2005年2月17日(木)「しんぶん赤旗」 小林多喜二を虐殺した特高 罪に問われたの?〈問い〉 小林多喜二を虐殺した特高たちはどんな裁きをうけたのですか? (埼玉・一読者) 〈答え〉 72年前の1933年2月20日、日本共産党員の作家・小林多喜二が築地警察署で虐殺されました。多喜二と同じ警察署内での虐殺は80人、拷問による獄死が114人、病気による獄死は1503人にのぼります。 これは戦前の法律でも殺人罪等にあたり、現在の法律では「特別公務員暴行陵虐罪」等も加わる重大な犯罪にあたります。しかし、特高の犯罪は、ほとんど何の処置も行われず、謝罪もありません。一方、特高はいったんは公職追放されますが、戦後は大手をふって政官財の各界にほとんどが復活しました。 多喜二虐殺時の主犯格は警視庁特高部長・安倍源基、その配下で、虐殺に直接手を下したのが毛利基特高課長、中川成夫、山県為三両警部らです。 安倍が警視庁特高部長や内務省警保局長だったときは、特高がもっとも残忍性をあらわにした時期で、33年には戦前でも最多の19人が拷問で虐殺されました。安倍は戦後、A級戦犯容疑で拘置されますが、占領政策の転換で釈放され、その後、右翼の結集体である新日本協議会を結成、児玉誉士夫らとともにCIA協力メンバーと目されるなど戦後政治の“陰”の存在として生きのびました。 毛利は、32年警視庁特高課が部に昇格、安倍が部長になるとその下で特高課長となり、“共産党壊滅に功あり”として勲五等旭日章をもらい、異例の出世をとげます。終戦直後に埼玉県警察部長を退職しますが、東久邇内閣から「功績顕著」として特別表彰さえうけています。 中川成夫は、高輪警察署長、築地署長と出世し、東京滝野川区長をつとめ、戦後46年に区長をやめた後、東映取締役興行部長となり『警視庁物語』シリーズなどを全国上映。一方、北区で妻に幼稚園を経営させ、これを背景に64年には東京北区教育委員長になりました。 岩田義道の虐殺に直接手を下したといわれている山県は43年に東京府会議員となり、戦後は丸の内署長時代に知りあったビフテキ店「スエヒロ」社長から店名を借り「スエヒロ」を開業、74歳で死亡するまでその経営にあたっていました。 (喜) 〔2005・2・17(木)〕 |