2004年3月28日(日)「しんぶん赤旗」
房総半島の南端、海に囲まれた千葉県館山市。花畑が広がり観光客でにぎわう姿からは想像できない数々の戦跡が残っています。この一部が、来月から一般公開されることになりました。
市内の戦跡は、館山海軍航空隊の基地など約五十カ所。房総半島南部は第一級東京湾要塞(ようさい)と呼ばれた軍都でした。房総半島は沖縄の次の地上戦の標的とされ、日本も「最後の抵抗拠点は房総」と本土決戦に備えました。「帝都防衛」の最重要拠点だったのです。
公開される戦跡の一つ、赤山地下要塞は、総延長約二キロの地下ごうです。司令部や医療施設、燃料基地、武器庫などが置かれた全国的にも類のない要塞です。壁には「USA」の印。米軍が調査した跡といわれています。日本降伏直後の一九四五年九月三日、米占領軍は館山の海岸から日本に上陸したのです。
戦跡調査の第一人者、安房歴史教育者協議会の愛沢伸雄さんは、「軍事戦略をになった歴史的地域の館山を通じて、戦争や日本の歩みを知ることができる。とくに子どもたちに戦争を知ってほしい」といいます。
愛沢さんは十年以上にわたり戦跡を調査・研究し、六千人にのぼる見学者のガイドをつとめました。戦跡の保存を願う市民の声は高まり、九五年には「戦後50年・平和の集い」実行委員会が結成され、昨年四月には「戦跡調査保存サークル」がつくられました。
昨年、戦跡を見学した中沢妙子さん(55)は、「戦争を肌で感じた。夫や友人にも話して、自分なりの平和行動をしたい。自衛隊はイラクに派兵されたが、たたかいはこれからだと思った」といいます。
日本共産党の神田守隆市議は、「私たちが十数年前から平和公園構想を示して論議し、ようやく実現したもので大変うれしい」といいます。「地下要塞の土地は登記簿面では多くが国有地だが、戦後、市に払い下げた事実を調査し、市にも確認させるなど議会で明らかにしてきました」
戦闘機の機銃掃射の整備をした射撃場では、山肌に今も弾丸が突き刺さります。別の地下ごうには、「作戦指揮所昭和十九年竣工」の額。天井の龍のレリーフには「金銀の彩色がしてあった」という証言もあります。終戦間近の本土決戦抵抗拠点の姿です。
当時の住民は、防諜(ぼうちょう=スパイ防止)体制のもとで汽車の窓から景色を見ることさえ禁止されました。愛沢さんはいいます。「花栽培農家は『非国民』とされ、花畑はサツマイモ畑に変えられました。抵抗する農民が命がけで種を守りました。二度とこんな戦争をしてはいけない」千葉県・浅野宝子記者
沖縄県南風原(はえばる)町に残る、旧日本軍の南風原陸軍病院(正式名称沖縄陸軍病院)壕(ごう)が保存整備され、二〇〇五年度から一般公開されることになりました。
太平洋戦争の戦跡は文化財保護の対象にはならないという文化庁の文化財指定基準を乗り越えて、一九九〇年に南風原町が独自に文化財保護条例で文化財に指定し、その後文化庁の基準が改められ、広島の原爆ドームなどの文化財指定に道を開いたものです。
太平洋戦争中、唯一国内で住民をまき込んだ地上戦となった沖縄戦の悲劇を象徴する「ひめゆり部隊」が従軍していた所として知られています。
一九四四年の十・十空襲で、那覇市から焼けだされた陸軍病院は、南風原国民学校に置かれました。が、その学校も翌年三月末に焼失したため、近くの黄金森で構築が進められていた壕に移動。沖縄本島の南部に五月末に撤退するまでの二カ月間に、この“地下病院”で地獄絵図が繰り広げられました。正確な記録は残されていませんが、数千人の負傷兵が収容され、二千人近くが亡くなったといわれています。
米軍の空襲や艦砲射撃の下でまともな医療器具や薬剤もなく、傷口からうじがわき、麻酔薬なしで手や足の切断手術が行われ、その叫び声が耳元に残っているという人々がまだいます。南部への撤退時には残された重症患者に青酸カリの入ったミルクが配られたとの証言もあります。
炊事や水くみ、荷物の運搬などに多くの住民が動員され、悲劇を目撃しました。南風原では当時の人口、七千八百九十六人中、三千五百五人(44・4%)が戦死し、身内で犠牲者を出さなかったものはいなかったといわれるほどの被害を受けました。
病院壕は三十カ所もあったといわれますが、地域開発や自然崩壊でそのほとんどが原形をとどめず、わずかに二十号、二十四号の二つが保存に耐えられるありさまです。壕はつるはしとスコップで掘られた一・八メートル方形で九十センチ間隔に木材の横梁(はり)で支えられた実に粗末なものです。
長野県松代では戦争末期、戦争司令部の大本営など国の重要機関を移転させようと、秘密裏に地下壕を掘っていました。この大本営壕を見学したひめゆり部隊の生存者たちは、その頑丈で立派なことに驚き、戦地でたたかっていた人々の命がいかに軽く扱われていたかと涙したとのことです。
それでも南風原町では一九八四年、沖縄県下で先駆けて非核平和都市を宣言し、町民各層で保存整備や活用のための委員会を設け、沖縄戦の“もの言わぬ証人”として保存公開が進められていたものです。
日本共産党町議団も条例改正を積極的に進め、毎年度の予算要求で繰り返し整備を提起し、ようやく実現にこぎつけました。
今でも全国から多くの修学旅行団が訪れていますが、戦争体験のない世代の“学びの場”、そして戦争で犠牲になった人々への“祈りの場”、同時に進められている黄金森公園も含めて“憩いの場”として期待が高まっています。冨里和正町議