は夜勤。やむなく、二十六日の朝になってから、遺体安置所になった尼崎市の体育館に行きました。午前七時。その時間に身元不明者は一体。「遺体の写真を見ただけで分かりました」
遺体を引き取り、自宅に棺(ひつぎ)を入れたときに電話がなりました。「明日からきてほしい」。採用決定の電話。「電話の相手が男性だったのか、女性だったのか、何という会社だったのか覚えていません。こんな結果になるのなら、早く仕事見つけてと、せかさなければよかった」
愛用の腕時計
四月二十八日に遺品が届けられました。三十回を超える清人さんや万喜さんからの着信記録がしるされている携帯電話。預金通帳などが入ったかばん。三十日には、「おやじにあげる」といっていた愛用の腕時計などが戻りました。
万喜さんの夢は「(貴隆さんが)結婚して孫が見られる日」のくることでした。「家に食費代として初めは三万円、今は五万円入れてくれました。家族思いのやさしい子。入れてくれたお金は結婚資金にためててあげたのに。それもかなえられず、このお金でお墓を造ってあげます」