2004年6月18日(金)「しんぶん赤旗」
日本共産党の両院議員団会議が16日行われ、今期限りで勇退する7人の参院議員のあいさつがありました。その要旨を紹介します。(五十音順)
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一九九八年に当選し、周辺事態法、テロ特措法、有事法制、イラク特措法と、任期中の六年間が自衛隊の海外派兵に反対し、憲法を守るたたかいでした。あまり大きな力は発揮できませんでしたが、少しは貢献できたかと思っています。
二〇〇五年に自民党の改憲案が出る前に辞めるのは大変寂しい思いです。相手がどう思っているか分かりませんが、“小泉(首相との)対決”ができないのが残念です。とくに憲法改悪の問題では正念場のたたかいになります。自民党の改憲派のなかには、議員を辞めて八十歳を超えても頑張っている元首相もいるので、私も負けるわけにはいきません。
宮本百合子の言葉に「平和は眠りを許さない」というものがあります。私もこの言葉をかみしめて、憲法改悪を阻止するために引き続きたたかいたいと思います。参院選で選挙区七人、比例五人の方に絶対に勝ち抜いていただいて、再び国会で活動されることを期待したいと思います。私も微力ながら頑張りますので、今後ともよろしくお願いします。
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振り返ると六年前、九〇年代不況のなかで金融ビッグバンが始まり、山一証券、北海道拓殖銀行が倒れ、消費税増税があり、騒然としたなかでの選挙でした。そのとき大躍進して国会に送っていただきましたが、以来、財政金融委員会に身を置いて金融ビッグバンとのたたかいを続けてきました。最後は金融二法の本会議採決をめぐる大混乱で終わる状況でした。
一方でみれば、残念ながらわが党の議席は減り続けました。そのなかで野党からも憲法改悪や消費税増税が公然と語られ、国民いじめや平和をないがしろにする動きが高まりました。いい仕事もできましたが、大きな流れでは残念な方向に向かいました。しかし、一月の党大会で新しい綱領を手に入れ、反転攻勢に出ることになりました。
議員の数は減りましたが、着実に議員団の力はつけてきたと思います。事務局のみなさんと一体となって培った議員団の蓄積は、必ず将来大きな力になると思います。私は政治から引退するわけではありません。ともに頑張っていきたいと思います。
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六年間、ほんとうにありがとうございました。
先日、地元新聞社からインタビューを受け、議員生活をふりかえってみてどうですかと聞かれましたが、私はあまりふりかえったことがありませんでした。夕べちょっとふりかえってみました。六年間で百二十四回、発言をしていました。秘書、事務局、先輩議員のみなさんに支えられ、一つ一つの質問が全力投球でした。
大学を卒業して約四十年、そのうち三十年間が議員活動でした。地方議員が長かったが、やはり国会にきてみて、国権の最高機関としての責任の重さをずしりと感じながら活動してきました。
九八年の当選から今日まで、歴史的な大きな変わり目だったと思っています。社会保障分野では、介護や医療、今回の年金の問題と、どんどん改悪されながら、一方で戦争の方向にどんどんすすむ。やはり福祉と戦争は絶対に両立しないということが私の原点ですが、そのことをずっと感じながらの国会活動でした。
いよいよ選挙直前、埼玉県と北関東中心にがんばりたいと思います。
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一九六二年の新日本婦人の会創立に参加し、要求実現運動が国民の政治的な自覚を高め、広げることを学びました。これが政治を動かす力だと感じて頑張ってきました。九八年に「草の根を国政に結ぶ」と国会に送っていただきました。国民の運動と日本共産党の協力・共同の関係を確立する初めての試みでした。
厚生労働委員会、国際問題調査会、首都移転特別委員会に所属し、草の根の要求を国会の場に直接つなぐことがどうすればできるのか、少しずつ分かってきました。その貴重な教訓を今後の力として生かしていきたいと思います。
世界の情勢は平和の方向で大きく動いており、日本の政治がいかに遅れているかを感じています。日本共産党がいま本当に出番のときを迎えていることを感じています。
今度の参院選へ一直線。ただひた走りに走り、日本共産党を大きく躍進させたい。その後はもっと広く、根強く、厚みを持つ民主主義を築くために、学んだもののすべてを草の根で生かして、命絶えるまで頑張りたいと思っています。
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一九八三年、初めて参院比例選挙で名簿に載ったとき、私のスローガンは「広島の心を国政に」でした。この思いをしっかりとバトンタッチしていきます。
この六年間、参院共生社会調査会で、ドメスティックバイオレンス(家庭内暴力)防止の法案をつくりあげ、今国会では改正することができました。調査を重ねるなかで、女性の五人に一人が精神的な暴力の被害者である。二十人に一人は命の危険にかかわるような暴力を受けていることを知り、女性全体の人権にかかわる問題だという思いで、超党派で取り組めたことは、たいへん大きな経験でした。
また、国立大学の独立行政法人化の問題で大学人との共同をすすめることができました。国連の「子どもの権利条約」の審査に立ちあい、子どもの人権の重要性も再認識しました。
参院選挙勝利のためにがんばるとともに、十二年間でえた経験をいかしながら、草の根のたたかいでがんばっていきたいと思います。
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一九七七年に市民運動の分野から候補者活動に入りました。七九年の衆院初当選以来、二十七年で八回選挙をしました。この経験は、私の人生にとってとても貴重でした。活動を支えていただいた有権者、党、後援会のみなさんに、改めて心から感謝申し上げます。
衆院時代は夢中で選挙区を走り回りましたが、参院ではじっくりと腰を落ち着けて環境、ゴミ、消費者分野で活動できました。かけがえのない六年間でした。環境分野では北海道のオオワシ、白神山地や私の環境の原点の東京の圏央道問題、奄美大島のアマミノクロウサギ、沖縄のジュゴンの問題など環境保護団体、NPO(非営利組織)、専門家のみなさんと力を合わせとりくみました。
議員団のなかでは「岩佐はまた山にこもってる」(笑い)と心配されながら、専門分野で活動できるよう協力いただいたことも幸せでした。このたび干潟保全法案を提出することができましたが、法案を出せる議員団が何としても必要です。今度の参院選でそういう議員団をつくるため、大いに力を合わせて頑張ります。
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十八年間の国会議員としての活動が終わるいま、一九四九年二月に党の地区委員会の常任活動家になってから、五十五年半の常任活動家を終える機会にもなります。
いま、議員十八年間をふりかえる余裕はありません。年金法、有事法制の、あのひどい強行にたいする怒りの方が先立っています。この怒りを参院選を勝利するエネルギーにして、みなさんといっしょにたたかい抜きたいと思っております。
十八年間、いろいろな委員会に所属してきました。質問準備は苦闘でした。マルクスのいう「学問の道に平安の大道はない」という言葉を念頭において努力してきました。同時に、党綱領では、世界史の進行には多くの波乱や曲折、ときには一時的な、あるいはかなり長期にわたる逆行もあるが、大局的には歴史の進歩は不可避的な発展方向だとあります。この確信があれば、どんな困難もうちやぶって前進できると思っております。
五十五年前に常任活動に入ったころに比べ、今日の日本共産党が国際政治、国内政治の上で果たしている役割は、誇りを持つことができます。ひきつづき、一生懸命にみなさんとともにがんばっていきたいと思います。