2004年8月29日(日)「しんぶん赤旗」
日本共産党は二十六、二十七の両日、第二回中央委員会総会を開きました。二日目、不破哲三議長が発言、討論の最後に志位和夫委員長が結語をのべました。その大要を紹介します。
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この中央委員会総会での幹部会の報告は、「二大政党制づくり」の情勢のもとで、いかにたたかってゆくか、という点に中心がありました。報告は、そのなかで、「二大政党」に対比して、わが党の議席の値打ちをどう押し出すかという提起をおこないましたが、これは、いまから三十四年前、第十一回党大会(一九七〇年)の決定のなかで、国会活動におけるわれわれの任務を定式化したことにつながるものです。「人民的議会主義」という言葉が生まれたのも、この大会においてでした。
われわれが立ち向かっている情勢の特徴をはっきりつかむ上でも、そういう時代からの歴史をふりかえって、今日の情勢をそのなかに位置づけることが、大事だと思います。
党創立八十二周年の記念講演で、この問題を話した時にも、「二大政党制づくり」というのは、根本から言えば、自民党政治の危機が生み出したものだと、述べました。このことも、歴史のなかで見ると、いちだんと明らかになってきます。
わが党は、一九六一年の第八回党大会で、「議会の多数を得ての革命」という路線をおりこんだ綱領を決定しました。しかし、六〇年代には、率直にいって、日本共産党は、国政の上ではほとんど問題にされませんでした。六〇年の安保改定反対の大闘争のときには、衆議院は一議席で、国会の安保特別委員会の討論にも参加できませんでした。何回かの総選挙を経て、六〇年代後半には、衆議院で四〜五議席を占めるところまで前進しましたが、綱領制定の最初の時期の国会活動の出発点は、こういうところだったのです。国会活動の位置づけもそう明確にはされず、六〇年代の中ごろ、中国の毛沢東派の干渉攻撃が始まり、「議会や選挙に力を入れるのは修正主義だ」というようなことを言われると、ごく一部ですが、その影響を受ける部分も出てきたものです。
その時代に、川島正次郎という自民党の副総裁が、たしか六〇年代もおそいころでしたが、「七〇年代の、自民党の最後の相手は共産党になるだろう」と発言したことがあるのです。まだわが党が小さい議席しか持たなかった時代に、ともかく“やがては大きな敵になるぞ”という見通しを述べたのですから、自民党の政治家ながら、なかなか天晴れ(あっぱれ)な発言でした。
その日本共産党が、一九六九年暮れの総選挙で十四議席を得、ほぼ二十年ぶりに二ケタの議席に躍進して、七〇年代を迎えました。そして、七〇年の夏に開いた大会で、国会活動にのぞむ党の根本態度を「人民的議会主義」という言葉で特徴づけ、国会活動の三つの任務を提起したのです。それまでは、国会活動といえば、戦前から引き継がれた「宣伝と扇動の演壇」ということが、決まり文句のようになっていましたから、わが党の国会活動の特徴づけに「議会主義」という言葉を使ったこと自体、新鮮な驚きをもって迎えられたものでした。そして、「三つの任務」というのは、第一に、“政治の実態を国民のまえに明らかにする”こと、第二に、“国民のための改良の実現をはじめ、国民の要求を国政に反映させる闘争の舞台”とすること、第三に、“国会の多数を基礎にして民主的政府を合法的に樹立する”目標を追求すること、です。党綱領の路線を、ここまで具体化したところに、七〇年の第十一回党大会の大きな意義の一つがあったのです。
この方針は、党躍進の大きな力となり、七二年の総選挙では、三十八議席を獲得して、野党第二党の地位を得ました。
