日本共産党

2004年1月5日(月)「しんぶん赤旗」

どう考える 北朝鮮問題

不破議長に聞く(2)

日本共産党の態度(その1)


60年代のある時期までは……

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北朝鮮に向かう貨物船の中で、当時の宮本書記長(右)と不破さん=1968年

 ――北朝鮮問題にたいする日本共産党の態度ですが、この二、三年、政治的思惑からの議論がずいぶん振りまかれました。「しんぶん赤旗」でも、必要な範囲で反論もしたし、歴史的な経過も明らかにしてきたのですが、戦後も半世紀をこえる歴史を経ているだけに、この問題も、まとまった形でふりかえってもらえると、ありがたいと思います。

 不破 私が、党の本部で仕事をするようになったのは、一九六四年のことですが、私が直接経験した範囲でも、今年でちょうど四十年、北朝鮮との関係は、大きく分けると、三つの時期に分かれますね。

 最初の時期は、六〇年代の末ごろまで、正確にいうと、一九六八年が、次の時期に移る転機となった年でした。

 朝鮮戦争も一九五三年にすでに休戦協定が結ばれていましたし、五〇年代の後半から六〇年代というのは、北朝鮮の側で、あとの時期に問題になるような国際的な無法行為は見られない時期でした。

 日本との関係では、戦後、公的な交流はいっさいなく、一九六五年の日韓条約で韓国とは国交を樹立しましたが、その時点でも、北朝鮮とはなんの交渉もありませんでした。

 そのために、戦後の日本では、在日朝鮮人のなかでも、北朝鮮出身の人たちは、北へ帰ろうにも交通の便宜もない、北にいる家族との連絡もうまくゆかない、これが大きな問題でした。そこから、五〇年代末に北朝鮮への帰国をはじめ、北朝鮮との往来の自由を求める大きな運動が起き、赤十字がこれを取り上げ、最後には政府も承認して、北朝鮮への帰国事業が始まりました。私たちも、この運動には協力しましたが、運動そのものは、多くの政党・団体が参加して超党派の形で進められました。

 日本共産党と朝鮮労働党との公的な関係は、いわゆる「五〇年問題」のあと、五〇年代の末ごろから始まったものですが、六〇年代に、世界の共産党がいわゆる「ソ連派」と「中国派」に分かれて論争しあった時期にも、朝鮮労働党は、日本共産党やベトナム労働党とともに、どの大国の陣営にも属さないで、自主派の立場をまもった党でした。日本共産党にたいする、ソ連のフルシチョフの一九六四年の干渉攻撃のときにも、中国の毛沢東派が一九六六〜六七年に開始した干渉攻撃のときにも、朝鮮の党は、干渉反対の旗を明確にかかげました。

 当時は、経済の面でも、朝鮮半島の北と南を比較すると、北の発展にくらべて、韓国の経済の苦しさが目立っているような時代でした。

 ――それ以後の時期とは、ずいぶん違っていたんですね。

 不破 そうです。

1968年――にわかに武力「南進」の旗が

 不破 転機になったのが、実は一九六八年だったんですよ。私たちは、その前の年に、北朝鮮に二つの大きな変化が起きたことに気がつきました。一つは、金日成書記長(当時)にたいする個人崇拝が、公然と始まったこと、もう一つは、韓国への武力介入の危険が表面化してきたことです。

 第一の問題は、いわば国内問題なのですが、第二の問題は、そうはゆきません。

 具体的には、六七年の十二月、金日成氏が、北の人民にたいして、「南の革命的大事変」を「主動的に」迎えよう、と呼びかけたのです。その数カ月前には、金日成氏は、南で革命が起こったら、北のわれわれも、「解放戦争」でこの革命に参加する、と語っていましたから、十二月のこの呼びかけは、南でなにか動乱めいたことが起こったら、武力で「南進」という政策をとることの予告だと見られても、当然のものでした。

