2003年11月12日(水)「しんぶん赤旗」
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総選挙で議席を減らした保守新党が解党し、自民党への合流を決めたことで、小泉政権は名実ともに「自公政権」となりました。保守新党は、もともと自民党を離党した議員などが新進党−自由党−保守党、新進党−民主党などを経て合流した政党で、根は自民党と一体です。経団連の政党評価でも自民党以上に高い評価を得る財界べったり党でもありました。しかし、保守新党という“クッション”をなくしたことで、自民党の公明党頼りがよりいっそう浮き彫りになります。
「三党と二党では多少は確かに違ってくるのではないか」(保守新党の井上喜一防災担当相)、「本当は三極あった方が安定している」(公明党の坂口力厚労相)
自民、公明、保守新の三党から自民、公明両党の連立政権になることに十一日、閣僚からこんな見方が出ました。自民党と公明党との連立を安定させる“クッション”をなくしたことへの不安の表明です。
十一日付各紙も、「消えた自・公の『緩衝材』」(「朝日」)「“緩衝材”失った自公」(「読売」)「連立『緩衝役』消える」(「日経」)など、一様に“クッション”役の不在で、きしみが出てくるのではないかと指摘しています。
もともと、“クッション”役は、公明党が野党時代に連立の“条件”として、自民党側に求めたものでした。九八年の参院選後、野中広務官房長官(当時)から連立を打診された神崎武法代表が「それ(自公連立)にはクッションが必要だ」(「毎日」一九九九年七月二十五日付)と述べたといわれます。それまで野党として水面下で自民党を支えていたものの、公然と与党入りするためには「クッション」があった方が都合がいいという打算です。
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自民党の側も党内の批判をおさえるために、緩衝材の存在が好都合でした。
その結果、自民党はまず、九九年一月に小沢一郎氏率いる自由党と連立。その九カ月後に公明党が連立に加わり、自自公連立政権がスタートしたのです。その後、自由党が分裂したため、連立相手は、保守党、保守新党と変わりましたが、時々の緩衝材となって、自公連立がむきだしになるのを避けてきたのです。
しかし、自民、公明の一体ぶりは連立四年でいっそうすすみました。
今回の総選挙でも、公明党は、百九十八人の自民党公認候補を推薦しました。そのうち、百六十人が当選。実に八割もの当選率です。小選挙区で落選しても惜敗率で比例区で復活する候補者も二十七人に及びました。自民党候補当選者二百三十七人でみると、公明党推薦候補は、67・5%と過半数を超えました。
蒲島郁夫・東大教授は「読売」十一日付で、「自民の組織力の低下」を指摘。「公明なしでは戦えなくなっている」「これは自民にとって、将来の悲観材料だ」と指摘しています。「毎日」同日付も独自の試算で「公明票が自民党候補に全く入らなかった場合を想定すると168人のうち半分の81人が落選」としています。
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こうした状況にマスメディアも「公明党頼みに、自民党内からは『公明は麻薬と同じだ。よく効くが依存症から抜け出せなくなる』と自嘲(じちょう)の声も聞こえる」(「朝日」十一日付社説)と指摘しています。
自公連立がむき出しになることで、相次ぐ海外派兵法の制定や社会保障の連続改悪などの悪政がはびこるだけでなく、地域振興券にみられたような党利党略の政治がまかりとおることにもなりかねません。