2003年11月16日(日)「しんぶん赤旗」
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七月二十三日夜、つめかけた報道陣をかきわけるように、菅直人民主党代表と小沢一郎自由党党首(当時)が東京・赤坂のホテル・ニューオータニでの党首会談に向かいました。「政権選択選挙」のスタートになった民主、自由両党の合併合意のための会談でした。
「細川政治改革政権により、政権交代可能な選挙制度が導入されたが…『仏作って魂入れず』の状態にある」。合意書にこう記した両党は、総選挙直前に合併大会を開き、政界地図の激変の引き金を引くことになりました。そこにいたる過程で、財界はどうかかわったのか。
「民主党が音頭をとってくれればどんな形でも協力する」。小沢氏は、昨年十一月、年来の目標である「二大政党制」に向け、当時民主党代表だった鳩山由紀夫氏らに合併を強く求めました。しかし、これに呼応し合併推進に動いた鳩山氏は、民主党内の反発で代表辞任(同十二月)−。
そのときに動いたのが、京都知事選などで自民党陣営の後援会責任者を務めてきた稲盛和夫京セラ名誉会長・KDDI最高顧問でした。
「鳩山由紀夫さんが失敗した後、電話を下さって、なんとかまとめて欲しいと頼まれた。私も両党が合体すれば政権交代が可能な政治ができる、と思っていたから必死に説得した」(『AERA』十一月十日号)
小沢氏も「稲盛さんは早くから『一緒にならないと駄目だ』と一所懸命にいってくれました」(月刊『政界』十月号)と語っています。
その稲盛氏は、七月一日の民主党「大躍進パーティー」に来賓として招かれ、「日本国民のために大同団結を」とあいさつ。これを聞いた鳩山氏が稲盛氏に最終的な会談のセッティングを申し入れることになります。
稲盛氏の民主・自由合併に向けた仲介と並行して、財界本体で「二大政党制」に向けた仕掛けがすすんでいました。
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一つは、昨年十月、経済同友会(北城恪太郎代表幹事・日本IBM会長)が発表した政界「改造」に向けた提言です。“総選挙は政権党と健全野党が対決する「マニフェスト(政権公約)選挙」にする”、“多党制にならないよう単純小選挙区制を導入する”−この二つで「二大政党制」へ政治地図を塗り替えようという内容です。
マスメディアで「マニフェスト選挙」の“顔”となった北川正恭前三重県知事も「昨年十月ぐらいから、(衣替えする)前の二十一世紀臨調が開店休業状態にあったとき、(同友会で)マニフェスト研究会というタスクフォースをつくり、いろいろ学者を集めて研究会を続けてきた」(七月七日の二十一世紀臨調のマニフェスト提言に関する記者会見)とのべています。
起点は昨年十月にあり、「自民党と民主党とはすでに研究会段階で意見交換を行っている」(北川氏)というのです。
民由合併に先立つ七月十八日には、同友会が「『政権公約(マニフェスト)』で競う総選挙の実現を」と題するアピールを採択。十月一日には、新民主党のマニフェストをめぐり、同友会と新民主党側と懇談するにいたりました。
もう一つは、財界総本山といわれる日本経団連(会長・奥田碩トヨタ自動車会長)がことし一月一日付で発表した「奥田ビジョン」です。ここで、財界の政策を支持する政党に政治献金をあっせんする方針を明らかにしました。
総選挙直前の九月二十五日には、政治献金を促進するための政策評価基準として十項目の「優先政策事項」を発表。消費税増税や法人税引き下げなど身勝手な言い分を並べました。
こうした財界の動きに、菅氏ら民主党執行部は敏感に反応します。七月十六日、日本経団連を訪れ、奥田氏と会談。献金あっせんの政策評価について、岡田克也幹事長が「政策実現の実績だけでは与党に有利になる。政治改革や政権交代への姿勢なども基準に入れてほしい」と求めました。
経済同友会の単純小選挙区構想にも、民主党は「比例代表の八十議席削減」という公約をマニフェストに盛り込むことでこたえました。
「まだまだ実力が足らないなと言われていた民主党も、おかげさまで小沢自由党と合流して、財界の皆さんもね、この民主党なら頼りになりますねと、初めて言っていただけるようになった」
当事者の一人、鳩山由紀夫前民主党代表が総選挙中(十月二十九日)にこう述懐したように、民由合併は、財界が安心でき、献金によってひももついた“健全野党=自民党のスペアとなる保守政党”になることが目的でした。財界が狙うアメリカ型の二大政党に向けたシナリオにのった合併劇はこうしてつくられていったのでした。(つづく)