2004年3月30日(火)「しんぶん赤旗」
和歌山県橋本市の市役所職員・辻田豊さん(享年四十六歳)の過労自殺が今年一月、改めて公務災害と決定されました。一度は「公務外」とされたものを公務災害の審査請求で逆転したものです。家族と橋本市職員組合や全国に広がった支援の輪の成果でした。市職労が二十七日に開いた報告集会で、妻・加代子さんは「取り組みは、絶望の中にいた私たち家族に生きる希望を与えてくれました」と振り返りました。和歌山県・川崎正純記者
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総務管理課文書係の専門員(課長補佐級)だった辻田さんは当時、地方分権一括法、情報公開、公の施設に関する条例改正などの業務を同時にすすめるという激務に追われていました。自殺(二〇〇〇年三月一日)した前月の残業は百十五時間、自宅に持ちかえってのふろしき残業なども含め実質推定百九十四時間に及んでいました。
しかし、「相談する相手もない状況の中で、実質的責任者として過重な業務を期限内に完成させることを求められた」(地方公務員災害補償基金県支部の審査会裁定書)辻田さんは肉体的精神的に追いこまれていきました。
辻田さんは仕事に疲れ果て、二日間欠勤した後「仕事に行く」と朝八時に家を出ました。しかし、行き先は市役所とは反対の、市長が自宅から役場に通う道でした。道の脇に車を止め、車中で十一通の遺書を書いたと思われます。
辻田さんが亡くなった十六日後の二〇〇〇年三月十七日、JR和歌山駅近くのビルの一室で市職労の北岡慶久書記長は、由良登信弁護士の手元を見つめていました。コピーされた辻田さんの遺書十一通が一枚一枚めくられていきます。たたかいの始まりでした。
「疲れきった主人をどうして『仕事にいかないで』としがみついてでも止めなかったのか。私たち家族がいなければ主人は、仕事をやめることができたのでは」
打ちひしがれていた妻の加代子さんら家族も「過労自殺は公務災害として認められるべきです。いっしょに頑張りませんか」という組合からの助言に顔を上げました。市職労は大会で組織をあげて取り組むことを決めました。
由良弁護士は申請にむけ必要書類の整備をすすめていた同年九月、辻田さんが命を絶った場所に立ちました。
「そこは山の中腹で少し開けていて、辻田さんの愛する家族が住む家が遠い先に見渡せる。市長の通る道で、その場所に立ってみて、改めて死の原因が仕事だったと確信した」といいます。
しかし、申請を審査した地方公務員災害補償基金和歌山県支部は二〇〇二年七月、辻田さんの過労自殺を公務外と通知しました。内容は「はじめに公務外ありき」で、事実をゆがめたものでした。月二百時間近い異常な超過勤務について基金は「通常の能力のある人であれば、通常の時間でできたものも、本人は精神疾患の症状の影響により人の何倍もかかってしまった」としたのです。
同年十一月の臨時国会総務委員会でこの問題を取り上げた日本共産党の宮本岳志参院議員は、この基金の文書に怒りで手が震えました。「救うべき人を救っていない」ときびしく追及しました。このとき宮本議員がとりあげた三つの公務災害はその後すべて勝利しました。
審査請求書を書いた山岡大弁護士は「公務外の認定をはねかえしたのは家族、組合も含めた職場の人々が収集した膨大な資料だった。これらが事故発生後の間もない時期から集められたことは大きい」と話しました。
基金の公務外認定を退けた審査会裁定書(二〇〇三年十二月)は、この異常な超過勤務が、肉体ばかりでなく精神をも破壊していたと指摘。これが「うつ病エピソード発症の主因」であり、その重症化によって自殺に至ったものと判断し、「本件死亡は公務に起因したものである」とはっきり認めて公務外認定を取り消しました。
二十七日の報告集会であいさつに立った宮本議員は「認定をおめでとうとは言えない。亡くなった豊さんは帰ってこない。人間を使い捨てにするような世の中を変えるため全力をあげます」と決意を語りました。
報告集会で配られた報告書のとびらに、当時小学校一年生だった長男・まさひろ君の詩が掲載されました。
ぼくの夢
大きくなったら
ぼくは博士になりたい
そしてドラえもんに出てくるような
タイムマシンをつくる
ぼくは
タイムマシンにのって
お父さんの死んでしまう
まえの日に行く
そして
「仕事に行ったらあかん」て
いうんや