 この年の夏ごろから、北朝鮮側の報道では、南での“武装遊撃隊”なるものの活動が、しきりに宣伝されるようになりました。そして、翌六八年の一月には、首都ソウルの市内に「武装小部隊」が現れ、大統領官邸のある青瓦台(せいがだい)を襲撃して、警察部隊に殲滅(せんめつ)される、という事件まで起こったのです。これは、南の民衆のなかから生まれた部隊ではなく、北から送りこまれたものだったことは、ただ一人生き残った隊員の証言で、間もなく明らかになりました。しかし、この事件以後、南の各地での“武装遊撃隊”の活動の報道は、北朝鮮ではいよいよ盛んになりました。

 もしこの状況がさらに発展し、「南進」政策が実行されたら、ベトナム戦争のさなかに第二の朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)となり、アジアも世界もたいへんなことになります。

党代表団が「南進」反対を金日成氏に忠告

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ピョンヤン郊外で金日成氏(左から2人目)と。右から不破さんと宮本書記長(2人目)=1968年

 不破 私たちは、この状況を見て、このまま、事態をなりゆきにまかせるわけにはゆかない、北朝鮮が「南進」政策をとっているのなら、日本共産党も日本の平和・民主勢力もそのような企てには絶対に反対だという意思を明確に伝え、破局を防止するためにできるだけのことをしようと考え、北朝鮮に党代表団を送ることを決定したのです。団長は宮本顕治書記長(当時)で、私も団の一員として加わりました。

 送るといっても、空路や陸路では、中国かソ連を通らないかぎり、北朝鮮には入れませんが、当時は、ソ連とも中国とも干渉に反対する闘争の最中で、その条件はありませんでした。やむをえず、日本から北朝鮮に船荷を運ぶ貨物船が時々あるのを利用することにし、その準備ができた六八年の八月、海路、玄界灘と日本海を越えて、北朝鮮への訪問を実現しました。

 金日成氏との会談では、宮本団長が、あなたがたが「南進」という形で戦争を始めたら、その戦争は日本と世界の民主勢力が誰も支持できない「大義」のないものになる、という、ことの核心をついた問題提起を、するどくおこないました。金日成氏は、それにたいして、「ソ連や中国も心配している」と言いましたが、おそらく、特別そのための代表団を送って、“あなたがやろうとしている戦争は、大義のない、間違った戦争だ”ということを、面とむかって言いにゆく政党は、世界でも日本共産党のほかにはなかったのではないでしょうか。

 緒方 すごいですね。

金日成氏は「南進はしない」と約束したが

 不破 金日成氏は、その会談のなかで、これまでの議論を全部打ち消すような形で、「われわれは主動的に(つまり、自分の方から)戦争を始めるつもりはない」といって、「南進」政策を否定しました。そして、南での“武装遊撃隊”の報道も、それ以後、次第にしりつぼみになり、やがて消えてゆきました。当面の事態は、これで一応、一件落着となりました。

 しかし、第二の朝鮮戦争を、この時期に計画し、ああいう形で公(おおやけ)に宣言したのは、事実ですから、私たちは、北朝鮮に起こっている状況に、一つの異常事態を感ぜざるをえなかったのです。この予感が、七〇年代に、別の、しかもより深刻な形で現れてくることになりました。

 緒方 次の時期の話に入る前に、いまのことで率直な感想を述べたいのですが、「南進」に反対だという意見をいうためにわざわざ北朝鮮を訪問した、このことは、本当に日本共産党の自主独立の立場のまさに真骨頂をしめしたものだと思うんですね。

 普通は、どんな党でも、そういうことはまずやらないですね。外交関係を結んでいる国がそんなことはまず言わないでしょうし、ではどこかの国の共産党がやるかというと、それは考えられません。これは、本当にすごいことだと思いますよ。

 この姿勢は、いま、北朝鮮がおかした数々の無法について、その清算を求めるきっぱりした態度をとっていることと、結びつくわけで、やはりそういうところに、日本共産党の特質がよく現れていることを、痛感します。

