2005年5月1日(日)「しんぶん赤旗」
過酷労働 動けず休んだ青年の寮に「てめえ」と…
現代「たこ部屋」物語
青年を使い捨てにする請負労働が広がっています。「給料がよくて、楽な仕事がある」といって、労働者を送り込み、徹底的にこき使う、たこ部屋といわれる実態をリポートしました。
(酒井慎太郎)
正社員をめざしたものの、結局は請負以外に仕事がなかった岐阜県の男性(35)。会社が借り上げていた富山県黒部市のアパートの一室に住み込み、市内のYKK工場で働き始めました。アパートの住所も教えられず、昼休みと午前、午後の十分間の休憩以外は立ちずくめの作業でした。
十一日目の朝、体が動かず「とても仕事につけない」と欠勤を申し出ました。
「てめえー、ここは学校じゃない。社会なんじゃ。何考えとるんや」。営業担当者がどなり込んできました。
男性は「こんな使われ方は耐えられない」と翌朝、退職を伝えました。実際に働いたのは十日間でした。
振り込まれた給料は、たった三万―四万円でした。欠勤のペナルティーで日給九千円が六千円にダウン。その日給で就業日から計算されました。そこから昼四百円の弁当代十日分、二週間分の寮費と自転車、テレビ、ふとん、洗濯機のリース料が引かれます。
「給料というより、小遣いです。何のために働きに行ったのだろう。あぜんとしました」
男性が働いていたのは、人材派遣・業務請負の最大手、日研総業(本社・東京都大田区)でした。百四十を超す事業所で新規の請負・派遣労働者を月に四千人採用し、約九百社の取引先企業に送り込みます。二〇〇四年三月期の売上高は八百八十二億円にのぼります。
正規雇用の道を断たれ、若者の多くが請負・派遣で過酷な労働を強いられています。「正規雇用の拡大を」―青年の痛切な叫びです。
寮の住所も教えられず
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日研総業が「寮」と称して、男性を押し込んだアパートの生活は異常そのものでした。黒部市での二週間、男性は自分が寝起きする「寮」の住所すら知りませんでした。
「そのことは、いいから」と住所を教えない営業担当者。食材などを送ってくれる親が書いた送り先の住所は、請負採用した富山市の事業所でした。この男性以外、寮で手紙や荷物を受け取る人もなく、住所などいりませんでした。
記者が「寮」にたどりつけたのは、買い物をした近所のスーパーや窓越しに見えていた保育園など、男性のわずかな記憶をたどったものでした。
六世帯が入る二階建てアパート。その前には、入居者用とみられる自転車が。「日研三十三号」「日研四十六号」と書いたステッカーが後輪の泥よけに張ってあります。
六畳二間の二LDK。初めは個室でした。
「毎日、仕事から帰ってくると知らない人がいました。一人ずつ増えていき、四人でぎゅう詰めの満杯になりました」
年齢は二十五歳から四十代後半。みんな数日の小旅行に出かけるような大きめのスポーツバッグが荷物でした。自炊道具などの段ボール四箱を運び込むと、営業担当者はいいました。「荷物、多いんじゃないの」
「寮」から自転車で約十分の職場は、YKKの工場。アルミサッシの加工ラインで、木目調フィルムをカッターで切り張るなどの作業でした。
数日前、別のラインで同じような作業に就いていた四十代の正社員が心筋梗塞(こうそく)で倒れました。
黒部市に赴いた当時、男性には、親の仕送りから自立する“社会復帰”への願いがありました。高校卒業後の長時間労働から、二十一歳で、うつ病を発症。完治を待たずに再就職しますが、三十歳のとき、約三カ月の住み込みの請負労働で病気を悪化させ、治療入院などで二年ほど仕事から離れていました。
社会復帰の願いもむなしく、相談に訪れたハローワークでは、男性の病気や職歴の多さを理由に紹介を断られました。
「まともに取り合ってもらえませんでした。追い詰められていました。請負の世界しか、受け入れてくれるところはありませんでした」と男性。
地元に戻った男性はいま、生活保護を受けて暮らしています。
急成長を続ける請負・派遣業界。その陰には、正規採用の門を拒まれた多くの若者たちの過酷な労働があります。
「正社員で働ける道は閉ざされてきています。働こう、仕事を探そうと思っても希望がない。企業はまず、正規雇用を考えてほしい」