日本共産党

2003年11月12日(水)「しんぶん赤旗」

21歳、バイト51日目で過労死

子の無念晴らしたい 損害賠償求め遺族が提訴

月93時間残業、帰宅は深夜


 アルバイトの身でありながら一カ月の残業時間が九十三時間。わずか入社五十一日後に過労死した息子の無念を晴らしたいと、会社を相手取って損害賠償請求訴訟を起こした母親がいます。大阪府枚方市の廣瀬みどりさん(56)です。

 「10:00に起きる 雨ふってたらおくって」。廣瀬勝(まさる)さん=当時(21)=は、みどりさんにそんなメモを残して床につきました。しかし、そのまま目を覚ますことはありませんでした。死因は心筋虚血性心疾患。一九九六年六月十二日のことです。

弁当かき込み

 勝さんは、大阪市北区にある中古車情報誌の制作会社、ジェイ・シー・エム(本社・東京都千代田区)にアルバイトとして勤務していました。

 亡くなる直前の九日間は休みなしで、そのうち五日間は退社時刻が午前零時を回り、午前三時以降が二度ありました。食事休憩もまともにとれず、コンビニ弁当を急いでかき込み、すぐに仕事につく毎日でした。

 亡くなったその日は午前三時二十二分まで仕事をし、枚方市の自宅に四時半ごろ帰宅。その一時間半後、就寝中に急死しました。ちょっと仮眠し、また仕事に出かける予定でした。

 「起きなさい、と何度叫んでも息子は目を覚ましませんでした…」。当時のことを思い起こし、みどりさんの目から涙があふれました。

 勝さんは、正社員になれるという会社側の説明を信じ、体にむち打って働いていました。もともと細身だった体が入社後七、八キロもやせて五五キロになり、一八〇センチの体は不釣合いなほどやせこけて見えました。

食事も入らず

 原稿や写真の締め切りに追われ、入社まもない不慣れな勝さんにとって緊張の毎日でした。

 亡くなる四日前には友人の女性に、「仕事が終わるまで帰れない。歩くのもしんどいから会社まで迎えにきてほしい」と訴えるほど疲れ切っていました。自宅でも、みどりさんが「ご飯食べへんの?」と聞くと、「しんどいからいらない」とつっけんどんにいい、青白い顔色で不機嫌な表情をしていました。

 「体を壊すくらいなら辞めなさいといいましたが、それ以上強くいえませんでした。息子は専門学校で編集デザインを学び、希望の仕事に就けたことをすごく喜んでいましたから。しかし、しがみついてでも仕事を辞めさせておけばよかった、と後悔しています。亡くなったとき、過労死にちがいないと思いました」とみどりさん。

 天満労働基準監督署は労災を認めませんでしたが、不服審査請求で二〇〇二年五月八日に逆転認定されました。しかし、過酷な労働実態に目をつむり、謝罪をしない会社の責任は重大として、直後の五月二十九日、大阪地裁に損害賠償請求訴訟を起こしました。

 会社側は「死は予測しえない出来事。会社に責任はない」と突っぱねています。一日二十時間を超える勤務を頻繁におこなっていた同僚もいて、職場は誰が倒れてもおかしくない長時間労働がはびこっていました。

 時間外労働協定(三六協定)もなく、休憩時間や休日も制度化していませんでした。深夜まで仕事をさせながら健康診断は年一回しか実施せず(労働安全衛生法では深夜業に常時従事する労働者は年二回必要)、勝さんは入社時に健康診断もしていませんでした。

勝訴するまで

 「息子は中学時代はサッカークラブに入り、高校時代はマウンテンバイクのクラブに入って、友人と自転車で北海道旅行するほど元気な子でした。そんな息子の命があっという間に奪われました。謝罪もしない会社を許すことができません。必ず勝訴するまでがんばりたい」とみどりさんは決意を語ります。


もどる
「戻る」ボタンが機能しない場合は、ブラウザの機能をご使用ください。

日本共産党ホームへ「しんぶん赤旗」へ


著作権 : 日本共産党中央委員会
151-8586 東京都渋谷区千駄ヶ谷4-26-7 Mail:info@jcp.or.jp