2004年10月3日(日)「しんぶん赤旗」
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いま、世界の平和と安定、繁栄をめざす多くの国ぐにの国際的な協力、共同の活動のなかで、一九五〇年代にアジアから提唱された「バンドン精神」十原則の今日的意義が注目されています。
九月初めに中国の北京で三十五カ国から八十一政党の代表が出席して開かれたアジア政党国際会議で採択した宣言には、国連憲章と平和五原則及び「バンドン精神」十原則の目的と精神で相違点を解決する対話と協議をすすめると盛り込まれました。八月の南アフリカ共和国のダーバンでの非同盟諸国会議(百十六カ国が加盟)の外相会議の宣言は、来年四月にインドネシアのバンドンで開催予定のアジア・アフリカ会議五十周年を記念する首脳会議への取り組みを重視しています。この十原則の誕生と今日的意義をふりかえりました。
宮崎清明記者
新興独立国が結集 |
初めての国際会議 |
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インドネシアの首都ジャカルタから列車で南東へ約四時間。この国第二の都市、バンドンには、一九五五年四月に開かれたアジア・アフリカ会議の会議場が、博物館として残されています。
さわやかな空気に包まれた高原都市バンドンの市街から、アジア・アフリカ通りに面した博物館、独立会堂に入ると、会議に出席した二十九カ国の首脳や代表の写真が大きく展示されています。
インドネシアのスカルノ大統領、インドのネール首相、中国の周恩来首相、エジプトのナセル大統領、ビルマ(現ミャンマー)のウ・ヌー首相やベトナム民主共和国、パキスタン、アフガニスタン、サウジアラビアなどの代表たち。アジア・アフリカの旧植民地国が独立後、欧米諸国を入れずに結集した初めての国際会議の熱気が伝わってきます。日本の鳩山内閣の高碕達之助・経済企画庁長官もいます。
会議の模様を伝えた当時の世界各国の新聞のコピーの展示もあります。日本の新聞が一面トップで、「アジア・アフリカ会議終わる “植民主義”排す 原子兵器使用を禁止」(「読売」)と報じるなど世界に与えた反響がわかります。
貧しくても独立を勝ち取り、会議の成功を熱狂的に祝うインドネシア国民の喜びあふれる写真も目に焼きつきます。
会議の共同事務局の議長を務め、後にインドネシアの外相となったルスラン・アブドルガニ氏は自伝『薄れつつある夢 ルスラン・アブドルガニとインドネシアの物語』のなかで、この「バンドン会議」の意義を次のようにふりかえります。
「会議の場で、発展途上国は超大国の策動や役割を拒否した。会議は、冷戦時代の対立する同士の『中間の道』『自由な道』だった。バンドン十原則は、平和共存の諸原則を含んでいる」「会議の精神は国連にも重要な影響を与えた。アジアとアフリカの多数の新たなメンバーが(国連)総会に加入した。安全保障理事会では、アジア・アフリカの発言が重要な地位を占めるようになった」
アジアでの戦争回避、 |
「冷戦」緊張の緩和へ |
「バンドン会議」は、一九五三年四月にコロンボで開かれたインドネシア、ビルマ、セイロン(現スリランカ)、インド、パキスタンの五カ国会議で、インドネシアのアリ・サストロアミジョヨ首相が提案。各国が同意し、五五年五カ国が共同で主催しました。
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「アリ首相がこのような会議を提唱した動機は、なんといってもアジアにおける冷戦の拡大に伴ない、戦争を回避し、国際緊張を緩和することと植民地解放のためのアジア・アフリカの連帯をはかることであった」(『インドネシア現代政治史』元インドネシア公使、永井重信著)
第二次世界大戦後、アジアは、植民地支配や日本の軍事占領から解放され、独立や新しい国家の樹立があいつぎました。一九四五年九月にはベトナムが独立を宣言。四八年に朝鮮半島では南に大韓民国が、北に朝鮮民主主義人民共和国がつくられ、四九年には中華人民共和国が成立しました。
