2005年4月17日(日)「しんぶん赤旗」
憲法をこの手に
沖縄の思いたどる(1)
占領下の「記念日」
議長 可決することにご異議ございませんか。
(「異議なし」の声)
議長 ご異議ないと認めます。よって修正案のとおり可決いたします。
沖縄が一九七二年に祖国復帰する前の六五年四月九日。琉球政府立法院の本会議で、憲法記念日を設ける「住民の祝祭日に関する立法」改正案が可決された瞬間でした。全会一致でした。
手書きの原本が
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立法院は、占領下の沖縄で米軍がつくった立法機関です。
いまの沖縄県議会には、改正案の原本が残されています。縦書き十九行の用紙に手書きでこう書かれています。
「憲法記念日 五月三日 日本国憲法の施行を記念し、沖縄への適用を期する」
案文を執筆したのは日本共産党の元衆院議員・古堅実吉(ふるげん・さねよし)氏(75)。当時、沖縄人民党(のちに日本共産党に合流)の立法院議員でした。
野党議員に働きかけ、十一人による共同提出にこぎつけました。審議初日の三月十六日の本会議で、訴えました。
「憲法記念日を設け、憲法のわが沖縄への適用を期してたたかうことは、二十年にわたるアメリカの支配を打ち破り、祖国復帰をかちとる道に通ずるものであります」
過酷な支配の下で
憲法の施行は、四七年五月三日。しかし沖縄では、米軍が住民を収容所に閉じ込めている間に基地を建設。本土の間接占領と違って、米軍の軍政府が直接統治し、憲法の効力は及びませんでした。
そのうえ、サンフランシスコ条約(五二年発効)で日本から切り離されました。形式的には、立法、行政、司法を備えた琉球政府が設立されたものの、軍政府から移行した「米国民政府」の「布告、布令及び指令に従う」とされていたのです。
沖縄の人々には基本的人権さえ保障されませんでした。新たな基地建設のため、銃剣とブルドーザーで土地を奪われ、絶え間ない米軍事故と米兵犯罪にさらされました。
誘拐された六歳の少女が暴行を受けて殺され、砂浜に捨てられた「由美子ちゃん事件」(五五年)、米軍機が小学校に墜落・炎上し、子ども十一人を含む十七人が死亡した宮森小ジェット機墜落事件(五九年)…。悲惨な事件のたびに沖縄の人々は憤激し、人権を求めて立ち上がったのでした。
古堅氏は「いくさでひどい目にあい、その後の占領で散々の屈辱、犠牲が押しつけられた。この改正案は、アメリカの過酷な支配の糾弾でもあった」と振り返ります。
拒否できない米軍
審議のなかで、異論は全くありませんでした。
当時はベトナム戦争(六〇年―七五年)の最中。沖縄は米軍の出撃拠点でした。県民の脳裏に浮かんだのは、十数万人が犠牲になった沖縄戦の記憶でした。
沖縄国際大学の安仁屋政昭名誉教授は「再びアジア侵略を繰り返そうとしているとき、県民が願ったのは、『平和憲法のもとへの復帰』だった」と指摘します。
米軍には法案を拒否する権限がありましたが、世論を前に、拒否できませんでした。
古堅氏はいいます。
「憲法は、国民の命を守るたたかいの武器だ。改憲すれば、その足場を失うことになる。あやまった政治を取り払い、さらに光り輝かせることこそ大事だ」
◇ ◇
自民・公明・民主の各党は、改憲を競い合っています。その狙いは「海外で戦争できる国」づくり。基地の島・沖縄は、その姿をどう見つめているかを追いました。
(つづく)