この時代の政党状況はどうだったかというと、一方で、自民党が、ほぼ三分の二近い多数議席をにぎっている。それにたいして、社会党、共産党、公明党、民社党の四つの政党が、野党として立ち向かっている。自民党政治にたいする態度はいろいろあるが、安保条約の現状に同意しないことでは、すべての野党が一致していました。この問題ではいちばん自民党寄りの民社党でも、「駐留なき安保」が方針で、米軍の常駐には反対していたのです。また、大企業中心の政治に対する態度の点でも、少なくとも七二年の総選挙でわが党が躍進して以後は、どの党も一応は反対の態度をとりました。
こういう中で、“いったいどの野党が本気で正面から自民党と対決できるのか”、これが、おおよそ、七〇年代の政党選択の一つのパターンになりました。
このときの日本共産党の躍進は、支配勢力や自民党の側にとっては、不意打ちでした。
自民党のなかでいちばん“先の見える”人物でも、“七〇年代の、自民党の最後の相手”といっていたわけですから。その共産党が一挙に野党第二党になったわけで、この流れをどんな手段を使ってもひっくりかえす、これが支配勢力の側の至上命令になったのです。
こうして反共大作戦が仕組まれました。これには、二つの柱がありました。一つは、民社党の春日質問に始まった、戦前の治安維持法下の弾圧事件を引っ張りだしての謀略的な日本共産党攻撃、もう一つは、公明党が中心になって社会党を安保容認・共産党排除の陣営に引き込む政界工作です。七〇年代には、私たちと社会党とのあいだで、地方では革新自治体づくりの共闘が広く組まれて、革新自治体の網の目が全国に広がりましたし、国政の上でも、「革新統一戦線をめざす」という協定が党首会談で何回も確認されました。そこに、公明党の工作でクサビを打ち込み、共産党を孤立化させる、こういう作戦でした。
この工作が実を結んだのが、一九八〇年一月の「社公合意」で、その「合意」に、安保条約容認論から日本共産党を排除することまで、支配勢力が望んだすべてが盛り込まれました。
これを転機に、八〇年代の政党地図は、七〇年代とはがらっと変わりました。安保条約容認論が日本共産党以外の野党の共通の立場となりました。「社公合意」の“共産党排除”の確認が、国会内にも国会外の運動にも持ち込まれて、国会での野党の協議からも共産党を締め出す、運動分野でも、安保闘争以来の共産党・社会党・総評の共闘をぶちこわす、地方選挙での革新共闘も各地で消滅する。こういう形での共産党の締め出しと孤立化の作戦が、八〇年代には大規模に展開されました。
七〇年代の“自民党とそれにたいする四つの野党”という状況から、日本共産党排除の「オール与党」陣営に日本共産党が対決する、という政治地図に変わったのです。わが党にとって、なかなか困難な時期でしたが、政治の流れの大きな方向は、そのなかでも、明白でした。いくら「オール与党」体制でささえても、自民党政治の国民に背を向けた本性は変わらないのですから、その腐った姿やその破たんが表面化してくると、その影響は、今度は、「オール与党」の全体への打撃となり、「オール与党」全体が世論のなかで沈下するのです。そして、八〇年代の後半から九〇年代の初めにかけて、金権政治などへの批判が噴き出てくるごとに、マス・メディアのなかでも、“共産党待望論”というか、世論の流れに共産党支持への「地殻変動」が起こっている、などということが書き立てられたりしたものでした。
もちろん、状況は単純ではなく、こういう流れが八〇年代末には“天安門事件”で一気に逆転するとか、ジグザグはありましたが、九〇年代に入って、ゼネコン疑惑で自民党副総裁の金丸信氏が逮捕された時には、自民党政治の危機はかなり極点に達したと言えるでしょう。そのときにも、“次の選挙では共産党躍進か”とかいうことが、しきりに言われたものでした。
こういう状況のなかで、自民党政治の「受け皿」勢力をつくって、自民党批判の世論をそこに吸収しようという、新しい作戦が始まったのです。解散・総選挙に前後して、大きな勢力が自民党を割って出る大分裂が起こり、それを背景に、新生党、さきがけ、日本新党、などの新党が生まれました。それらの新党が、社会党、公明党などこれまでの野党勢力と「非自民」連合を組んで、自民党と政権を争う――こういう政党対決で、有権者に政党選択をせまろう、という作戦です。総選挙では、「自民か非自民かの対決」だけが持ち上げられ、わが党のように、どちらにもくみしない政党には出番がない、といった状況が人為的につくられました。