これに対して米国は、共産主義の「脅威」を叫びたて、ソ連や新中国、民族解放運動を封じ込める動きを強めます。四九年には、ソ連・東欧諸国を包囲する軍事同盟、北大西洋条約機構(NATO)を設立。日米安保条約に調印(五一年)、東南アジアでは東南アジア条約機構(五四年)、中東地域では中東条約機構(五五年)とあいついで世界各地に軍事ブロック、軍事同盟の網の目を張り巡らせました。これにたいしソ連は東欧諸国との軍事ブロック、ワルシャワ条約機構を結成(五五年)し、対抗しました。
こうしたなか、五三年七月に朝鮮戦争の休戦が実現。五四年七月にインドシナでの戦争終結に関するジュネーブ協定が調印されました。
植民地体制の崩壊がすすむなかで五四年六月のネール・インド首相と周恩来・中国首相との共同声明で平和五原則((1)領土、主権の尊重(2)不侵略(3)内政不干渉(4)平等・互恵(5)平和共存)が確認され、「バンドン会議」に受け継がれました。
「バンドン会議」参加国の内訳については、「軍事同盟加盟国が四、西側大国との二国間軍事条約締結国及び多少とも西欧に友好的な諸国が十三、社会主義国が二、非同盟的立場をとるグループが十」(『非同盟研究序説』増補版 岡倉古志郎著)と分類されています。
米国のダレス国務長官はアジア、アフリカの西側との同盟国、友好諸国にたいし会議ボイコットを呼びかけましたが、英、仏両国から説得されて戦術を変更。むしろ積極的に参加して反共、反非同盟の論陣を張らせるよう各国に圧力をかけました。
このため、会議では、各国代表の一般演説でイラク、トルコ、イラン、フィリピン、パキスタンが、共産主義の「脅威」に言及。平和五原則にたいしてもカンボジアやタイから注文や疑問が出ました。これにたいし中国の周首相は、バンドンに来たのは、「共通の基盤を探るためで、相違をつくり出すためではない」と一致点追求の重要性を説きました。中国はまた、平和五原則を厳密に守りアジア、アフリカ諸国との正常な関係を樹立しようとしていると強調しました。
植民地主義や平和共存の規定をめぐって激論が交わされました。
アジア、世界の平和へ |
広がる多国間の協力 |
会議は、意見の対立を乗り越えて最終コミュニケを採択。経済協力、文化的協力、人権及び自決、従属下の民族の諸問題、パレスチナなどの諸問題、軍縮と核兵器全面禁止を訴える世界平和と協力の促進、世界平和と協力の増進にかんする宣言が盛り込まれました。この最後の「世界平和と協力の増進にかんする宣言」に、「バンドン精神」十原則があります。(別項)
米国は平和五原則や「バンドン精神」を踏みにじって、アジア各地で内政干渉、侵略戦争を企てます。米国は最高時五十五万の兵力を投入してベトナム侵略戦争を遂行し、ラオス、カンボジアにまで戦争を拡大しました。しかし、バンドン会議から二十年後の七五年、米国はベトナム侵略戦争に敗れ、ベトナム、インドシナ全域から撤退を強いられました。米国が中東と東南アジアにつくった軍事同盟も消滅しました。
ベトナム戦争をめぐる対立は解消され、東南アジア諸国連合(ASEAN)にはベトナム、カンボジア、ラオスも加盟。一九七六年の初のASEAN首脳会議で五カ国が締結した東南アジア友好協力条約には、今ではASEAN十カ国の他、パプアニューギニア、中国、インド、日本も加盟しています。この条約は、国連憲章の諸原則に沿って恒久の平和をめざし、紛争の平和的解決、外部からの干渉、脅迫の排除をうたっており、平和五原則や「バンドン精神」十原則の内容を含んでいます。
「バンドン精神」を引き継いだ非同盟諸国会議の運動には、現在の国連加盟国百九十一の六割の国が参加しています。
米、英両国のイラク侵略戦争には世界中で三千万人が抗議し、非同盟諸国、フランス、ドイツ、中国、ロシアが反対しました。紛争を平和的に解決し、国連を中心に世界の平和秩序を多国間の協力で築いていこうという声がかつてなく広がっている今、「バンドン精神」は、私たちに新たな確信をあたえてくれます。
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