2005年3月18日(金)「しんぶん赤旗」
中国人「慰安婦」2訴訟原告 めまい、おびえ 今も
きょうと31日に控訴審判決
三月の十八、三十一の両日に二つの中国人「慰安婦」訴訟の控訴審判決がいい渡されます。日本政府を相手にした提訴から七―九年。原告の女性たちは名誉の回復を求めてたたかってきました。心と体に受けた傷はいまだ癒えていません。旧日本軍は侵略した土地で何をし、彼女たちの人生をいかにくるわせたのか―。
いまから六十数年前の中国の山西省盂(う)県。二つの裁判の原告らはこの地で暮らし、当時十三―二十四歳でした。日本軍は女性たちに性暴力を繰り返しました。国はこの事実を認めていません。
日本兵の性暴力
日本軍は一九三七年の盧溝橋事件をきっかけに中国への侵略を広げました。盂県の村々に侵攻し、支配し始めたのは三八年でした。四〇年、抗日運動への報復作戦として「殺し尽くす」「焼き尽くす」「奪い尽くす」の「三光作戦」をおこないました。その後、各地に拠点を配置。拠点にいた日本兵によって性暴力など数多くの戦争犯罪が起こされました。
「開門! 開門!」。日本兵は家々の窓に銃を突っ込み、住民を外に追い出しました。広場に集め、「抗日」とみなせば丸太棒で頭を何度も殴るなどして拷問。そして女性に性的暴行を加えました。若い女性は日本軍が来たと聞くと、かまどの灰を顔に塗って汚し、日本兵に目を付けられないようにしました。
15歳で犠牲に
十八日の判決日にちょうど七十八歳の誕生日を迎える原告の郭喜翠さんは、四二年夏、十五歳のときに連行されました。監禁され、昼夜を問わず欲望の犠牲になりました。「ある日、大勢の日本兵の前で陰部を切られた」。治療を受けられず、傷が化のうし、発熱しました。陰部から全身がむくんで歩けなくなりました。解放されたのは同年秋の終わりころでした。
二五年生まれの趙潤梅さんは十六歳で性的暴行を受けました。その後、結婚しましたが、子どもができず離婚。「再婚したものの三十代で閉経。子どもを産むことができなくなった」。被害女性たちは下腹部の痛み、けいれん、失禁、めまいなど戦後もずっと苦しんでいます。村の人たちに「狂人」と蔑視(べっし)され、子どもたちも差別されました。
硬直し気失う
被害者にはPTSD(心的外傷後ストレス障害)が顕著にみられます。夜中に突然叫びながら飛び起き、外に走り出す。昼間、ちょっとした物音におびえて逃げ出す。当時を思い出して硬直し気を失う。わが子に暴力を振るう―。われに返っては自分を責めました。
郭さんは五十センチの鉄の棒で長男を殴り、首筋に長さ十センチのけがを負わせました。暴力を受けた子どもたちにもPTSDのような症状が出ています。
戦争という暴力は、世代を超えた被害をもたらしています。郭さんは十八日の判決を聞くため来日しました。判決は戦争被害者の尊厳を回復するものとなるのか。国の責任を問う司法の判断が求められています。 (本吉真希)
控訴審判決を控えた二つの裁判 十八日は中国人「慰安婦」損害賠償請求二次訴訟。二人(うち一人死去)が一九九六年二月に提訴。一審判決は事実を認め、PTSDの症状を認定したことが注目されます。三十一日は山西省性暴力被害者損害賠償等請求事件。被害者九人と遺族一人(うち三人死去)が九八年十月に提訴。一審判決は被害事実と旧日本軍による不法行為を認定し、立法的・行政的な解決が望まれると付言しました。しかし、いずれの裁判も明治憲法下における国家の不法行為責任は問われないなどの理由で請求は棄却されました。