この選挙で、「非自民」連合が勝利して、細川内閣が生まれましたが、実は、「二大政党制」への動きというのは、底流としては、すでに始まっていました。諸政党の連合という形で政権をとってしまったわけですが、その内閣が、すぐ小選挙区制への選挙制度改革を実行しました。そして、細川首相が政権を投げ出したときに、新生党の小沢一郎氏(現在の民主党幹部)を中心に、与党の大合同が画策されますが、このねらいは、小選挙区制と抱き合わせての「二大政党制づくり」にあった、と思います。根回しがうまく進まないままでの画策だったため、失敗して、新進党という、より小規模な合同に終わり、政権も、やがて社会党との連立に踏み切った自民党にとりもどされますし、「非自民」の側も、逆に離合集散が激しくなって、一時は野党の数が十を超えるという“乱立”的な時期もありました。
こういうなかで、日本共産党の役割が注目され、九〇年代後半には、わが党は、選挙でもかなり前進しました。
しかし、政権交代の「受け皿」づくりで、自民党批判の流れを「非自民」的な政党に吸収する、という作戦が、九三年にすでに始まり、そのときは失敗に終わったとはいえ、小選挙区制を基礎にした「二大政党制」という筋書きがつくられていたことは、注目すべきことです。
九三年以後の時期についての分析は、幹部会報告で詳しく述べられていますから、くりかえしませんが、いま、私たちが問題にしている、「二大政党」と日本共産党との対決という情勢は、底流としては、すでにこのころに起点がある、と言えます。
こうして、政党状況の変化を歴史的にふりかえってみて、私は、そこに示されているいくつかの政治的特徴をきっちり見ておく必要があると思います。
第一は、七〇年代の自民党と四つの野党の対決、八〇年代の「オール与党」と日本共産党の対決、九〇年代を経て現在の「二大政党づくり」と日本共産党の対決、こういう経過の全体を特徴づけているのは、自民党政治の長期的な低落と危機の深まりの過程だということです。自民党が、単独では政権をつくれなくなって、他の党との連立を不可避としているだけでなく、依拠してきた組織基盤にも、あちこちに腐りや機能麻痺(まひ)が目立ってきています。そのなかで、自民党政治そのものを維持する“大作戦”として、「二大政党制づくり」が、かなり強引に仕組まれてきたのです。
第二は、こういう変化のどの段階でも、支配勢力の側が、戦略目標として一貫して追求しているのは、日本共産党の前進をいかにして食い止めるか、あわよくばこれをつぶしてしまうところまで攻め込むかであり、これが全部をつらぬいている、ということです。
七〇年代にわが党が躍進したとき、政界の全体を反共主義で再編成するところまで大がかりな作戦をやり、八〇年代の「オール与党」時代をつくりだした、これは、もちろん日本共産党対策のためでした。その後、「オール与党」の支持のもとでも自民党政治の崩れが激しくなってくると、自民党の大分裂をあえてして、「自民対非自民」という状況をつくりだして、政局の様相を一変させた、これも、自民党政治への国民的な批判を共産党の前進に絶対に結びつけまいとする日本共産党対策を、なによりのねらいとしたものでした。そして、「二大政党制づくり」の小選挙区制実現のときには、マスコミの全体を機構的に小選挙区制推進の陣営に組み込む、という特別の手だてまで講じました。
今度の「二大政党制づくり」には、財界諸団体が公然と介入して旗を振り、選挙のたびに、自民党だけでなく、「二大政党」の双方にたいする大規模な応援をおこないました。これも、明らかに日本共産党対策のためです。
日本共産党は、意図的に「小さい」「小さい」と言われますが、支配勢力にとっては、小さいどころか、“主敵”としてもっとも恐れている相手なのです。だから、日本共産党が少しでも前進の時期を迎えると、支配勢力はなんとかしてこれを押さえ込まなければいかん、つぶさなければいかんと、総がかりの全力投球でかかってくるのです。
