2005年3月9日(水)「しんぶん赤旗」

東京大空襲知る“平和びな”

亡き母 「10日まで飾りなさい」


写真

谷さんが寄贈した「平和びな」

 米軍による約二時間の攻撃で十万人が亡くなった東京大空襲。一九四五年三月十日未明のことでした。その夜、火の粉の舞うなか、運び出されたひな人形があります。いまは東京・江東区の東京大空襲・戦災資料センターに「平和びな」として展示されています。

見てほしいから

 「母が九十歳で亡くなったとき、迷いなく寄贈しました。みんなに見てほしいので」。平和びなを寄贈した藤谷秀子さん(60)。当時九カ月。戦争の記憶はありません。しかし残ったひな人形の存在で、物心がついたころには空襲のことを知っていました。

 大空襲の戦火のなか、父親は家族を学校に避難させ、飾られたままのひな人形を居間からとっさに持ち出しました。そして通り向かいにあった防空ごうに放り込みました。家々は焼き尽くされました。ひな人形は焼けることなく助かりました。

 戦後、母親はひな祭りが近づくと「ひな人形は十日まで飾りなさいよ」と、五人の子どもたちにいいました。十日は大空襲で亡くなった人々を供養します。

 両親は生前、藤谷さんにひな人形のことを話して聞かせました。しかし藤谷さんが両親の体験した戦争の恐ろしさを知ったのは、戦後六十年近くたってからでした。

 母親を看病していたときでした。「『やめて』『どいて』とうなされるんです。母は両手で何かを払いのけるまねをしました」。藤谷さんは暑いのかと思いました。本当は違いました。母親は大空襲の夢を見ていたのでした。「後年、姉に当時の話を聞いてピンときました。ショックでした」

 両親は炎の鎮火後、子ども四人と荷物やひな人形を大八車に載せて避難しました。長男は学童疎開でいませんでした。

 その途中、「この子だけは助けてください」とひん死の女の人がすがってきました。「姉は真っ黒い顔で助けを求めてくる人たちを怖がり、夢中で小さな足でけりました。母は『だめです』といって払いのけたといいます。子どもたちの身を守るだけで精いっぱい。まさに地獄絵だったと聞きました」

父の奇妙な行動

 父親にも奇妙な行動がありました。転ぶとき、いつも前ではなく、尻をついて転ぶのです。「父はお酒を飲んで酔っ払ったとき、ポロッと話したことがありました。『黒いものがあって後ろに下がってしまうんだ』と」

 避難途中、父親は黒く焦げた人間の体をいくつも乗り越え、大八車を引きました。「黒焦げの人が助けを求めてうごめいて、怖くて思わず下がったのでしょう」

 「両親はあのときの体験を話せなかったのだと思います。心にしまったまま亡くなりました。これが戦争のすさまじさです」。藤谷さんは三月になると、桃の花を持って平和びなに会いにいきます。(本吉真希)


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