2004年7月23日(金)「しんぶん赤旗」
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新潟県三条市の日本共産党市議、西沢慶一さん(64)は、十三日の新潟・福島集中豪雨被害で、自らも床上浸水被害にあいながら、住民救援活動やその後の復旧活動に奮闘しています。この間の生なましい体験や活動の状況を次のように語りました。
七月十三日午後一時、三条市の真ん中を流れる五十嵐川が決壊し、街のほぼ半分が水没する大きな被害となりました。
私の家も濁流で一階部分が水につかりましたが、日本共産党の市議として、また党市委員長として地域住民と行政の懸け橋として毎日、党の仲間と活動を続けています。
その時、私は一人で家にいました。妻は長岡市の施設でリハビリ中でした。子どもたちもそれぞれ大きくなり、独立しています。
水害の前日夜から強い雨が降る中で、私は五十嵐川支流の水位を下げるために、市の職員や自治会長さんらと排水ポンプを稼働させたり、水位を警戒して十三日早朝からカッパを着込んで堤防の周辺を駆け回りました。
堤防が切れたことをラジオで知りましたが、避難勧告も聞かれなかったので、応援にきた国土交通省のポンプが稼働するのを待って、午後三時すぎに自宅に戻ろうとしました。しかし、その時はすでに首まで水が上がっていて、流されないように必死でブロック塀につかまりながらやっとの思いで自宅に帰りました。
町内は百八十七世帯ありますが、ほとんどが水につかっていました。
足の不自由な隣家の若穂囲リツさん(83)、泰子さん(53)親子の家は平屋建てで、もう首まで水につかっている中、近所の人たちと海水浴のボートをつかって助け出しました。家と家とにロープを渡し、流されないようにして、窓から救出しました。
こういう中で三条市全体では九人の方が亡くなっているわけで、ほんとうに間一髪のことでした。
私の地域ではほとんどの住民が逃げ遅れ、不安な夜を過ごし、八十人くらいの人がヘリコプターで救助されました。
私も家に入ると、一階は畳が浮かびテレビが泳いでいるような状態で、二階で電気も食べ物もなく、眠れぬまま、十四日の朝を迎えました。
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十四日は濁流がひどく、身動きとれず、家の近くに住む町内会長さんと「頑張ろう」と声を掛け合いながら半把だけあったソーメンを水で洗って食べていました。
十五日になって、電気と水道が復旧し、水がやっと腰くらいに引く中、見附市にすむ二男や、同僚の相田芳枝市議、高橋誉市議が心配して探しにきてくれました。
それからは市議団、市委員会で、党員や「しんぶん赤旗」読者の安否や被害状況をつかむことやボランティアの受け入れなどの仕事のほか、私の地元町内の被災者の支援のために泥まみれで奮闘しました。
私の町内でも、ボランティアの応援もあり、それぞれの家で片付けが大分すすんできました。その一方、二十日になってやっと安否が確認できた人もいます。
町内会長さんと、二人で町内をまわると、片付けにまったく手をつけていないままの家がありました。
水が引いたのに、家に帰った様子がなく心配しました。身内の方に連絡をとったら、避難所にいることが分かったんです。避難所にその方を訪ね、安全を確かめました。
二十二日に、その方の立ち会いで、党のボランティア十人近くが手伝いに入り、タタミや粗大ごみの搬出、ドロのかきだしから床下の消毒までしました。
ごみ出しからドロ出しまで、自力で行える家庭はまれです。大半の家庭では助けが必要な状況です。高齢者の一人暮らしで、何をしていいかわからず、力を落としている方もいます。
床上浸水したわが家のことを、まわりの方が心配してくれます。独立した子どもたちが手伝いにきてくれたから大丈夫だよ、といっています。地域の方が一番もとめていることは何か、それにこたえるのが日本共産党議員の使命です。あたりまえのことなんですが、水が出る前だったら、なんとか水がでないように努力する。水が出てしまったら、みなさん無事か、水が引いたら困ったことはないか、自分の家は、夜中に少しずつでも片付ければいいんです。
「体大事にしてください。倒れられたら困ります」と励ましてくれる住民もいます。被災者の生活を、家を仕事をどうたて直していくのか、これからが正念場です。地域の方々や行政と手を結び、党議員団、党組織とともに奮闘していきたいと思います。