私たちの政治闘争には、いろいろな時期、いろいろな局面がありますが、この闘争は、どんな局面でも、相手側のそういう攻撃との対決であり、自民党政治の衰退の過程が進むなかでの相手側の攻撃の変化だということを、しっかりつかむことが大切だと思います。
日本の支配勢力にとっては、日本共産党が伸びるということは、ほかの政党が伸びることとは、質的に違った意味をもっています。それは、日本の政治・経済を、財界やアメリカの利益中心に動かしてきたいままでの体制が、本当に変わってゆく道が開かれることですから、そんな変化は絶対に許さないと、そういう死活の利害をかけた支配勢力の攻撃であり、私たちの闘争は、そういう攻撃との対決という性格をもっているのです。
第三に、「二大政党制づくり」の現状ですが、報告が述べているように、「二大政党制」は、日本ではまだ、しっかりした形を持ってはいません。
実際、いま“政権交代勢力”とされているのは民主党ですが、この党が、いろいろな不安定性をかかえているのは、ご承知のとおりです。
だいたい、政党として、きちんとした組織を持っていないでしょう。だいたい、日本共産党以外の諸政党をみると、日本の政党は、ヨーロッパの諸政党とくらべて、政党が、組織の基盤を、企業や業界団体、労働組合、宗教団体など、ほかの組織においている、そして自前の組織をもって、その力で有権者のなかに根をおろすという活動がたいへん弱い、そこに共通の弱点があります。この弱点は、寄り合い所帯という経歴から来る政策的、組織的な混迷とあわせて、民主党にもっとも強く現れていると言ってよいでしょう。民主党が、こういう現状から出発して、今後、どう成長してゆくか、あるいは成長しそこねるか、これは、私たちが予告すべき問題ではありませんが、ともかく、そういう不安定さをもっていることは確かです。
しかし、ここで大事なことは、民主党という党がどうなるにせよ、自民党に代わって政権交代する勢力を前面に押し出して、自民党政治への国民的な批判の流れが日本共産党への支持に結びつくことを食い止める、という政治戦略は、かなり長期にわたって、日本の支配勢力の基本戦略になるだろう、ということです。この戦略は、民主党という政党のたどる運命のいかんにかかわらず、変わらないでしょう。
ですから、相手側のこういう政治戦略のもとで、われわれがいかにたたかうか、この中央委員会総会で幹部会が提起した方針は、そういう長期的な性格をもったものだということを、よく見てほしい、と思います。
「二大政党制」といっても、支配勢力は、二つの政党のあいだで実際に政権のやりとりがおこなわれることを、おそらく期待しているわけではないと思います。彼らにとっては、手慣れた自民党が、他の政党と連立してでも、政権を担い続けることが、一番望ましい状態でしょう。
財界など支配勢力にとっては、「二大政党」を押し立てる一番のねらいは、“政権交代勢力”――いまでは民主党ですが、その存在をいつも押し出すことによって、有権者の関心を“誰が次の政権担当勢力か”という問題に集中させて、反自民の票を日本共産党に流させない、この体制をつくるところに目前の最大のねらいがあります。その戦略をどうやって打ち破ってゆくか、このことに、私たちは、長期戦の構えで取り組む必要があります。
ここをわれわれが乗り越える、そういう体制づくりに打ち勝って、日本共産党が選挙のたびに前進するような情勢をつくりだしたら、これは、支配勢力が全力をあげて築いた防壁が崩れて、自民党政治の危機がいよいよ本物になるということです。だからこそ、相手側も、そんな事態を引き起こさせないように、総力をあげるのです。
