2004年2月22日(日)「しんぶん赤旗」
「ウソであってほしい」。一九九四年六月二十七日夜、長野県松本市で起きた松本サリン事件で長男、伊藤友視(ともみ)さん=当時(26)=を亡くした父親の輝夫さん(69)は、千葉県の房総半島の突端に近い太平洋に面した和田浦漁港の町、和田町から祈る思いで電車にのりました。
和田浦港は日本に四カ所しかない捕鯨基地の一つ。和田町は房総半島花栽培の発祥の地。県庁を退職後、船を造り、釣りに出る日々でした。
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輝夫さんは事件のあった夜早く眠り、翌朝四時に海に漁に出ていてテレビのニュースは知りませんでした。「息子が死んだようだ」という近所の人たちの知らせで妻・洋子さん(63)と松本へ向かったのでした。
「死んだのが本当ならおやじのおれが死んだほうがいい」「代われるならおれが…」―。松本智津夫(麻原彰晃)被告(48)率いるオウム真理教が起こしたサリンテロ事件とは知るよしもなく、東京まで外房線特急で三時間。さらに中央線特急「あずさ」にのり三時間半。あせる思いで現地に向かいました。
大学病院の地下室。コンクリートの床にじかに置かれた棺(ひつぎ)。その冷たさに身を凍らせました。
「間違いであってほしい」と長い車中で願いつづけた思いは砕かれ息子の死の現実に向きあわされたのでした。
「同じ空気を吸っていて、なぜ息子が亡くなったんだ」。遺体と対面したとき、理不尽に命を奪われたことへの怒りがわきあがりました。
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当初は「原因不明の毒ガス」によるものとみられ、真相解明を求め、警察へ遺体解剖を要請しました。「なんで死んだのか」の問いに答えない警察。そうこうするうちに地下鉄サリン事件が起き、この時亡くなった犠牲者は十二人に。「悔しい。悲しみを抱えながらずーっと生きてきた」と輝夫さん。海の見えるところにある墓の前で毎日ビールを手向けては「おい。悔しいよ」と語りかける日々となりました。
「とうちゃん帰ってきたよ」。そんな夢に起こされ、ふすまを開けてみるもののそこには息子の姿はありません。
心労とストレスから脳出血で倒れました。奇跡的に意識は取り戻したものの半身不随の体になりました。寝たきりの一年間。リハビリで室内なら歩けるまでに回復するまで二年半かかりました。
輝夫さんには忘れられない思い出があります。北海道で薬学を学んでいた友視さんが大学四年生のとき北海道一周の旅に連れて行ってくれたことです。「男二人。交代で自動車を運転しながらの旅は楽しかった。網走までいきました」と懐かしみます。
「大学ではラグビー部に所属し、やさしい子だった」という輝夫さんの目から涙がこぼれました。「判決が出ても麻原は上告するだろうし、結末を見届けないと死ねない」
夫に代わってオウム公判に東京まで片道三時間かけて通ったのが洋子さん。法廷で間近に見た麻原被告の姿は「外形は人の姿だけど心に人間が住んでいない。私たちは子どもが犠牲になっただけでなく家族みんなが被害に遭いました」
半身不随の夫を介護しながらオウム公判に、ときには月三度も通いつづけた洋子さん。「極刑よりももっと重い刑にしたい。判決は一つの区切り。口を開かない麻原に『息子をなぜ殺したの』と問い続ける私たちの裁きに終わりはありません」
(つづく)
松本サリン事件 一九九四年六月二十七日夜、長野県松本市の住宅密集地で、オウムが裁判官宿舎を狙ってサリンを噴霧した事件。七人が亡くなり、約五百八十人の重軽傷者を出す大惨事となりました。 |