2005年1月3日(月)「しんぶん赤旗」 挑戦 模索よみがえった“古きよき時代”大分・豊後高田市の商店街
「商店街はここ十数年来、犬と猫しか歩いていないほど閑散としていました」。そんな町に今、年間二十万人が訪れ、観光バスも毎日のように七、八台が乗りつけます。「昭和」にスポットを当てた町づくりで活気を呼ぶ大分県豊後高田市です。 「ほとけの里」と呼ばれる大分県北部の国東(くにさき)半島。豊後高田市は西側の付け根に位置します。江戸時代から一九六〇年代半ば(昭和三十年代)にかけて地域商業の核として栄え、半島一の商都のにぎわいを見せていました。 ところが郊外への大型店の進出や過疎化などからさびれるばかり。そのうち大型店も撤退し、人通りはますます減り、廃業する商店も。人口は最高時のほぼ半減の一万八千人に落ち込みました。 歴史掘り起こしこれに立ち向かったのが商工会議所のメンバーです。事務局を務め、「昭和の町」仕掛け人の一人、金谷俊樹さん(49)が振り返ります。 「地域商業活性化委員会(一九九二年四月)を設け、大手広告代理店(電通)に活性化プランの作成を依頼したんです。ところが大規模建造物を多く含み、町を根底から造り替える構想で、ばく大な資金が必要でした。結局、お蔵入りしたんですが、このプロジェクトにかかわることで、思いが明確になったんです」 それは「大型店にくっついて生きる“コバンザメ商法”ではない、ミニ東京やミニ福岡でもない、高田の歴史や伝統、人々の思い出が詰まった自分たちの古里を生き返らせたいという意思」(金谷さん)でした。 そこで始めたのが歴史の掘り起こしです。行政・商議所・商業者の三者の協力体制をつくり、二〇〇〇年に中心市街地の三百一件に及ぶ店舗や居宅、空き地の所有者や世帯主、創業年、業種、建築構造などを徹底調査。そこからわかったのが、約七割が歴史ある建物で、全体が「昭和の博物館」ということでした。 メンバーの心がときめきました。「店先や看板さえ変えれば昭和三十年代の姿がよみがえる」 翌〇一年度には「商店街街並み修景事業」を実施。「県地域商業魅力アップ総合事業」の導入で統一的な景観、魅力ある街並みにするために店舗を改修、補修するという事業です。総事業費の三分の一を県と市、事業主が負担しあいます。 米蔵を再利用国の「中心市街地空き店舗対策事業」も活用しました。店には代々伝わる道具や商品を「一店一宝」として展示し、オリジナル商品を「一店一品」として販売。隠居も復活し、店先で伝統の菓子づくりを実演します。市民ボランティア「昭和の町御案内人」のガイドとあわさって評判を呼びます。マスコミも取り上げ、ツアーが増えました。 大きな役割を果たしているのが農協の米蔵を利用した「昭和ロマン蔵」「駄菓子屋の夢博物館」です。駄菓子屋には昭和三十年代を中心にしたブリキやセルロイドなどのおもちゃ、キャラメルのおまけ、ポスター、絵本など五万点を展示。ロマン蔵にはかつて活躍した三輪自動車や電気製品、農機具などが並びます。 この米蔵の再利用へ道を開いたのが、日本共産党の大石忠昭議員です。大分県きっての金持ちといわれた旧野村財閥が一九三〇年代半ばに建て、後に農協が譲り受けたもの。「農協は老朽化したライスセンターの建て替えを迫られていましたが、大きな借金を抱えて国の補助金が得られず、市の事業として建て替えて無償で貸与。その代わりに蔵を市に譲渡させたんです」と大石議員は語ります。 温かく、楽しく駄菓子屋の夢博物館では「うわー、懐かしい」「このころは生活が苦しかったけど、助け合って頑張ってきたね」などの会話が飛び交います。 館長は「日本一の駄菓子屋おもちゃの収集家」の小宮裕宣さん(56)。輸入雑貨を販売しながら全国を回り、二十万点を収集。「年齢に関係なく懐かしがり、急に泣き出したり、冗舌になったり。当時の食物の味やにおいから友達、生活、記憶の底にあったものを瞬時に思い出すんです」と小宮さん。「お客さんの変化を見ているとアルツハイマーなどの治療にも役立つのではと思っているんです」と声を弾ませます。 関係者は「観光客と地元の人が行き交い、互いに『温かい』『楽しい』と思われる町にしたい」と意気込んでいます。記事・写真 綾部健記者 |