私たちは、今回の中央委員会で、あらゆる面で、長期の展望を持ちながら本気で構えるという方針を打ち出しました。後継世代の問題、綱領の学習の問題、国民と深く結びついた支部をつくる問題、「しんぶん赤旗」を通じての有権者とのつながりの確保・拡大の問題などなど、党づくりの方針も、そういう立場で提起しているものです。政治闘争の面で、「二大政党制づくり」の動きにたいし、日本共産党の議席がいかに重要な値打ちをもっているか、この問題を日常不断に押し出してゆくという構えを強調しているのも、同じ立場です。そういう点で、今回の会議で提起した諸方針を、ぜひ党活動の長期の指針にしてほしい、と思います。
私は、これこそ、まさに階級闘争だということを、強調したいと思います。「階級闘争」というのは、史的唯物論の教科書に書いてあるだけの話ではありません。昔から、“政治闘争は、階級闘争の集中点だ”ということが言われてきましたが、さきほど、この数十年来の日本の政治史のあらましをふりかえってみたように、わが党が前進すると、必ず支配勢力の主部隊が乗り出してきて、押さえ込みにかかる、自分たちがいま持っている手段だけで足りなかったら、政界の反共主義的再編に乗り出しもすれば、マス・メディアの総動員もやる、ありとあらゆる手段でかかってくるのです。これとの闘争こそは、日本の未来をひらく先進部隊としての日本共産党の力と値打ちが試される最大の舞台となります。
私たちは、活動の上で、毎日、いろいろな問題にぶつかりますが、どんな問題でも、そういう立場で取り組むことが大事になります。
たとえば、「党名」問題があるでしょう。「共産党という名前を再検討してほしい」という声は、参院選のあと、あちこちでずいぶん聞かれました。そういう意見をいってくる一人ひとりの方は、善意から、「名前を変えたら伸びやすくなるのではないか」と考えて、こういう意見を寄せてくる場合が多いと思います。しかし、日本共産党が、「共産党」という名前を捨てて“普通の政党”になったら、一番大喜びをするのは、支配勢力の側なのです。戦前から、この党に攻撃を集中して、「共産党はこわい党だ」という悪宣伝を、ありとあらゆる形でやってきたのが、日本の支配勢力なのですから。
その共産党が、攻撃に屈服して「共産党」という名前を捨てたら、いちばん凱歌(がいか)をあげるのは、日本の支配勢力でしょう。「党名」というこの問題も、現実に、こういう階級闘争の焦点の一つという位置を占めているのです。
この問題では、イタリアに興味深い実例があります。イタリア共産党は、戦後のヨーロッパで、もっとも強力な共産党でした。その時代には、イタリアの支配勢力だけでなく、アメリカ政府までが、この党の政権参加をおそれたものです。共産党が総選挙で34%を超える得票を得、政権に近づいたといわれた時(一九七六年)には、米英仏独の四カ国が、“イタリアで共産党が政権に入るようなことになったら、経済援助を停止する”という、あからさまな内政干渉宣言を出したほどでした。ところが、その共産党が、一九九一年、反共の圧力におされて共産党の旗を捨て、「左翼民主党」に名前を変えたのです。翌九二年の総選挙では、もくろみが外れて四百万もの得票を失ったものの、九六年には連合政権に参加することに成功しました。ところが、反共主義に屈服して共産党の名前を捨てたとなったら、この党が政権に参加しても、拒否反応を起こしたものは、アメリカをふくめて、世界のどこにもありませんでした。この歴史は、共産党がその名前を捨てて共産党でなくなることを、一番望んでいるのは誰か、ということを、みごとに示していると思います。
私たちは、新しい綱領で、日本共産党が、当面、資本主義社会の民主的改革のために全力をつくすとともに、将来的には、資本主義をのりこえた未来社会――本当に人間が協同しあえる社会をめざす政党であることをあらためて明らかにし、日本共産党という名前には、この名前と結びついた誇りある歴史とともに、未来社会の開拓者という展望も刻み込まれていることを鮮明にしました。「党名」問題で疑問をもつ多くの善意の方々とは、こういうこともふくめて、対話を通じてこたえてゆく努力が大切です。
もう一つ言えば、今度の報告では、職場支部の問題をとりあげました。