 それから、宿舎で室内の会話を盗聴する盗聴器が発見されたというのは、その訪問の時だったんでしょう。

 不破 そうです。

70年代――金日成崇拝の外国への押しつけ

 緒方 それから、その時の会談では、表向きは友好的に終わったとしても、その後の党関係に、変化が起きたのではないか、と思うのですが、そこはどうだったのでしょう。

 不破 その質問に答えるには、次の時期に話を進めながらの方がいいようですね。

 私は、さきほど、異常事態を予感したといいました。たしかに、会談では、「南進」政策の停止が公約されました。訪問の全体も、表向きは友好的に終わりました。しかし、七〇年代に入ってから、予感した異常事態が、金日成氏への個人崇拝の国際的な押しつけという形で、まず表面化してきました。「金日成思想」あるいは「チュチェ(主体)思想」が、世界革命の指導思想だと宣言され、金日成氏を日本革命の「首領」だとする理論までが、日本に持ち込まれる、その六十歳の誕生日(一九七二年)には、贈り物運動を日本全土にわたって組織しようとする、そんなことが、次々と起こってきました。

 日本共産党は、日本の運動の自主性を確固として守る立場から、「赤旗」紙上で、外国の指導者を神格化したり、その「思想」を絶対化したりすることは、国際友好・連帯運動の精神にそむくものであることを解明した論文を発表するなどして、これらの動きに対応しました。

 こういうなかで、北朝鮮の中枢の内部で、公然と日本の政党との関係の再編成が問題になったようです。だいぶあとの時期に北朝鮮から亡命した外交官がいるのです。その人物が「赤旗」の特派員に会った時の取材のなかに、七二、七三年ごろ、“日本共産党は変質した、この党との関係は清算して、日本社会党との関係にきりかえよ”という文書が、外務官僚への金日成指示として流された、という話がありました。時期からいっても、さもありなんと、うなずける話でしたね。社会党だけでなく、公明党が、北朝鮮との関係を強化しはじめたのも、この時期のことでした。公明党の最初の代表団(団長は竹入委員長・当時)が訪問したのは一九七二年、その行動記録には、金日成首相や「チュチェ思想」への礼賛の言葉が連発されていましたから、政党関係の再編成は、そのあたりまで拡大していたのかもしれません。

70〜80年代――拡大する国際的無法行為

 ――予感された異常事態の、もう一つの現れが、国際的な無法行為だったのですか。

 不破 拉致事件の多くは七七、七八年に起きていますが、当時は、これがすぐ北朝鮮に結びつく話とは、分かりませんでした。無法行為がもっとも激しい形で最初に現れたのが、八三年、ビルマ(現在のミャンマー)の首都ラングーン(現在のヤンゴン)で、訪問中の全斗煥韓国大統領の一行をねらった爆弾テロ事件でした。続いて、翌八四年には、日本海の公海上で操業していた日本のイカ釣り漁船が北朝鮮の警備艇の銃撃を受け、船長は死亡、漁船は拿捕(だほ)される、という事件が起きました。これも、公海の上に勝手に線引きをし、漁船がその線を越えたら、侵犯だといって銃撃するのですから、国際法無視の無法行為です。こういうことが、このころから公然と横行しはじめたのです。

 その不法性を私たちが批判すると、「敵に加担するもの」だといって、攻撃をくわえる。こういうことで、それまで、細々とではあったが続いていた関係も、完全に断たれました。それから今日までの約二十年間、私たちは、朝鮮労働党とは、なんの関係ももたないできました。

他党の場合――「窓口外交」の恥ずかしい実態

 ――そういう無法行為にたいして、日本の他の諸政党は、どういう態度だったのですか。

 不破 その時代に、北朝鮮の無法にたいして、それが日本に関係する無法行為であっても、これを正面から批判するという政党は、残念ながら、日本の国内には、日本共産党以外に現れませんでしたね。

 ビルマの爆弾テロ事件についても、日本漁船の銃撃事件についても、迎合するか、見て見ぬふりをするか、が支配的でした。

 最近になって、政界でも、マスメディアでも、北朝鮮の体制の異常さをこれでもか、これでもか、と取り上げますが、国際的な無法行為が広がりはじめたときには、正面から批判するのは日本共産党だけという状態が、ずっと続いたのです。

