2004年11月25日(木)「しんぶん赤旗」
新潟県中越地震から一カ月が過ぎ、なお全村避難が続く山古志村。村中のいたるところが崩落し主な道路が断たれ、これまでマスコミも陸路で入ることはできませんでした。二十四日、ようやく歩いて通れるようになった同村梶金集落を見ました。 阿曽 隆記者
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この日、長島忠美山古志村村長が初めて同地区に入りました。国土交通省から国道291号復旧作業の進ちょく状況の説明を受けるためです。これに取材陣も同行しました。
同村竹沢の古志高原スキー場から歩きました。ここを走る国道291号は、先月二十三日の本震でずたずたに崩落し、約十キロにわたって通行が不可能な状態に。現在迂回(うかい)する村道にそって復旧工事用の道路を確保する工事が急ピッチで進められています。
冷たい雨が降りしきります。
山が崩れ、田が割れ、鯉を飼う野池は亀裂が入り水が抜けています。息をのむような光景が続く中、川を越え、田のあぜを抜け、急こう配の道を四十分ほど歩きました。
約五十人が住んでいたという梶金集落は、ほとんどの住宅が全壊状態。復旧工事の資材を積んだヘリがひっきりなしに飛んできます。
長島村長は「ヘリからは見ていたが、実際に歩いてみて、大変な状況に改めてショックをうけました。しかし仮道路ができつつあるので、今後の対策も考えたい」と話します。
国交省は、雪が本格的に降り始める十二月十日をめどに工事用道路を完成させ陸路を確保したい考えです。
途中、手に手に荷物をもった二十人ほどの梶金の人たちとすれ違いました。初めて一時帰宅の許可がおりた人たちです。
長島村長は、「山古志の人たちはふるさとを捨てられないんだ。ふるさとに帰りたいという思いを私はかなえてあげたい。絶対に復旧します。頑張ります。今日はファイトをかきたてられました」と力を込めました。
新潟県中越地震で住まいを失った人びとが入居する応急仮設住宅の入居が二十四日、始まりました。一部入居がはじまった長岡市の長岡駅近くにある同住宅では、被災者が希望と不安のいりまじったようすでした。
長岡市高町団地に二世帯六人で暮らしていた須藤寿さん(55)夫妻と娘の大森梓さん(27)一家四人は、仮設住宅で部屋が隣同士です。この一カ月間、須藤さんと大森さんは車中泊、親せきの家、学校の避難所など、避難先が変わっていました。「やっと仮設に入ることができます。想像していたものよりも、しっかりとしたつくりなので安心しました」(大森さん)
高町団地の家は、外装にめだった損傷はありませんが、内壁に亀裂が入り、住むには修復が必要。「冬の交通の便が悪くなるので、仮設住宅に入ろうと家族で決めました」(須藤さん)。
入居を始めた人たちが、最初に住居に持ち込むものは掃除機や簡易式のたんすなど、さまざま。購入したばかりのオーブンレンジを車で運び入れた女性もいました。住宅の中には、トイレットペーパーやタオル、せっけんなどの生活に必要な物資が置いてありました。支給品の目録にある石油ストーブについては、二十六日から、仮設住宅のある敷地内のボランティアセンターで受け渡されます。
二匹のセキセイインコの鳴き声が聞こえてきたのは、宮内ゆり子さん(70)が入居した住宅。神奈川県横浜市に住む娘の夫の梶山末男さん(45)が昨夜から引っ越しの手伝いに来ていました。
ワゴン車で、小さめの冷蔵庫やたんすを運び入れ、じゅうたんを敷きました。
宮内さんが一人暮らしをしている長岡市村松町の築七十年の家は、一階部分の車庫が傾き、壁が大きく落ちるなど半倒壊し、住むことも修復することもできなくなってしまいました。
宮内さんが壊れた家から真っ先に持ち出したのは、今年五月に亡くなった夫の遺影でした。梶山さんは「二年間、離れ離れで、病院暮らしだったお父さんと一緒にいたかったんですね」と話しました。