私は、五〇年代からしばらくの時期、鉄鋼産業の労働組合で活動していましたが、当時、大経営の多くの職場に、日本共産党の支部もあれば、社会党の組織もありました。多くの場合、社会党は組合をにぎっていました。しかし、六〇年代に入って、その会社が労働政策を、社会党容認からもっと右の方向に切りかえると、主要な経営で、社会党の組織はほとんど姿を消してしまいました。これにたいして、どこでも、あらゆる迫害・弾圧に抗して生き残り、組織を発展させたのが、日本共産党の組織でした。これは、鉄鋼だけではなく、日本の多くの産業で起こったことでした。経営者陣営は、党の組織をつぶすために全力をあげ、無法な差別の政策に打って出ました。いま、全国で裁判闘争の一連の勝利が記録されていますが、これは、資本の抑圧に反対する頑強なたたかいでかちとった成果です。私たちがもっている職場支部は、こういう闘争を通じて、大経営などでかちとり維持し発展させてきた陣地です。後継者づくりに成功しないために、その陣地が消えてゆくとしたら、これは、日本の階級闘争における大後退となります。この問題にも、そういう位置づけで取り組んでほしい、と思います。
私たちは、党活動のなかで、さまざまな分野でさまざまな問題にぶつかりますが、日常的には、あまりその位置づけをよく考えないで、日常の仕事として、実務的に扱う傾向におちいりがちです。しかし、相手の方は、共産党にかかわる問題は、彼らなりに階級闘争の問題としてとらえ、きわめて自覚的にかかってきます。自分たちの支配体制をいつまでも続ける、この根本利害がかかっているわけですから、共産党をなくすことに役立つのだったら、利潤第一主義が建前であっても、そこにはいくらお金を使っても惜しくないのです。ここに彼らの階級的気概があります。
私たちが、階級的気概の点で、支配勢力に負けるようなことがあってはなりません。そのためには、どんな分野の活動も、絶対にたんなる実務としては扱わない、日常の行政仕事としてすまさない、たたかいの場の問題として、それにふさわしいやり方で本気で取り組む必要があります。
今回提起した、「二大政党制づくり」との対決のもとで、いかにたたかうか、という方針を、そういう意味で受け止めてほしい、と思います。
最後になりましたが、日本共産党の議席の値打ちということで、第十一回党大会の国会活動の三つの任務を、六つのポイントに具体化しました。このなかに、一九七〇年の段階では、とても出てこなかったポイントがあることに、気づかれたでしょうか。
それは、第五点の「世界の諸国民と日本国民の平和の願いをつなぐ議席」です。これは、わが党が、まだ政権党ではないんだが、政権党に匹敵する外交活動を展開し、それが成果をあげていることの反映なのです。
野党外交については、これまでもいろいろな機会に話してきましたが、今日はごくごく最近のニュースを紹介しておきます。
中央委員会総会の直前に、非同盟諸国の外相会議が南アフリカのダーバンで開かれ、緒方国際局長が出席しました。これは、日本のアジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会の代表としての参加で、この組織の秋庭理事長と二人でゲスト(来賓)として参加したのです。ところが、緒方さんが会場に行き、ゲストのバッジをもらうために資格審査の係に会ったら、この人が、非同盟諸国との関係をいろいろ聞いてくるのです。聞かれるままに、自分の外交活動のあらましを話したら、「それはすごい、政府以上の活動だ。あなたは、『ゲスト』ではなく、『デリゲート』(代表)の資格がある」と言って、「代表」のバッジをくれました。そのために、政府代表が出るどの会議でも、自由に出席できたという報告でした。
このように、わが党が展開してきた野党外交は、非同盟諸国会議の目から見て、「政府以上」の活動だと評価されるような規模と意義をもっているのです。ここにも、未来につながる日本共産党の役割が現れているわけで、こういう発展も確信の一つにして、活動の前進と発展のために、大いに努力してゆきたいと思います。