 政界では、北朝鮮問題といえば、いわゆる「窓口外交」が盛んでした。要するに、政府と政府の交渉がないから、自民党や社会党が「窓口」になって、北朝鮮側の意向を聞いてくる、これは、外交ではないのです。相手から気にいられないと、「窓口」役を果たせないから、無法行為の批判などは、誰も口にしないのです。

 日本漁船への銃撃事件についても、事件の二カ月後に社会党の石橋委員長(当時)が北朝鮮にいって、金日成氏に会い、「あのような時は、逃げなければ撃たない」と言われたことを、“大成果”のように宣伝していたのを見て、あきれたことを覚えています。相手側が不法行為をしているのに、そのことを問題にしないで、日本の漁船に「逃げない」ことを勧める――これが、当時の「窓口」外交の恥ずかしい実態でした。

 「窓口」外交は、自民党と社会党が中心でしたが、公明党も、脇役ながら、それにくわわりました。

拉致問題――自主独立の党と迎合の党との立場が鮮明に分かれる

 ――八八年三月に、参議院予算委で、橋本敦議員が拉致問題を取り上げたのも、文字通り、その共産党ならではの追及だったのですね。

 不破 前の年八七年の十一月に大韓航空機の爆破事件が起きました。その時、日本共産党は、これが北朝鮮の起こした事件であることをいち早く指摘しました(八八年一月)。そして、その犯行容疑者として韓国側に逮捕された人物(金賢姫)の言明のなかに、日本からの拉致被害者の消息が含まれていたことから、橋本議員は、この問題の調査を集中的にすすめ、その結果をもとに、拉致問題についての質問をおこなったのです。

 政府側は、この時も、最初は、北朝鮮との関係になかなか触れようとしませんでした。しかし、事実を詳しくあげての橋本議員の追及のなかで、梶山静六国家公安委員長が、政府としてはじめて、「北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚」であることを認めたのでした。行方不明者一般ではなく、問題が「拉致」の疑惑であることを、そういう言葉ではじめて政府に認めさせたのが、この橋本質問でした。

 この時期になっても、北朝鮮との関連で、拉致問題を取り上げる議員は、他の政党にはいなかったのでした。

 ――翌年の八九年、韓国の盧泰愚(ノテウ)大統領にあてて、いくつかの党の国会議員が連名で、政治犯二十九人の釈放を求める「要望」を提出したことがありました。釈放要求の対象になった政治犯のなかに、拉致の犯行に加わったことを韓国の法廷で認めた人物(辛光洙〔シン・グァンス〕)がいたことが、その後、問題になりましたね。

 不破 そうです。その議員たちには、当時の党派別でいえば、社会党百十五人(土井たか子、村山富市両議員を含む)、公明党六人、社民連二人(菅直人議員を含む)、二院クラブ二人など、衆参両院の百二十八人の議員が加わっていました。みな、拉致の犯人がいたとは知らずに署名した、軽率だった、などと、あとで弁明しましたが、辛光洙の犯行は、橋本さんがその質問で取り上げて、政府側も国会で「不法に侵入した北朝鮮の工作員であろう」と認めていたものです。釈放「要望」書は、そのわずか一年後に出されたものでした。

 日本の国会議員として、外国の政府に、政治犯の釈放を求めるという要請をするのに、どういう人物が対象になっているかを調べないでおこなう、というのは、それ自体が無責任きわまることです。どこかでおぜん立てされていたものに乗ったのかもしれませんが、かりにそうであったとしても、北朝鮮の無法行為があれだけ問題になっているときに、自分が責任をもてないおぜん立てにそのまま乗るということ自体が、「窓口」外交で、北朝鮮側にどんなにのめり込んでいたか、その自主性のなさを物語るものではないでしょうか。拉致問題では、自主独立の党と、迎合をこととする「窓口外交」の党との違いが、もっとも鮮明に現れたのでした。(つづく)


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