2003年11月14日(金)「しんぶん赤旗」
土井たか子・社民党党首の党首辞任にいたる経過には、旧社会党から社民党にいたる同党の政治路線の変遷が色濃く刻まれています。
土井氏は、旧社会党時代の八六年から九一年まで委員長、その後衆院議長(九三―九六年)を務めたあと、九六年に党名変更した社民党の党首につきました。
しかし、土井氏が衆院議長を務めていた時代に、旧社会党−社民党は基本路線で大きく変質していました。九三年七月、社会党は総選挙で議席を半減させたものの、自民党を離党した小沢一郎氏らの新生党など八党会派による細川連立政権に参画。自民党政治の「基本路線継承」を掲げた細川内閣で、小選挙区制導入やコメ輸入自由化を推進しました。
その後、社会党は、政権内の確執から、一年後に連立を離脱、自民党やさきがけと新たな連立を組み、村山富市社会党委員長を首相とする自社さ連立政権を発足させました。村山首相は就任直後の所信表明演説と答弁で「日米安保体制堅持」「自衛隊合憲」を表明。社会党としても、直後の大会で村山答弁を追認して基本路線を転換、長年掲げてきた「中立・非同盟」路線を「歴史的役割を終えた」として投げ捨てたのです。
そして、村山内閣・橋本内閣の与党として、今日の日米ガイドライン・有事法制につながる「日米安保共同宣言」に賛成(九六年)。沖縄米軍基地の再編強化につながる「日米特別行動委員会(SACO)」合意(九五年十二月)を推進し、海上基地建設に道を開きました。
消費税問題では、廃止の立場を投げ捨て、村山内閣で消費税5%への引き上げを強行しました(九四年十一月)。
憲法問題でも九五年の「活動計画案」で「日本国憲法の精神を創造的に発展させる」などとして「創憲」論を打ち出したこともあります。
九六年一月には、党名を社民党と変更。その年の九月に土井氏が党首に就任しました。その後、護憲や自衛隊の海外派兵反対を強く押し出すようになり、女性議員や“市民派議員”の登用でイメージ回復を狙いましたが、旧社会党時代の基本路線の変更については何の清算もおこなわれませんでした。
今回の総選挙では、民主党が憲法改定を政権公約に掲げているにもかかわらず、土井氏は「小泉内閣が倒れた場合、民主党を軸とした連立政権に社民党も参加する」(五日)と明言。護憲の立場から大きく後退しました。(藤田健記者)